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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第30話「余剰が変えるもの」

 翌朝。


 空は薄く白かった。夏の終わりの青の手前の白で、丘の縁の草が夜露をまだ半分残していた。


 ソウは自分の小屋の前で目を覚ました。

 昨夜の焚き火はもう燃え尽きており、灰の中に橙が点で残っているだけ。北の方角に目をやると、風は止んでいた。



「今日、何を食べる?」


 声は、石臼の方から、立った。

 ナツが、屈んで火起こしをしていた。膝に乾いた草を抱えている。声に、力みは無かった。問いの形でもなかった。ただ、口が、勝手に動いた——そういう声だった。


 ソウは、半呼吸、止まった。

 昨日初めて出た問いがもう空気に混ざっている。


 誰も、振り返らなかった。

 トウカが、水瓶に手を伸ばす。ミラが、藁の束をまとめている。ナツの言葉に、特別な反応は無い。


 ソウの胸の骨の裏側がひとつ、押された。

 飢えからの解放。それが、ナツの口から、何でもない朝の一音節として出ていた。



 テツが、道具小屋の入り口の前に座っていた。


 手元には、石がひとつ。

 大きさは握り拳の半分。色は青みがかった灰。テツは、別の小石を押し当てて表面をゆっくりこすっていた。


「何だ、それ」


 ソウは近づいて、訊いた。


「分からん」


 テツは、顔を上げなかった。


「分からんが磨くと光る」


 石の表面に薄い、艶が出ていた。

 磨いた範囲はまだ親指の幅ほど。テツの指先には、灰色の粉がついている。


「何かに使うのか」


「使わん」


 テツは答えてから、少し首を傾げた。


「使わんが磨きたい」


 ソウは、それ以上、訊かなかった。

 刃でも、鎌でもない石をただ磨く。腹が満たされた朝にしか、起きないことだ。



 川辺の方から、カナの声が聞こえた。


 ソウが、丘の縁を降りていくと、カナは平たい石の上に座っていた。

 膝の上に、麻紐の短い切れ端。手元に白い貝殻が、四つ五つ。川で拾ったものだろう。指先に細い、骨の錐を握っている。テツが、いつか、削った、針の前段。


「ソウ」


 カナは、顔を上げて、笑った。


「見て」


 差し出された掌の上に、貝殻がひとつ。

 穴が開いていた。中央から、わずかにずれた位置。麻紐が、その穴を、通り、結び目で留まっていた。揺らすと、貝殻が、紐の上で軽い音を立てた。


「綺麗でしょ?」


「綺麗だ」


 ソウは答えた。


「みんなにあげる」


 カナは、別のまだ穴の開いていない貝殻を平たい石の上に置いた。

 骨の錐の先を当てる。慎重に押す。一度二度。錐の先が滑った。カナは、唇を、半分噛んでもう一度当て直した。


「春が楽しみだね」


 カナの声は、貝殻に向かっていた。


「こうやってずっと作っていけるなら」


 ソウは答えなかった。

 答えると、何かを約束することになる気がした。


 錐の音が、川の音に混じった。


 ——文化、というのはこういう形で始まるのか。

 博物館の硝子の向こうの土器や、装身具。あれも最初は何でもない朝に誰かの何でもない手から、生まれた。



 集落に戻ると、バアが咳をしていた。


 短くはなかった。

 二度三度続いて、止まった。バアは、自分の口の前に節くれた指を当ててから、薬草の束を、結び直す作業に戻った。


 誰も、顔を上げなかった。

 ナツも、ミラも、トウカも、自分の手元の作業を続けている。テツはまだ石を磨いている。ヒガが、薪を、運ぶ足音が向こうから、聞こえる。


 ソウは足を止めた。

 慣れた、というのはこういうことだ。三日前はカナが振り返った。昨日は、カナが背中に手を当てた。今朝は——誰も、振り返らない。


 いや。

 カナだけが川辺から戻る途中で足を止めていた。貝殻を二つ握ったまま、手元の作業は止まらない。だが目だけは離れていなかった。


 咳の音がもう一度低く立った。

 乾いた、薄い、紙を擦るような音。昨夜ソウが聞いた音と同じ。


 バアは、咳の最後を、飲み込んでから、薬草の束を、両手で軽く、振った。葉が乾いた音を立てた。何事も、なかったように。



 昼前、ガランがソウを呼んだ。


 丘の東の縁。

