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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第26話「二度目の収穫」

「今日から刈る」


 ソウは第一の畑の縁でそれだけ言った。


 穂は一夜のうちに色を変えていた。

 昨日までまだ青みの残っていた穂先が、丘の上から見下ろすと、黄金色の帯になって、川下の方へ続いている。第一の畑、第二の畑、第三の畑の北側八列。三つの畑の穂が、同じ朝の風で、同じ方向にゆっくりと傾いていた。


 穂が出始めたあの朝から、ちょうど一ヶ月。

 長雨明けから、二ヶ月になる。


「三日はかかる」


 ソウは続けた。

 声は低かった。だが、後ろに集まってきた族民の耳には、はっきりと届いていた。



 テツが布を広げて、その上に鎌を並べていた。


 全部で十二本。

 半分は去年から使っている古い形のもの。残りの半分は、テツが今年の夏に穴を開けて柄を直接通した、新しい形のもの。改良型の柄は、握ってみると古い方よりわずかに重い。だが、刃の角度がずれない。


「新しいやつから配る」


 テツが低く言った。


「初めて持つ奴は、こっち」


 テツの指が改良型の鎌の方をさした。


 サガが最初に手を伸ばした。

 ノタが二本目を取った。アズが子を片腕で抱いたまま、三本目を慎重に取った。アズの足元には、獣皮の袋が一枚置いてある。


 ガランが丘の下から上がってきた。

 肩に自分の弓を提げていた。だが、その弓を寝床の入り口の壁に立てかけた。


「狩りは、最低限の人数で回す」


 ガランがソウの横で言った。


「残りは畑だ」


 ガランの声は判決の声だった。

 昨日まで毎朝、川辺に出ていた狩り組の半分が、今朝は鎌の前に立っていた。十五人。第一・第二・第三の三つの畑を三日で刈り切るための、ぎりぎりの人数だった。



 刈り始めて半時もしないうちに、畑の縁に、穂の小さな山がいくつもできていた。


 ヒガとダイが第三の畑の北の端で刈り手をしていた。

 ヒガが半身を低く構えて、改良型の鎌を引いた。穂が、ふつ、と切れる。


「マジで軽いな、これ」


 ヒガが誰にともなく言った。


「鍬より、ずっと軽い」


「黙って刈れ」


 ダイがヒガの隣で低く言った。

 ダイの手の中の鎌は、ヒガのよりも二倍くらいの速さで動いていた。穂を掴む手の指が太い。一掴みで、ヒガの一掴みの倍の本数を抱え込んでいる。引く時の力みも見えない。


「……すげえな」


 ヒガがもう一度呟いた。


 ダイは答えなかった。

 次の一束をもう布の上に置いていた。


 ナツがその布の脇にしゃがんでいた。

 ダイとヒガが置いた穂を、根元の長さで揃えて、紐で束ねる。手元から少し離れたところに、トウカが同じ作業をしていた。トウカの結び目の方が、ナツのものよりわずかに細かい。


