第38話「初雪」
朝、住居の入口の革幕を持ち上げた手が止まった。
白い。
地面の色が、ない。岩の角も、枯れた草の束も、薪の山の輪郭も、ぜんぶ白の下に均されている。空はまだ薄暗いのに、地面の方が明るい。雪が、夜のうちに、降り積もっていた。
「雪!」
声は、丘の反対側から上がった。
カナだった。革袋を抱えたまま、走り出てきている。足が雪に踏み込まれて、白の表面に小さな穴がいくつも残った。
「雪だよ! みんな、雪!」
カナは振り向いて、両手を広げた。掌の上に雪が落ちる。落ちて、すぐに溶ける。
カナはそれを見て、笑った。
*
ソウは、自分の住居の前から、雪の表面を見ていた。
去年も雪は降った。
去年の雪は、別のものだった。移動の途中で降られた雪。膝まで埋まる雪を踏みながら、次の宿り場を探した夜。誰の小屋もなく、岩の陰で身を寄せ合った夜。火がうまく起きないまま、明け方に二人ぶんの燻製肉を全員で分けた朝。
あの雪は白くなく灰色だった。
今朝の雪は、白い。
住居の屋根に積もり、屋根の縁から、薄い煙が一筋上がっている。中で火が燃えている。粒は壺の中で、湿気からも鼠からも遠い。燻製肉は薪小屋の奥に積まれている。
雪が、綺麗だと思える。
ソウは、その思考のしかたが、自分の中で初めて起きていることに、少しだけ驚いた。
*
昼までに、子どもたちが雪の上に転がった跡が、丘のあちこちに残った。
カナは何度も外に出ては、雪の塊を握ってまた落とした。
「冷たい」
カナは指を口に当てて、それから、また雪を掴んだ。
「冷たいけど、綺麗」
その横で、ナツが粒の鉢を抱えて住居に運び込みながら、足元の雪を踏んでいた。雪に踏まれる音が土とは違う。乾いた音と、湿った音の間。
ガランは住居の入口に立って、雪の積もり方を見ていた。風はまだ静かだった。
「降り方が、優しい」
ガランは短く、それだけ言った。
「明日も、こうとは限らん」
昼に、ナツが粥を炊いた。
陶器の鉢の縁から、湯気が真っ直ぐに上がった。外が冷えているほど、湯気の立ち方は強い。バアが鉢の前まで近寄って、湯気の上に手を翳した。
「冬に、温かいものを、毎日、食えるとはのう」
バアは笑った。咳は、その日は出なかった。
去年の冬、バアの隣にいた老人は、移動の途中で、力尽きた。雪の積もる岩の脇で、毛皮を被ったまま、起き上がらなかった。
それを覚えている者は、住居の中に、まだ何人かいた。誰も口には出さなかった。
*
二日目は、空が低くなった。
雲が、丘の上の高さよりも、少し低い場所に広がっている。雪は朝のうちは舞う程度だった。だが昼を過ぎてから、降り方が変わった。粒が大きくなり、横に流れ始めた。
風が、出てきた。
住居の革幕が一度、内側から押されるように膨らんだ。次に、外側から押されて、骨組みが軋む音がした。
「来るぞ」
ガランの声は低かった。
族民は薪を中に運び込み、水の壺を入口の脇に寄せ、革と毛皮を住居の内側の壁に重ねた。
夜、ソウは自分の住居の中で、壁の隙間から細く入ってくる冷気を、頬で受けた。
壁の藁編みに、外側から塗られた粘土が、所々で薄くなっている。乾いて縮んだ場所だ。隙間から、外の風の音が、糸のように細く中まで届いていた。
*
吹雪は、三日目の朝から、本物になった。
外は、白くなく灰色だった。雪は積もるよりも先に、横へ流れていく。視界は、丘の半分も届かない。
住居の壁が、一晩で内側まで冷えていた。
「粘土が、剥がれている」
テツが革幕の隙間から外を覗いて、戻ってきた。
「西側の三軒。壁の上のほう。粘土が、ぱりぱり、落ちている」
「乾くと、縮む」
ソウは答えた。
「縮むと、隙間が、できる」
「貼り直しても、また同じだ」
テツは少し苛立った声を出した。
苛立ちはテツの常ではない。指先が、いつもより速く動いている。
「……何か、混ぜろ」
ソウは少し考えてから、言った。
「草の繊維。乾いた草を、細かく刻んで、粘土に練り込む。乾いて縮むときに、繊維が引っ張って、ひび割れを抑える」
「草?」
「ある。薪小屋の脇の夏の草の束。あれを、ほぐす」
