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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第25話「穂が揺れる日」

 穂が出始めていた。


 昨日の夕方まではまだ、葉の付け根のあたりで固く包まれていたものだった。

 夜の間に、その包みがほどけたらしい。朝、ソウが第一の畑の北の縁に立った時、緑の茎の先から、細い穂が一斉に顔を出していた。


 播種から、二ヶ月。

 長雨の三日が明けてから、ちょうど一ヶ月になる。


 風が、川下から一度上がってきた。

 第一の畑の葉が、丘の上の方へ、順番に撫でられていく。葉と一緒に出たばかりの細い穂も、同じ方向に傾いた。緑の海の上に、もう一段薄い緑の点線が、波を作って走った。


 ソウはしゃがまずに立ったまま、その光景をしばらく見ていた。

 昨日まで結んでいた紐のところどころに残る濃い緑の小さな結び目が、穂の出始めた茎の根元で、同じ風に揺れていた。



 第二の畑の畝の方から、声が聞こえてきた。


「あらあら」


 低くもなく、高くもない女の声だった。

 ソウが知っている、どの女の声とも、語尾の落ち方が違っていた。


「こんなに育って」


 ソウは、声の方角に目を向けた。


 ミラが、第二の畑の南端でしゃがんでいた。

 肩幅の広くない女だった。背は、ナツより半歩低い。後ろで一つに束ねた髪は、首の付け根のあたりで、きれいに結び目が作ってあった。手の甲に、編み物で慣れた指の節の、わずかな膨らみがあった。


 ガラの民の中で、籠を編ませれば、この女より速く整った形に仕上げる者は、一人もいない。

 敷物も、子供の背に当てる帯も、寝床の入り口に下げる目隠しも——細いものを規則正しく組んで形を作る仕事は、長年、ミラの手の中で続いてきた。三十二年生きてきた手だった。


 そのミラが今朝は、編み物の代わりに、穂の付け根のあたりに、両手の指をそっと添えていた。


 穂を潰さない指の力だった。

 籠の縁を編む時の、繊維を引きすぎないあの加減と、同じだった。


 ミラの隣には、ナツとトウカがいた。

 ナツが、自分の足元の茎を一本指で挟んだまま、ミラの方を見ていた。トウカは、ミラの少し後ろで、籠を腕に下げて立っていた。


「ミラ姉さん、これも、もういいの?」


 ナツが聞いた。


「そうねえ」


 ミラが、自分の指の中の穂を少しだけ持ち上げた。

 穂の先端が、朝の光の中で、わずかに白っぽい産毛のような色を返した。


「これはまだ早いね」


 ミラの声は、確認の低さだった。


「もう少しで、粒が固くなる。固くなる前に刈っちゃうと、粉にならないよ。ナツ、こっちは、印をつけないでおいて」


「うん」


 ナツが頷いた。


 ミラが、半歩横に移った。

 別の茎の別の穂をまた、指の腹で軽く挟んだ。今度は、穂を持ち上げずに、根元から先端まで、視線でなぞった。


「こっちは、近いね」


 ミラがもう一度言った。


「あらあら、もうこんなに重くなって」


 声の中に、ソウは、別の音を聞いた気がした。

 何かを見つけた、という音ではなかった。長く待っていたものが、ようやく自分の手の届くところに来た——そういう音だった。子供の額の汗を布で拭く時の、ああいう類の声に、ソウは聞き覚えがあった。


 ミラが、トウカに手を伸ばした。

 トウカが、籠の中から、別の色の細い紐を一本渡した。


 昨日トウカが結んでいたのは、太い茎の根元への目印だった。

 今朝、ミラが結んでいるのは、それとは別の印だった。穂の付け根のすぐ下に、もう一段細い紐を、ふわりと輪を作るようにかけている。引き締めない結び方だった。


「これは近いって、印」


 ミラが、トウカに低く言った。


「これがついてるやつから、刈り始めるからね」


「はい」


 トウカが頷いた。

 籠を、自分の足元にそっと下ろした。



 ソウは、その三人の動きを、第一の畑の縁から、しばらく見ていた。


 穂を見分ける目は、ミラの中で、独力で立ち上がっていた。

 誰が教えたわけでもない。穂の色、産毛の向き、根元から先端までの重みの傾き——それらのどこを見れば、刈り頃が分かるのか。ミラは、籠の繊維を見るのとほとんど同じ目で、穂を見ていた。


