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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第29話「収穫の祭り」

 夕暮れ。


 焼き石の上に餅が並んだ。

 一人三つ。二十三人で六十九。


 焚き火は二つ立ち上がっていた。いつもの夕食の火の二倍。橙の光が丘の縁の草を撫でる高さまで伸びていた。


 ソウは丘の縁に立っていた。

 去年は一つを二人で半分に割って食べた。今年は一人三つ。同じ穀物の同じ畑の同じ風の下で一年が経って数だけが変わっていた。


 族民が焚き火を囲んで座る。

 全員——二十三人。誰も欠けていない。



「うまい」


 最初に手を伸ばしたのはテツだった。


 焼き石の上から湯気の立つ餅を片手で掴み、そのまま口に放り込んだ。葉の細かな粒が表面に緑の点を残している。テツは二口で半分を消した。


「うまい。去年より、うまい」


 テツの声は短かった。

 短いのに二十三人の耳がその四音に向いた。


「粉の挽き方が良くなったんだね」


 ミラが自分の餅を両手の指で半分に割りながら言った。


「あらあら、こんなに美味しくできて」


 ミラの語尾は誰にも向いていなかった。

 石臼の柄を半時回し続けた指が、餅の温度をいま確かめていた。


 カナが餅を口にした。

 目を細める。


「おいしい。バアの葉っぱ、いい香り」


 カナはバアの膝の脇に座っていた。

 バアは自分の餅にはまだ手を伸ばしていない。カナの横顔だけを見ていた。



 ナツが餅を頬張りながらトウカに何か話しかけている。

 トウカは口の中に餅を入れたまま頷いた。頷いてから慌てて咀嚼を再開した。


 ヒガが二つ目に手を伸ばす。

 まだ一つ目を飲み込み切らないうちに。


「マジか、もう二つ目か」


 ダイが横からヒガの肩を肘で小突いた。


「俺の分まで食うな」


「食ってない。俺の二つ目だ」


「ゆっくり食え」


「了解」


 ヒガが肩を竦めて二つ目を半分にした。

 誰かが笑った。ノタだった。それからアズも笑った。笑い声は焚き火の爆ぜる音の上を軽く跳ねた。


 ソウはその輪を外から見ていた。

 六十九個の餅と二十三人の顔が橙の光の内側に収まっている。腹の満足が農業の価値を体に教えていた。ガランの言葉ではなく舌がそれを教えていた。



 ムロの前にも餅が三つ並んでいた。


 ムロは座っていた。

 いつもの場所——焚き火の輪の一番外の縁。サガがその隣に無言で座っている。二人の前にも女衆が餅を三つずつ置いていった。


 ムロは一つ目を手に取った。


 指先が湯気を一度浴びる。

 ソウの位置からムロの表情は半分しか見えない。橙の光がムロの頬の片側を照らしていた。もう片側は影に入っている。


 ムロは餅を鼻の前に近づけた。

 匂いを嗅ぐ。バアの葉の薄い香りがムロの鼻の脇を通り過ぎた——はずだった。ソウはそれを想像で辿った。


 それから——ムロは口に入れた。


 咀嚼の音は聞こえない。距離があった。ただムロの顎が二度動いた。三度目で止まった。

 ソウの喉が勝手に一度鳴った。

 四度目でムロの顎がまた動いた。

 吐き出さなかった。


 ムロの表情は無い。

 無いまま左手が二つ目に伸びた。


 ソウは息を長く吐いた。

 地面の自分の足の指の付け根がわずかに土を掴み直した。それは勝ったとか負けたとか、そういう種類の感覚ではなかった。ただ——焚き火の輪の一番外の縁が、輪の内側に半歩寄った。それだけだった。


 サガも黙って食べていた。

 先祖の教えに反する食べ物を先祖の教えを信じる者たちが口に運んでいる。サガの咀嚼はムロよりゆっくりだった。一口ごとに葉の香りを確かめるような速度。だが止まらなかった。