テツはしばらくソウの顔を見て、それから頷いた。
*
吹雪の中、テツとダイとヒガが、薪小屋まで行って、草の束を運んできた。
住居の中で、草を細かく裂く。乾いた草は、指で揉むと繊維がほぐれて、ひと掴みごとに、軽い屑が床に落ちた。
ほぐした草を粘土と水に混ぜる。混ぜると、粘土の中に、白い筋がいくつも見えた。
その粘土を革袋に入れて、外へ運ぶ。革幕を一度開けるたびに、雪と風が室内まで吹き込んできた。
壁の剥がれた場所に、新しい粘土を塗る。指先がすぐに冷たくなる。塗ったそばから、表面の水分が凍りそうになる。それでも、塗り終えたら革幕を閉めて、住居の中に戻る。
翌朝。
テツが外を確かめに出て、戻ってきた。
「剥がれてない」
「割れも、ないか」
「細い割れはいくつかある。だが、落ちてはいない」
テツは息をついた。
「これで、もつ」
ソウは頷いた。
応急処置だ。春が来て雪解けが始まれば、また粘土は変わる。だが、この冬を越すには、これで十分だった。
*
吹雪は五日続いた。
四日目と五日目は、外に出られなかった。
水は、入口の脇に置いた壺の分で、なんとか足りた。粒は中に運び込んだ分があった。燻製肉は、住居ごとに分けて吊るしてあった。
だが、住居の中は狭かった。
二十三人が五棟に分かれて入っている。一棟に四人から五人。煮炊きの煙が抜けきらず、目に染みる夜があった。誰かが寝返りを打つ音、咳をする音、毛皮を引き寄せる音が、全部近かった。
四日目の夜、ガランの住居で、サガが何度か外を覗いた。
覗いては、革幕を閉めて、また座る。座ってから、足を組み直す。組み直してから、また革幕の方を見る。
ガランはそれを見ていたが、何も言わなかった。
ソウの住居でも、ヒガが膝を抱えて、爪で床の土を引っ掻いていた。
「五日も外に出られないのは、初めてだな」
ヒガは独り言のように呟いた。
返事を求めている口調ではなかった。
ナツが反対側の壁ぎわで、粒の選別を続けていた。指先で粒の大きさを確かめながら、太いものを別の小皿に移していく。手を動かしていれば、座っていられた。
ソウも、することがなかった。
外に出たい、という感情ではない。だが、頭の中で次の段取りを組み立てたいのに、住居の中の空気は、考えごとに向いていなかった。煙、人の体温、毛皮の匂い、誰かの咳、誰かの寝息。視界の隅に、いつも誰かが入っている。
考える、という行為には距離が要る。距離が、住居の中にはなかった。
夜、ヒガが寝返りを打って、ダイの肩に肘を当てた。
「悪い」
ヒガは小声で言った。
ダイは「ん」とだけ返してまた目を閉じた。
ヒガは、しばらく天井の方を見ていた。
*
別の住居からは声が聞こえた。
ムロの住居だった。
声の中身までは聞き取れない。ただ、低く長く続く一人の声と、それに被せるようなもう一人の声があった。誰かが諫める声も、混じっていたかもしれない。
だが、革幕は開かなかった。誰も外には出てこなかった。
吹雪の音の方が、声よりも大きかった。
ソウは、それを聞きながら、自分の住居の革幕の縁を、目で追った。
冬は、まだ入り口だった。
*
六日目の朝、風が止んだ。
革幕を持ち上げると、外は、白に戻っていた。雪の表面に新しい層が積もり、丘の輪郭が、また均されている。空には、雲の切れ目から、薄い陽が差し始めていた。
カナが、また走り出てきた。
「雪が、止んだよ」
カナの声は、初日のように高くはなかった。だが、笑っていた。
ガランは住居の前で、丘の北の方角を長く見ていた。
「もう一度来るな」
ガランは独り言のように言った。
「これは、まだ最初の一回だ」
ソウは、丘の中央に立って、五棟の屋根を見渡した。
屋根の上には、雪が残っている。粘土の壁は、剥がれていない。煙が、また一筋ずつ、上がり始めている。
粒の壺は、空き地の脇で、雪に半分埋もれていた。蓋は、ぴったり閉まったままだった。
住居の中で二十三人が、まだ少し、息をひそめていた。
吹雪は止んだ。だが、苛立ちは、まだ住居の中に、残っていた。