「トウカ、結び目、もう一回ぐるっと巻いて」


「はい」


「乾かす時にほどけちゃうから」


 ナツの声は低かった。

 トウカが自分の手の中の束を、紐の端からもう一度巻き直した。


 ナツとトウカの後ろを、ミラがゆっくり歩いていた。

 ミラの手には紐はない。代わりに目だけが、束ねられた穂の山の上を丁寧に移動していた。


「これはもう少し、後でいい」


 ミラがナツの足元の束を指でさした。


「先端の粒がまだ軽いね」


「分けます」


 ナツがその束を別の場所に置き直した。


 ミラがまた半歩進んだ。

 別の束を見た。今度は頷いた。


「これはすぐ脱穀に回せる」


 穂を選り分ける目は、一ヶ月前の朝、第二の畑の南端でミラが独力で立ち上げた目だった。

 今朝はその目が、束ねた後の山の上でもう一段機能している。



 アズは第二の畑の中ほどにしゃがんでいた。


 左腕で子を、自分の腰の脇に抱えている。

 右手で鎌を引いていた。子はアズの肘の内側で半分眠っていた。鎌の音が一定だからだろう、目を閉じたまま開けない。


 アズが一束刈ると、その束の根元からこぼれ落ちた粒が、土の上にいくつか散る。

 アズは子を抱えたまま、もう片方の手でその粒を丁寧に拾った。拾った粒を足元の獣皮の袋に入れる。


「うちの子の冬の分」


 アズは誰に言うでもなく低く呟いた。

 子守唄に近い、低い声だった。鎌を引く手と粒を拾う手は、子を起こさない強さに揃っていた。



 昼を回った。


 ソウは、第二の畑の縁で束ねた穂を背負い籠に積み、それを集落の中央へ運ぶ族民を見送っていた。


 その時だった。

 川下の方から、一人、男が上がってきた。


 ゴウザだった。


 ソウはすぐには、振り返らなかった。

 だが、足音の重さで、誰かは分かっていた。テツが、布の上の鎌の方から、半歩横に動いた。改良型の鎌が、一本まだ布の上に残っていた。


 ゴウザは、ソウの方を見なかった。

 布の上の最後の一本を、見ていた。


 しゃがんだ。

 その鎌を、骨ばった指で取り上げた。


 誰も、何も、言わなかった。

 第二の畑の南端へ、ゴウザはゆっくり歩いて行った。誰も呼ばれていない、誰の指示も受けていない場所に、ゴウザは自分で立った。


 テツが、ソウの方を見た。

 目だけで、何かを聞いていた。


 ソウは、首を横に振った。


「放っておけ」


 声は出さなかった。

 唇の動きだけだった。テツが、半呼吸の後、頷いた。布の方へ、向き直った。



 ゴウザは、最初の穂に刃を当てた。


 引いた。

 茎が、潰れた。穂の根元の部分が、力に押し負けて、繊維ごと握り砕かれていた。


 ゴウザの口から、息が一つ漏れた。

 舌打ちでも、溜息でもない、もう少し短い、小さな息。


 二本目に刃を当てた。

 今度も、潰した。少しだけ、軽く。


 猟師の手だ、とソウは思った。

 獲物の腹を裂く時の、骨と肉の境を見つけて押し込む手。あの手が穂を握ると、最初の数本は必ず、潰す。掴む力が強すぎる。引く速度が速すぎる。


 三本目で、ゴウザの肩が少しだけ、下がった。

 力を抜いた、ということだった。


 四本目。

 ふつ、と茎が切れる音が、ソウの耳まで届いた。


 五本目から先は、もう潰さなかった。

 猟師の勘というものが新しい動作を何本目で覚えるか——その本数が、ゴウザの場合は、四本だった。サガが二本目で要領を掴んだのに比べれば、二本ほど遅い。だが、要領を掴んでからの手の運びは、サガよりも、はっきり速かった。経験の差というものは、習得そのものではなく、習得した後の動きの中に出るものらしかった。


