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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第39話「忘れないために」

 吹雪の翌日、空き地にようやく人が集まった。


 雪の表面は新しい層で硬く、踏むと足元できしむ音がした。子どもたちは外に出てすぐに駆け回ったが大人たちは焚き火の周りに集まり、木の杖や革袋を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。

 誰もがまだ住居の中の空気を引きずっていた。


 ムロが立った。


 ムロは焚き火を回り込んで丘の中央の方に出てきた。背筋を伸ばすと、ムロは族の中で背の高い男だった。

「こんな小屋に押し込められて」


 ムロの声は低かった。だがよく通った。


「これが、定住か」


 空き地の音が止んだ。

 火の弾ける音と遠くの雪が崩れる音だけが残った。


「先祖は」


 ムロは丘の北の方を目で示した。

「空の下で生きてきた。空を屋根にしてきた。風が来たら、風の通る場所を選んで移った。雪が来たら、雪の少ない場所へ、移った。それがわしらだった」


 ムロは焚き火の脇に座っている族民をひと回り見た。


「五日、外に出られなかった。お前ら、それを何とも思わんのか」


 サガが口を開いた。

「前は吹雪が来たら、避けた」


 サガの声は、ムロほど通らなかった。だが止まらなかった。

「吹雪の方角を見て逆に移った。動けば、避けられた。今は——動けん」


 誰も、すぐには返さなかった。

 火が一度ぱちりと弾けた。


 ガランが立ち上がった。


 ガランは焚き火を回り込まなかった。座っていた場所から、そのまま、ムロを見た。

「動いて、凍え死んだ者も、いた」


 ガランの声は、ムロより、低かった。

「お前は忘れたか」


 ムロは何か言いかけて口を動かしかけた。だが開いた口が、そのまま、閉じた。

 ムロは焚き火の方へ視線を落としてしばらく動かなかった。それから、自分が立っていた場所にもう一度座り直した。

 座ったあとも、ムロは何も言わなかった。


 ソウは、丘の中央の少し外れに立って、その流れを終わりまで見ていた。

 ガランの声には勝った、という響きがなかった。ムロの座り直しには負けた、という形がなかった。

 ただ、二つの正しさが、火の周りですれ違って止まった。



 翌日の朝、バアが起きてこなかった。


 カナがバアの住居の革幕を持ち上げてすぐに引っ込めた。

「バアが起きないよ」


 カナの声は初雪の朝の声とは違った。


 ソウは住居の中に入った。

 バアは寝床に横になったまま、目を開けていた。だが起き上がろうとしなかった。胸の動きがいつもより速い。咳が短い間隔で続いていた。

 冬の入り口の朝のようには起き上がれないのではない。あの朝は目を覚ましたあとに起き上がる気力がまだ手元に戻ってきた。今朝は起き上がる、という気力そのものを咳が削っていた。


「バア」


 ソウは寝床の脇に膝をついた。

「薬草はどれを使えばいい」


 バアは目だけで薪小屋の方を示した。

「あの束の」

 バアの息は短かった。

「赤い、根のほう。煎じて、飲む」


 ソウは外へ出て、薪小屋の脇から、乾いた束を持ち帰った。

 赤茶色の節のある根。バアが夏のうちに薬草畑から抜いて、束ねて干したものだった。

 ソウは手の中で根を折り、欠片を陶器の鉢に入れた。水を加える。火の上に三つの石を立てて鉢を載せた。

 時間がかかった。半刻、一刻。

 水が色を変えて澄んだ赤茶になり、湯気の匂いが苦い香りに変わっていく。


 木の桶では煮出せなかった。火に直接かけられないからだ。木の桶の時代は、湯を別の鉢で沸かしてそこに薬草を浸すしかなかった。それだと根の硬い部分から有効な成分が出ない。