 バアが咳をした。


 短くはなかった。

 胸の奥から押し出すような低い咳。一度二度——三度続いた。三度目でバアは自分の口の前に手を当てた。


 カナが振り返った。


「バア」


 カナの声はいつもより半段低かった。

 手がバアの背中に伸びる。掌を平らに当ててゆっくり上下にさすった。撫でる動きでもなく押し出す動きでもない。間の温度。


「大丈夫?」


「……餅が詰まっただけじゃ」


 バアは咳の最後の一つを飲み込んでから答えた。

 声はいつものゆっくりしたザラついた声。だがその下にもう一つ別の音があった。乾いた、薄い、紙を擦るような音。


 ソウはそれを聞いた。

 聞いた、と自分に言った。聞かなかったことにはできなかった。


「お水、もらってくる」


 カナは立ち上がろうとした。


「いい、いい。座っときなさい」


 バアはカナの腕を自分の節くれた指で軽く押さえた。


「お前の餅が冷めてしまうじゃろ」


 カナは頷いた。

 頷いたがしばらくバアの背中から手を離さなかった。



 リアがソウの隣に来て座った。


 地面に片膝を立てるような姿勢。腰の脇にはいつも通り短い石斧。焼き餅を一つ左の掌に乗せている。だが口には運んでいなかった。


「食べないのか」


 リアが訊いた。


「食べる」


 ソウは答えた。


「ただ——見ていたかった」


「何を」


「全員が食べているところを」


 リアはそれ以上何も訊かなかった。

 ソウの横顔を半呼吸見て、それから自分の掌の餅に目を戻した。


 リアが餅を一口齧った。

 葉の緑の点がリアの口の端に一粒ついた。


「……うまいな」


 リアの声は低かった。


「去年より、うまい」


 ソウは頷いた。

 頷いただけで何も言わなかった。言葉にするとこぼれるものがある気がした。



 宴がたけなわになった頃。


 リアが餅を半分残したまま立ち上がった。

 左の耳がわずかに北の方を向いている。


「誰か、来る」


 声は輪の中央までは届かない低さだった。

 ガランの肩がぴくりと動いた。テツが笑い声の途中で口を閉じた。ダイがヒガの肩をもう一度小突いた。今度は合図だった。


 焚き火の向こうの暗がりから足音が一つ。

 不揃いではない。だが急いでもいない。「通りがかった」風の歩幅。


 男が火の明かりに姿を現した。


 ソウの知らない顔だった。

 肩幅がガランより半段狭い。腰には革の紐で吊った短い石刃。歳はガランより少し若いか。目だけが——焚き火の光よりひとつ奥に引いていた。


「通りがかっただけだ」


 男は両手を軽く広げた。武器ではない、という形。


「火が見えた。寄ってみた」


 ソウはその言葉の最初の三音で嘘だと分かった。

 通りがかりに二十三人の焚き火に一人で出てくる男はいない。「火が見えた」のは本当だ。だが見えたから「寄った」のではない。見えたから「確かめに来た」のだ。


 ガランは立たなかった。

 座ったまま顎を軽く引いた。


「座れ」


 ガランの声は低かった。


「餅があるぞ」


 男は半呼吸迷った。

 迷ってから輪の外の縁に腰を下ろした。ムロが座っていたのと同じ縁。ムロはもう二つ目を半分まで食べていた。


 女衆が男の前にも餅を一つ置いた。

 三つは置かなかった。それがガランの半段の答えだった。


 男は餅を手に取った。

 一口齧る。咀嚼は丁寧だった。だが——目が動いた。


 焚き火の向こう。

 布の上に並べられた粒の山。簡素な獣皮の覆いが半分めくれている。穂を脱穀した粒が二十三人の二ヶ月分。男の目はその輪郭を一度撫でた。それからまた自分の餅に戻った。


 男は二つ目には手を伸ばさなかった。

 最初の餅を飲み込み立ち上がった。


「世話になった」


 短い礼。声は礼儀正しい。


「明日も歩く。先を急ぐ」


 男はガランに軽く頭を下げた。

 それから来た方向の——いや、来た方向とはわずかにずれた角度の——暗闇に歩いて消えた。歩幅は来た時よりひとつ広かった。



 焚き火が爆ぜた。


 リアは立ったまま男の消えた方角を見ていた。

 半呼吸、半呼吸、半呼吸——三つ目の半呼吸の後でようやくソウの方を見た。


「あれ、グラムの人間だ」


 リアの声は低かった。


「帰る時に癖が出た。歩幅を広げた。つま先で土を押した。あれは偵察の歩き方だ」


 ガランは答える前に自分の餅の最後の一口を口に入れた。

 ゆっくり咀嚼した。咀嚼してから火の向こうの粒の山を見た。


「奪いに来るか、買いに来るか」


 ガランは言った。


「そのどちらかだ」


 ゴウザが輪の反対側で何も言わなかった。

 言わない代わりに自分の腰の石斧の柄を一度握り直した。守る側の指の動きだった。



 ソウは焚き火に目を戻した。


 族民たちはまだ笑っていた。

 ヒガが自分の三つ目に手を伸ばし、ダイにまた小突かれている。テツはすでに四つ目を狙ってダイに叱られた。「俺の四つ目じゃない、ヒガの三つ目をもらおうとした」とテツが言い、ヒガが「マジか、それは俺のだ」と笑った。カナはバアの膝に頭を寄りかからせて目を半分閉じていた。バアの手がカナの髪をゆっくり撫でていた。


 ナツがトウカに何か囁き、二人で笑った。

 ミラが自分の最後の餅を半分に割って隣の無言の老人に渡した。老人は——ムロだった。ミラは何も言わずに戻った。ムロは半分の餅を見つめてから、しばらくして口に入れた。


 ソウの胸の骨の裏側がもう一度押された。

 ナツが石臼を回しながら呟いたあの言葉が——「今日、何を食べる?」——焚き火の音の裏側でもう一度立っていた。


 今日、何を食べる。

 答えがここにあった。一人三つの葉の香りのする焼き餅。二十三人全員。誰も欠けていない。


 ——この光景を守りたい。


 ソウは自分の指先がわずかに冷えているのに気づいた。

 夕方の風が丘の縁を通り過ぎていた。風は北からだった。北の方向には暗闇しかない。だがその暗闇のどこかに、さっき、男が戻っていった。


 奪いに来るか、買いに来るか。

 ガランはその二択を口にした。だがソウの耳にはもう一つの選択肢が聞こえていた。男が二つ目の餅に手を伸ばさなかった理由。短い礼を置いて急いで消えた理由。男の目が餅ではなく粒の山の輪郭を撫でた、あの数瞬の意味。


 あの目は——獲物を値踏みする目だった。

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