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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第27話「足跡」

「来てくれ」


 リアが丘の下から上がってきた。

 弓は肩に提げたままだった。畑から戻ったソウの背中に半歩近づいて、それだけ言った。


 声は低かった。

 昨日まで脱穀を手伝う時にリアが出していた声よりも、もう一段、低い。


 ソウが振り返ると、リアの目が、ソウの目を捉えていた。

 瞬きの間隔が、いつもより、わずかに長い。


「南の林だ」


 リアはそう続けた。

 行先と、誰を呼んでいるか、それだけしか言わなかった。だが、テツが道具小屋の前からソウの方を振り返り、ガランも寝床の入り口で、肩の弓をもう一度掛け直した。


 収穫から、三日が経っていた。

 粒の山は、布の上でまだ乾燥の途中だった。



 南の林の縁は、丘の裾を、川下の方へ少し下りた、雑木の混じる斜面だった。


 リアは、林の縁から十歩ほど奥に入った場所で止まった。

 しゃがんだ。指で、地面の一点を指した。


「ここ」


 ソウは、リアの指の先を見た。

 苔の薄く乗った湿った土の上に、人の足跡が、一つ残っていた。


「これだけか」


 ガランが、後ろから低く訊いた。


「もう一つ、あっち」


 リアは、振り返らずに別の方角を指した。

 斜面の下の方、倒木を一本越えた向こう側。リアが立ち上がって半歩ずれると、二つ目の足跡が、ガランの視界にも入った。


 ガランはしゃがんだ。

 膝に、片手をついて、足跡をしばらく見ていた。


 ソウもしゃがんだ。

 足跡は、薄い。深く踏み込んでいない。爪先の方だけが、はっきりと土に沈んで、踵の側はほとんど跡がなかった。


「踵を、つけていない」


 ソウは低く呟いた。


「つま先で歩いてる」


 リアが続けた。


「見つかりたくない歩き方だ。狩りの時、獲物に近づく時の歩き方。——獣じゃない。人間が人間に対してやる歩き方」


 リアの言葉は長くはなかった。

 だが、一語ずつの間が短い。弓の弦を一度引き絞ってから、放すまでの、あの間。


 ガランは、足跡から目を離さなかった。

 眉の付け根に、皺が一本、深く入っていた。


「いつのものだ」


 ガランが低く訊いた。


「昨日の夕方より、後。今朝より、前」


 リアは即答した。


「土の湿り方。朝露が乗ってない側の縁に一度乗って、もう乾いてる。夜の間だ」


 ソウは、リアの横顔を見た。

 弓の使い手の目、というのは、的を見る目のことではなく、こういう時に、自分の見た景色を別の人間に手渡すための目のことらしかった。



 集落に戻った。


 ガランは、寝床の前の平らな石の上に腰を下ろした。

 すぐには誰も呼ばなかった。だが、ソウとリアとテツが、自然にその石の前に集まった。少し離れて、ダイとヒガが立っていた。


 ガランはしばらく、何も言わなかった。

 手の中で、自分の弓の弦の張りを、親指で二度押した。


「グラムの連中だ」


 ガランが低く言った。


「嗅ぎ回っているな」


 その三音——『グラム』という名前が出た時、空気が変わった。

 ヒガが口を開きかけて、閉じた。ダイが、自分の腰の脇の手を握り直した。テツの肩が、半分後ろに引いた。


 ソウは、その名前を、過去に二度聞いていた。

 一度はガランから。一度はバアから。だが、どちらも、それ以上は続かなかった。続かないことに意味があるような名前だった。


 その時。

 集落の端から、ゆっくりと上がってくる足音があった。


 ゴウザだった。


 ゴウザは、いつも通り、誰の方も見ずに、石の脇を通り過ぎようとした。

 だが、ガランの「グラム」という三音が、ゴウザの足を半歩、止めた。


 ゴウザは振り返らなかった。

 その場で立ったまま、低い声を出した。


「……二年前のことを覚えてるか」


 ガランの方を見ていない。

 地面の自分の足元を見ていた。


「北の部族の猟場のことだ。グラムは、十人で攻めた」


 ゴウザは地面に視線を落としたまま、息を一度入れた。


「五人を殺した。残りを散り散りに。半年後、別の部族の冬の備えを、まるごと持っていった」


 ゴウザはそれだけ続けて、もう一度、息を入れた。


「次は、こっちかもしれん」


 誰も、言葉を返さなかった。

 ヒガの軽口も、出なかった。ダイの太い指が、自分の腰の脇で、もう一度握り込まれた。


 ソウは、ゴウザの背中を見ていた。