 今は、根をぐらぐらと煮出せる。

 陶器が変えた。


 ソウは煎じ汁を、別の小さな鉢に分けて、バアの口元に運んだ。

 バアは少しずつ、口に含んだ。一口間を置いて、もう一口。


「効くかのう」


 バアは目を閉じたまま、呟いた。


「効きます」


 ソウは答えた。


「お前が言うと」


 バアは少しだけ、口の端を緩めた。

「効く、気がするよ」


 カナがバアの手を握っていた。

 バアの手は、いつもより、軽かった。指の関節が、骨の形のまま、皮の下に浮いていた。


「バア」


 カナは声をためた。

「大丈夫、だよね」


「大丈夫じゃよ」


 バアの目は閉じたままだった。

「年寄りは、冬に弱いだけじゃ」


 カナはバアの手を両手で包んだまま、しばらく動かなかった。



 昼を過ぎて、煎じ汁の二杯目を飲ませてから、バアの咳が少しだけ間遠になった。

 眠ったわけではなかった。だが目は半ば閉じていた。

 ソウは寝床の脇に座ったまま、しばらくバアを見ていた。


 あの初めて立てなくなった朝、バアは「冬はまだ来ておらん」と言って起き上がった。

 今日のバアは、それを言わなかった。


 冬は来ていた。

 そして、バアの中の何かは、あの朝よりも、確かに前へ進んでいた。

 咳の頻度。手の軽さ。声のかすれ方。どれも、戻っていない。回復はする。だが戻り切らない場所が、毎回、少しずつ、増えている。


 ソウは、自分の指先を、膝の上で軽く握った。

 バアが、いつかはいなくなる。それは、ソウが最初から知っていたことだった。だがいなくなる時期が、紙の上の数字ではなく、目の前の手の軽さとして迫っていた。


 その時、ソウの頭の中に別のものが浮かんだ。


 バアの頭の中にある、薬草の知識。

 どの草が熱を下げるか。どの根が痛みを和らげるか。どの実が毒を持ち、どの葉を傷に貼れば、化膿を防げるか。

 全部、バアの頭の中にしかない。

 バアがいなくなったら、消える。


 声で伝えるしか、ない。だが声で伝えたものは聞いた者の頭の中にまた入るだけだ。聞いた者が忘れれば、消える。聞いた者がいなくなれば、消える。

 二度消える機会がある。

 形に残せないか。


 ソウは膝の上の指先をほどいた。


「バア」


 ソウは呼びかけた。

 バアは目を薄く開けた。


「教えて、ほしいことが、あります」


 ソウは少し言葉を選んだ。

「薬草のこと——全部」


「全部」


 バアは繰り返した。


「バアの頭の中にある、知識を。俺にも、分けてください」


 バアの目がゆっくりとソウを見た。

 長い視線だった。咳は、その間、止まっていた。

 やがてバアは、寝床の中で小さく頷いた。


「わしの知っていることは」


 バアの声はまだかすれていた。

「全部、お前に教えておくよ」



 その日から三日、バアは寝床に伏せたまま、薬草の知識を語った。


 熱を下げる葉、咳を鎮める根、痛みを和らげる樹皮、傷の化膿を防ぐ葉、毒を消すための別の毒に近い実。一種類ごとに、見分け方、採る季節、乾かす方法、煎じる量、飲ませる頻度をゆっくりと繰り返した。

 ソウは寝床の脇で聞いた。

 頭の中の整理しやすい場所に一つずつ、並べて置いた。これは熱、これは咳、これは痛み、これは傷。並べて置くだけで忘れない自信は、半分しか、なかった。

 残りの半分が、ソウの中で別の問いを押し続けていた。


 声で聞いた。聞いた声はソウの頭に入った。

 もし、ソウがこれを誰かに伝える前に何かあったら。

 もし、伝えた相手が聞き違えたら。

 もし、何代か後に、誰かが別の意味で覚えてしまったら。


 声は消える。声はずれる。

 形に残せれば、消えない。ずれない。

 だが形にする方法を、ソウはまだ持っていなかった。


 バアの語りの合間に、ソウは膝の上で指先を動かした。

 地面に線を引きたかった。今、聞いたばかりの薬草の名と見分け方を。

 線で形に。

 線が——意味を持てるなら。


 ソウは、自分の中で新しい問いが立ったのを感じた。

 まだ答えはなかった。だが問いが立った場所ははっきりとしていた。



 四日目の朝、バアが寝床の上に半身を起こした。


「もういいよ」


 バアは少しだけ笑った。

「続きはまた、立てるようになってから、話そう」


 バアの咳はまだ続いていた。だが起き上がれた。

 カナが脇から、バアの背を軽く支えた。


 ソウは頭の中に並べた薬草の知識をもう一度、最初から、見渡した。

 全部は入っていなかった。三日では終わらなかった。

 だが入っていない部分があることを、ソウは知ってしまった。


 知ってしまった以上、もう声だけに預けてはおけない。


 ソウは住居を出て、空き地の脇の雪の積もった岩の表面を見た。

 岩の上に誰かが歩いた跡が、線の形で残っていた。

 線は、何かを伝えていた。誰が、いつ、どちらへ歩いたのか。

 線は声を出さずに知らせていた。


 ソウは、その岩をしばらく見ていた。

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