 ゴウザはそれから、口を開かなかった。

 誰の方も、見なかった。第二の畑の南の端で、自分の刈った穂を、自分の足元の布の上にただ、積み続けた。



 昼をもう少し回った頃、もう一人、丘の下から上がってきた。


 弓は、肩に提げていた。

 だが、いつもの場所ではなかった。畑の縁の、子供の手の届かない高さの石の上に、リアは、その弓を置いた。


 置いてから、テツの隣に来た。

 布の上の、もう古い方の鎌を一本取った。


「来たのか」


 テツが半分だけ、振り返った。


「来た」


 リアはそれだけ、答えた。

 昨日までの「暇だから」は、今日は付かなかった。


 リアは、穂の前にしゃがんだ。

 穂を、左手で握る。指の力は、ミラの紐を結ぶ時の指よりずっと強かった。だが、ヒガの最初の一掴みより、少しだけ、弱かった。


 刃を当てた。

 引いた。


 茎が、ふつ、と切れた。一振りで、穂は、リアの手の中に収まっていた。

 潰さなかった。


 弓を引く時のあの集中の、別の形だった。

 矢を放つ前の、息を止めた、あの一瞬の。


「上手いな」


 テツが低く言った。


「当たり前だ」


 リアが、振り返らずに答えた。


 答え方の温度が、一ヶ月前のあの朝、第三の畑の南端で「綺麗だな」と言った時の温度と、同じだった。

 ソウは、それを横で聞いていた。


* * *


 二日目の夕方。


 集落の中央に、穂の山が積み上がっていた。

 大人の腰の高さを、軽く超えた。山の上には、まだ夕方の光が残っていた。穂の表面が、橙色に染まっている。


 族民が、その山の前に、自然に集まっていた。

 ナツが、子供の頭を撫でていた。トウカが、ミラの隣で立っていた。アズが、子を布の上に降ろした。子はすでに目を覚ましていて、穂の山を不思議そうに見上げていた。


 ヒガが、ダイの脇腹を肘で突いた。


「ダイ、こんなになるとは思ってなかったろ」


 ダイは答えなかった。

 ただ、自分の手の甲をもう一方の手で、軽く擦っていた。指の節が赤くなっていた。


 ガランが、人の輪を半歩割って出てきた。


 穂の山の前に立った。

 しばらく、何も言わなかった。族民の話し声が、自然に低くなっていった。


「ソウ」


 ガランが、ソウを名前で呼んだ。


「これだけの量があれば——何人を、どのくらい養える」


 ソウは目を閉じて、頭の中で、計算をもう一度走らせた。

 刈り取った量、これから刈る分、脱穀後の収率、一人あたりの一日の必要量。数字が揃った。


「……二十三人が」


 ソウは目を開けた。


「二ヶ月は、持つだけの量になるはずです」


「二ヶ月」


 ガランが、その三音を繰り返した。


 それから、長い、沈黙があった。

 風が、二度丘を撫でた。穂の山がわずかに、表面で揺れた。


 ガランは、穂の山を見ていた。

 ソウの方ではない。


「……これなら」


 ガランが低く始めた。


「冬に、ここを離れる必要はないかもしれん」


 ガランの声は、断定ではなかった。

 判決でも、なかった。「かもしれん」という三音の、その先がまだ本人の中で揺れていた。だが——揺れている、ということ自体が、今までのガランの言葉ではなかった。


 ソウの胸の骨の裏側を、何かが一度強く、押した。

 心臓の鼓動が、その押された側から、跳ね返ってきた。


 テツが、ソウの斜め後ろで立っていた。

 その手が、自分の腰の横で小さく、握り込まれているのが、ソウには見えた。テツの拳は、ソウの方を向いていた。


 ソウも、自分の指を握った。

 握った指の中に、二日間の穂の感触が残っていた。


 ガランは、それ以上、何も、言わなかった。

 穂の山にもう一度、目を移し、それから、寝床の方へ、歩き出した。背中の傾きはいつもと同じだった。



 その夜、誰も、ガランの言葉を繰り返さなかった。

 焚き火の周りで、ヒガが、四つ目の餅に手を伸ばしてダイに小突かれた。カナが笑った。バアがその笑い声の方をゆっくり見た。


 誰も、繰り返さなかった。

 だが、誰の顔も、いつもより、半段明るかった。


* * *


 三日目の昼過ぎ。


 最後の区画の最後の一束を、ノタが刈った。

 ノタは、その一束を、自分の足元の布の上に置いた。それから、半歩、後ろに下がって、空になった畝をしばらく見ていた。


「……刈り終わった」


 ノタが誰にともなく、低く言った。


 第三の畑の南端の二列だけが、残っていた。

 穂をつけていない、二列。雨の三日目に、ソウが捨てると判断した、あの二列だった。茎はまだ地面に伏したまま、黄色く、乾いていた。風が来ても、揺れなかった。


 ソウは、その二列の前を歩いた。

 歩いて、通り過ぎた。指で触れることはしなかった。



 集落の中央で、バアと、カナが脱穀を始めていた。


 脱穀板は、テツが去年の秋に作ったものを、そのまま、使っていた。

 平らな石を、木の枠に嵌め込んで、表面に細かい凹凸を刻んだ、簡素な道具。バアは、その板の前に低い椅子のように石を置いて、座っていた。カナが、その隣にしゃがんでいた。


 バアの手はもう、若くはなかった。

 穂を、一束、ゆっくり板の上に置く。もう一枚の平たい石を、両手で持ち上げる。上から、軽く擦る。粒が、ぽろぽろと、下の布の上に落ちる。


 動作は遅い。

 だが、止まらない。


「バア、こっちは、私がやるよ」


 カナが隣で言った。


「いいんじゃよ。これは、わしがやる」


 バアは、顔を上げなかった。

 手の動きを、止めなかった。


 カナはもう、言わなかった。

 自分の前の別の穂の束を、自分の板に置いた。バアと同じ動作を、自分の手で始めた。


 しばらく、二人の手の音だけが、布の上で続いた。


 その時。


 バアが咳をした。


 最初は、小さな、いつもの咳だった。

 ソウは少し離れた場所で、新しく刈り取った束の山を見ていた。耳に、その咳が届いた。手を止めずに続けようとした。


 二度目の咳が、続いた。

 二度目は、一度目より、半呼吸、長かった。


 三度目が続かないことを、ソウは待った。

 待っているうちに、咳は収まった。バアが、自分の喉のあたりを、片手で軽く、押さえていた。


「バア——」


 カナが、隣で、バアの背中に手を当てた。


「大丈夫じゃよ」


 バアの声は、いつもと同じだった。

 息は、少しだけ、上がっていた。


「粉が、喉に入ったかね」


 バアはそう言って、また、平たい石を持ち上げた。


 ソウは、その様子を、半分横目で見ていた。

 咳の長さが——前より、少しだけ、長かった。


 ほんの少し。

 脱穀の音が続いている布の上で、その「少し」を、はっきりと覚えているのは、ソウとカナだけだった。


 カナは、バアの背中から、手を離した。

 離してから、その手で、自分の前の穂の束をまた、板の上に置いた。


 カナは、何も、言わなかった。

 言わない、ということを、ソウは見ていた。



 夕方、最後の脱穀が終わった。


 粒の山が、布の上にできていた。

 大人の両手で、五十回くらいはすくえる量だった。


 ソウは、その粒の山の前に立っていた。

 手のひらで、一握り、すくった。指の間から、粒が、何粒か、こぼれて、布の上に落ちる。


 粒は、まだ新しい。

 乾燥がこれからだ。足りなければ、内側で湿気を残したまま腐る。乾いても、虫がつけば終わる。雨が染み込めば、終わる。


 二ヶ月、二十三人を養う粒。その粒を、二ヶ月の間、腐らせない方法。今、ソウの手のひらに、その方法はない。


 粒を、布の上に戻した。


「次は——」


 ソウは低く呟いた。


「保存だ」


 声に出した。

 だが、声に出した相手は、近くにはいなかった。


 第三の畑の南端の二列だけが、夕方の光の中で、まだ地面に伏していた。

 風が、丘の上をもう一度撫でていった。穂の山の表面が、わずかに揺れた。


 ソウの指の中に、二日と少しの穂の重さがまだ残っていた。

 握って開いた。痺れは昨日より、少しだけ、深かった。

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