 猟師の背中は、いつもより、半段低かった。


 ゴウザの口数が、これだけ続くのを、ソウは初めて、聞いた。


「グラムには、弟がいる」


 ゴウザはまだ、振り返らなかった。


「あいつは——更にひどい」


 その一文だけ、声の調子がわずかに変わった。

 経験で語る人間の声。誰かを失ったことのある人間が、その失った相手の名前を、口の中で一度、噛んでから、出す時の声。


 ゴウザはそれ以上は何も言わずに、また、歩き出した。

 寝床の方ではなく、川下の方へ、ゆっくりと消えていった。



 ガランの目は、しばらくゴウザの去った方角に残っていた。


 それから、ソウの方を見た。


「追わん」


 ガランが低く断定した。


「追えば、戦を仕掛ける口実を向こうに与える。今の人数では勝てん」


 ソウは頷いた。

 頷きながら、頭の中で、すでに別のことを考え始めていた。


 粒の山。

 二十三人が、二ヶ月、持つ量。

 乾燥途中。布の上。覆いはまだ、簡素な獣皮だけ。


 穀物がある、ということは、それ自体が、来る理由になる。

 掌の中の二日と少しの穂の重さが、急に、別の重さに置き換わった。獲物を抱えている時の重さに。


「見張りを、増やす」


 ガランが続けた。


「南の林の縁に二人。日中、ずっと。夜は、火の見える距離まで引く」


「俺たちで回る」


 ダイが半歩前に出た。


「南の林だ。俺とヒガで、二人ずつの組を回す。日中の交代も、組む」


「了解」


 ヒガが、いつもの三音で応じた。

 今日の「了解」は、軽くはなかった。語尾の伸びがない。鎌を投げ渡された時の「マジか」とは、別の言葉に聞こえた。


 ガランは頷いた。

 それ以上、何も指示は出さなかった。



 その日の夕方。


 集落の中央では、女衆が、餅の準備の話を始めていた。

 収穫祭をやる、とガランが午後のうちに決めていた。粉を挽いて、焼き石を並べて、一人三つずつ。去年は一つがやっとだった。


 カナが、焼き石を、丘の縁から、一つまた一つ運んできていた。

 バアが、その横で、薬草の乾燥葉の選別をしていた。ナツが、石臼の縁を布で拭いていた。


 ソウは、その光景を少し離れた場所から、見ていた。


 二十三人。

 全員の顔が、午後の光の中で、半段明るかった。粒の山があり、餅の話があり、カナの足取りが軽い。


 南の林の縁では、ダイとヒガが、すでに最初の見回りに入っていた。

 二人の足音は、ここからは聞こえない。


 ソウは、自分の指を握って開いた。

 粒の感触はまだ残っていた。だが、その感触の上に、もう一つ、別のものが重なっていた。林の地面に残っていた、爪先だけの薄い足跡。


 ガランの言葉が、耳の奥でもう一度、再生された。

 ——奪いに来るか、買いに来るか。

 いや、それはまだ、ガランは口に出していなかった。出していないのに、ソウの中では、その続きがもう聞こえていた。


 リアが、ソウの隣に来ていた。

 いつから立っていたのかは、分からなかった。


「祭りは、やるのか」


 リアが訊いた。

 訊き方は、いつもの素っ気なさだった。だが、目は、川下の方角を見ていた。


「やる」


 ソウは答えた。


「今やめたら、餅一つで、向こうにこちらの怯えを教えることになる」


 リアは、半呼吸、間を置いた。


「……そうか」


 それから、もう一度、川下を見た。

 弓の指の第一関節が、わずかに動いた。


 ソウはもう一度、粒の山の方を見た。

 布の上の、大人の腰の高さ。乾燥の途中。


 守りたい、と思った。

 その「守りたい」は、前世でソウが知っていたどの「守りたい」とも、形が違っていた。掌の中に、穀物の重さと、足跡の薄さが、同時に乗っていた。


 豊かさは——狙われる理由にもなる。

 その一文を、ソウは声には出さなかった。声に出すと、集落の真ん中で焼き石を運んでいるカナの足取りが、少しでも、重くなる気がした。


 カナがまた一つ、焼き石を運んできた。

 二十三人分の餅を焼くための石。並べる音が軽い。その軽さの上に、ソウはまだ、自分の指の感触を重ねたままだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


リライト前のストーリーに迫ってきたため、明日からは更新頻度を1日1回、19時頃とさせていただきます。ストック+新規執筆で毎日更新は続けていきますので、お楽しみにしていただければ嬉しい限りです。


今後ともよろしくお願いします。

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