 風がまだ止んでいる。草の穂が立ったまま、動かない。ガランは、両膝に、両手を置いて、座っていた。腰の脇には、いつもの石斧。


「冬は、ここで、過ごす」


 ガランは、前置き無しに言った。

 声に、揺れは無かった。


「移動しない」


 ソウは頷いた。

 半月前は「離れる必要はないかもしれん」だった。今朝は、「かもしれん」が、消えている。


「住居がいる」


 ガランは続けた。


「寝床では、冬を、越せん」


「分かっている」


 ソウは答えた。

 風雨を防ぐ壁。雨を流す屋根。前世の知識の最も古い層にあるものをこの丘に立てる時が来ていた。


 ガランは、丘の縁を見渡した。

 北の畑、南の川、東の林、西の岩場。視線が、一周、回って戻ってきた。


「この場所に、名前がいるな」


 ガランは独り言のように言った。

 ソウは、ガランの横顔を見た。族長の顎の白い髭が薄い光に混じっている。



 集落の中央の火の場の脇。

 ナツが手を止めた。トウカが水瓶を置いた。ミラが、藁から、目を上げた。テツが、石を、膝の上に置いた。


 ガランの言葉は、丘の縁から、誰かの口を伝って、輪の中央に届いていた。


「名前」


 ヒガが繰り返した。


「集落の名前か」


 ダイが、ヒガの隣で、薪を、地面に下ろした。

 肩に汗。顔に土。ダイは自分の太い指を一度握って開いた。それから、何でもない調子で言った。


「ガラの丘でいいんじゃないか」


 声は低かった。

 主張でもなく、提案でもない。すでにそこにある名前を、口に出した、という調子。


 ヒガが、半呼吸、止まった。


「……あ、それでいいな」


 ヒガの肩が軽く、揺れた。


「了解」


 テツが、石を、磨きながら、頷いた。

 ナツが頷いた。トウカが、ミラの方を見て、頷いた。ミラが、藁の束に、目を戻して口元を、ほんの少し緩めた。


「ガラの丘」


 カナが、川辺から、戻ってきた途中の足を止めて、口の中で繰り返した。


「ガラのおか」


 反対する声は無かった。

 ゴウザが、輪の外で、自分の腰の石斧の柄を一度握り直した。それは、否定の形ではなかった。サガが、ムロの隣で、何も、言わなかった。ムロは、地面の一点を見ていた。


 ガランが、丘の縁から、戻ってきた。

 報告を聞いた。報告の長さはダイの一言とほぼ同じだった。


「ガラの丘」


 ガランはもう一度繰り返した。


「——いい名前だ」


 声に、力みは無かった。

 その夕、誰かがまた、口にする時のために置いておく、というような言い方だった。



 ソウは、丘の縁に立っていた。


 名前がついた。

 二十三人が、立つ場所に、名前がついた。それまで、「北の丘」とか、「ここ」とか、「我らの場所」とか、それぞれの口で、それぞれに呼ばれていた地面がひとつの音にまとめられた。


 ガラの丘。

 四音節。族長の名前と地形。それだけ。


 ——名前がつくと、場所が人のものになる。

 同じ土だ。昨日と今朝と、何も、変わらない。だが、その土の上に四音節が被さっていた。被さっただけで、足の裏が半段深く、土を踏んでいる気がした。


 風が、北から、ひと吹き来た。

 昨夜男が戻っていった方角。だがただの風だった。



 集落の火の場。


 ナツが、夕方の支度に入っていた。

 石臼の前に座る。今朝のように、口が、勝手に動いた。


「今日、何を食べる?」


 誰も、答えなかった。

 答える必要が無かった。粒の山はまだ布の上にあり、餅も、葉も、揃っている。返事の代わりに、誰かの手元の作業の音が続いた。テツの石を磨く音。ミラの藁の束ねる音。カナの貝殻に、錐の先を当てる音。


 ガランが、火の場の脇に立った。


「ガラの丘に住む」


 ガランは、輪の全員に聞こえる声で言った。


「冬を、越す」


 二十三人が頷いた。

 頷いたあとで、ヒガが、自分の頭を軽く、掻いた。


「……越すには、家がいるな」


「家がない」


 ダイが、ヒガの言葉を引き継いだ。


「寝床では無理だ」


 ガランは頷いた。

 頷いてから、ソウの方を見た。


 ソウはまだ答えなかった。

 風がもう一度、北から、来た。今度は少しだけ、冷たい。夏の終わりの風の中に、秋の最初の指先が混ざっていた。


 集落に、名前がついた。

 だが——家がない。

 冬を、越すには、風雨を防ぐ住居が要る。

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