表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/42

第38話「初雪」

 朝、住居の入口の革幕を持ち上げた手が止まった。

 白い。

 地面の色が、ない。岩の角も、枯れた草の束も、薪の山の輪郭も、ぜんぶ白の下に均されている。空はまだ薄暗いのに、地面の方が明るい。雪が、夜のうちに、降り積もっていた。


「雪!」


 声は、丘の反対側から上がった。

 カナだった。革袋を抱えたまま、走り出てきている。足が雪に踏み込まれて、白の表面に小さな穴がいくつも残った。


「雪だよ! みんな、雪!」


 カナは振り向いて、両手を広げた。掌の上に雪が落ちる。落ちて、すぐに溶ける。

 カナはそれを見て、笑った。



 ソウは、自分の住居の前から、雪の表面を見ていた。


 去年も雪は降った。

 去年の雪は、別のものだった。移動の途中で降られた雪。膝まで埋まる雪を踏みながら、次の宿り場を探した夜。誰の小屋もなく、岩の陰で身を寄せ合った夜。火がうまく起きないまま、明け方に二人ぶんの燻製肉を全員で分けた朝。

 あの雪は白くなく灰色だった。


 今朝の雪は、白い。

 住居の屋根に積もり、屋根の縁から、薄い煙が一筋上がっている。中で火が燃えている。粒は壺の中で、湿気からも鼠からも遠い。燻製肉は薪小屋の奥に積まれている。


 雪が、綺麗だと思える。

 ソウは、その思考のしかたが、自分の中で初めて起きていることに、少しだけ驚いた。



 昼までに、子どもたちが雪の上に転がった跡が、丘のあちこちに残った。


 カナは何度も外に出ては、雪の塊を握ってまた落とした。

「冷たい」

 カナは指を口に当てて、それから、また雪を掴んだ。

「冷たいけど、綺麗」

 その横で、ナツが粒の鉢を抱えて住居に運び込みながら、足元の雪を踏んでいた。雪に踏まれる音が土とは違う。乾いた音と、湿った音の間。

 ガランは住居の入口に立って、雪の積もり方を見ていた。風はまだ静かだった。

「降り方が、優しい」

 ガランは短く、それだけ言った。

「明日も、こうとは限らん」


 昼に、ナツが粥を炊いた。

 陶器の鉢の縁から、湯気が真っ直ぐに上がった。外が冷えているほど、湯気の立ち方は強い。バアが鉢の前まで近寄って、湯気の上に手を翳した。

「冬に、温かいものを、毎日、食えるとはのう」

 バアは笑った。咳は、その日は出なかった。


 去年の冬、バアの隣にいた老人は、移動の途中で、力尽きた。雪の積もる岩の脇で、毛皮を被ったまま、起き上がらなかった。

 それを覚えている者は、住居の中に、まだ何人かいた。誰も口には出さなかった。



 二日目は、空が低くなった。


 雲が、丘の上の高さよりも、少し低い場所に広がっている。雪は朝のうちは舞う程度だった。だが昼を過ぎてから、降り方が変わった。粒が大きくなり、横に流れ始めた。

 風が、出てきた。

 住居の革幕が一度、内側から押されるように膨らんだ。次に、外側から押されて、骨組みが軋む音がした。


「来るぞ」


 ガランの声は低かった。

 族民は薪を中に運び込み、水の壺を入口の脇に寄せ、革と毛皮を住居の内側の壁に重ねた。


 夜、ソウは自分の住居の中で、壁の隙間から細く入ってくる冷気を、頬で受けた。

 壁の藁編みに、外側から塗られた粘土が、所々で薄くなっている。乾いて縮んだ場所だ。隙間から、外の風の音が、糸のように細く中まで届いていた。



 吹雪は、三日目の朝から、本物になった。


 外は、白くなく灰色だった。雪は積もるよりも先に、横へ流れていく。視界は、丘の半分も届かない。

 住居の壁が、一晩で内側まで冷えていた。


「粘土が、剥がれている」


 テツが革幕の隙間から外を覗いて、戻ってきた。

「西側の三軒。壁の上のほう。粘土が、ぱりぱり、落ちている」


「乾くと、縮む」


 ソウは答えた。

「縮むと、隙間が、できる」


「貼り直しても、また同じだ」


 テツは少し苛立った声を出した。

 苛立ちはテツの常ではない。指先が、いつもより速く動いている。


「……何か、混ぜろ」


 ソウは少し考えてから、言った。

「草の繊維。乾いた草を、細かく刻んで、粘土に練り込む。乾いて縮むときに、繊維が引っ張って、ひび割れを抑える」


「草?」


「ある。薪小屋の脇の夏の草の束。あれを、ほぐす」


 テツはしばらくソウの顔を見て、それから頷いた。



 吹雪の中、テツとダイとヒガが、薪小屋まで行って、草の束を運んできた。

 住居の中で、草を細かく裂く。乾いた草は、指で揉むと繊維がほぐれて、ひと掴みごとに、軽い屑が床に落ちた。

 ほぐした草を粘土と水に混ぜる。混ぜると、粘土の中に、白い筋がいくつも見えた。

 その粘土を革袋に入れて、外へ運ぶ。革幕を一度開けるたびに、雪と風が室内まで吹き込んできた。

 壁の剥がれた場所に、新しい粘土を塗る。指先がすぐに冷たくなる。塗ったそばから、表面の水分が凍りそうになる。それでも、塗り終えたら革幕を閉めて、住居の中に戻る。


 翌朝。

 テツが外を確かめに出て、戻ってきた。

「剥がれてない」


「割れも、ないか」


「細い割れはいくつかある。だが、落ちてはいない」


 テツは息をついた。

「これで、もつ」


 ソウは頷いた。

 応急処置だ。春が来て雪解けが始まれば、また粘土は変わる。だが、この冬を越すには、これで十分だった。



 吹雪は五日続いた。


 四日目と五日目は、外に出られなかった。

 水は、入口の脇に置いた壺の分で、なんとか足りた。粒は中に運び込んだ分があった。燻製肉は、住居ごとに分けて吊るしてあった。


 だが、住居の中は狭かった。

 二十三人が五棟に分かれて入っている。一棟に四人から五人。煮炊きの煙が抜けきらず、目に染みる夜があった。誰かが寝返りを打つ音、咳をする音、毛皮を引き寄せる音が、全部近かった。


 四日目の夜、ガランの住居で、サガが何度か外を覗いた。

 覗いては、革幕を閉めて、また座る。座ってから、足を組み直す。組み直してから、また革幕の方を見る。

 ガランはそれを見ていたが、何も言わなかった。


 ソウの住居でも、ヒガが膝を抱えて、爪で床の土を引っ掻いていた。

「五日も外に出られないのは、初めてだな」

 ヒガは独り言のように呟いた。

 返事を求めている口調ではなかった。

 ナツが反対側の壁ぎわで、粒の選別を続けていた。指先で粒の大きさを確かめながら、太いものを別の小皿に移していく。手を動かしていれば、座っていられた。


 ソウも、することがなかった。

 外に出たい、という感情ではない。だが、頭の中で次の段取りを組み立てたいのに、住居の中の空気は、考えごとに向いていなかった。煙、人の体温、毛皮の匂い、誰かの咳、誰かの寝息。視界の隅に、いつも誰かが入っている。

 考える、という行為には距離が要る。距離が、住居の中にはなかった。


 夜、ヒガが寝返りを打って、ダイの肩に肘を当てた。

「悪い」

 ヒガは小声で言った。

 ダイは「ん」とだけ返してまた目を閉じた。

 ヒガは、しばらく天井の方を見ていた。



 別の住居からは声が聞こえた。


 ムロの住居だった。

 声の中身までは聞き取れない。ただ、低く長く続く一人の声と、それに被せるようなもう一人の声があった。誰かが諫める声も、混じっていたかもしれない。

 だが、革幕は開かなかった。誰も外には出てこなかった。

 吹雪の音の方が、声よりも大きかった。


 ソウは、それを聞きながら、自分の住居の革幕の縁を、目で追った。

 冬は、まだ入り口だった。



 六日目の朝、風が止んだ。


 革幕を持ち上げると、外は、白に戻っていた。雪の表面に新しい層が積もり、丘の輪郭が、また均されている。空には、雲の切れ目から、薄い陽が差し始めていた。


 カナが、また走り出てきた。

「雪が、止んだよ」


 カナの声は、初日のように高くはなかった。だが、笑っていた。

 ガランは住居の前で、丘の北の方角を長く見ていた。

「もう一度来るな」


 ガランは独り言のように言った。

「これは、まだ最初の一回だ」


 ソウは、丘の中央に立って、五棟の屋根を見渡した。

 屋根の上には、雪が残っている。粘土の壁は、剥がれていない。煙が、また一筋ずつ、上がり始めている。

 粒の壺は、空き地の脇で、雪に半分埋もれていた。蓋は、ぴったり閉まったままだった。


 住居の中で二十三人が、まだ少し、息をひそめていた。

 吹雪は止んだ。だが、苛立ちは、まだ住居の中に、残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