 ——伝えなくても、伝わるものがある。

 ソウの頭の中に、その判定が低い位置で置かれた。


 昨日トウカに、ソウが言葉で渡したのは、選別の理屈だった。

 今朝、ミラがトウカに無言で渡しているのは、刈り頃の見分け方だった。理屈と、見分け方は、別の種類の知識だ。前世の本にも、そう書いてあった気がする。


 ソウは、自分の指先を軽く握って開いた。

 握る側の指の関節の、薄い痺れ。


 昨日、長くしゃがんでいた分の名残だった。



 ソウが、第一の畑の縁から、第三の畑の方へ少し歩いた時だった。


 背中の方から、足音が近づいてきた。


 迷いのない、歩幅の広い足音だった。

 川辺の方からだった。誰の足音か、ソウは振り返らなくても、分かった。


「ソウ」


 リアの声だった。


 ソウが振り返った。

 リアは、肩に弓を一張り、提げていた。今朝の見回りの帰りらしかった。額に、薄く汗が浮かんでいた。後ろで一つに束ねた赤い紐の先が、首筋の汗でわずかに張りついていた。


 リアは、ソウの隣まで来て足を止めた。

 止めてから、半歩、第三の畑の方を向いた。


 第三の畑の北側八列が、朝の風の中で揺れていた。

 穂は、第一の畑より少し早く出ていた。葉の上に、薄い金色の点が無数に散り始めている。南端の二列だけが揺れずに、黄色い茎を地面に伏せたままだった。


 リアはしばらく、何も言わなかった。


「綺麗だな」


 短い、一言だった。


 ソウは、リアの横顔を半分見た。

 リアの目は、第三の畑の北側八列の穂の波の上を、ゆっくり移動していた。揶揄うような色は、なかった。


「俺には——」


 ソウは答えた。


「食料に見える」


 リアが、横顔のまま笑った。

 声は出さなかった。だが、口の端のわずかな上がり方で、ソウには分かった。


「つまらない奴」


 リアが言った。


 言葉の表面は、悪態だった。

 だが、その下の声の温度は、悪態の温度ではなかった。



 風が、もう一度、川下から上がってきた。


 穂が揺れる音が、聞こえた。

 葉と葉が擦れる音とは、別の音だった。出始めたばかりの細い穂が、隣の茎の穂と軽く触れ合う、もっと乾いた、低い音。


「お前さ」


 リアが、視線を穂の波の上に置いたまま言った。


「一年前に、『畑を作る』って言った時」


 リアの声は、低くなっていた。


「こうなると思ってたのか?」


 ソウはすぐには答えなかった。


 一年前。

 第二の畑の最初の試し刈りの少し前。畑がまだ、半分しか緑を持っていなかった頃。あの時、自分が、一年後の今朝のこの穂の波を思い描いていたかどうか——ソウは、頭の中でその問いを、丁寧にもう一度置き直した。


「思ってた——」


 ソウはゆっくり始めた。


「と、言いたいところだが」


 リアが、半分だけソウの方を見た。


「正直に言えば、ここまでうまくいくとは思ってなかった」


 リアはそれから、また、視線を穂の方へ戻した。


「でも、やった」


「やるしかなかったからな」


 ソウは答えた。

 声に、力みは入れなかった。


 リアはしばらく、黙っていた。

 言いかけた、何かを、口の中で一度転がしている顔だった。それから——その何かを飲み込んだ。


 代わりに、リアの指が、第三の畑の南端を指差した。


「あの二列、まだ跡が残ってるな」


 黄色い茎の伏せた二列だった。

 雨の三日目に、ソウが捨てる、と判断した二列。


「来年は」


 ソウは言った。


「排水溝を、先に掘ってから、蒔く」


「来年も、やるのか」


「来年も、再来年もだ」


 ソウは続けた。


「ずっと」


 リアはもう、答えなかった。


 風が、二人の間を通り抜けた。

 穂が揺れる低い音だけが、しばらく二人の間に残った。



「収穫はいつだ」


 しばらくして、リアが聞いた。


「あと一ヶ月くらいだ」


「手伝う」


「え?」


 ソウが、リアの方を見た。

 リアは、穂の方を向いたままだった。


「手伝うって言ってるんだ」


 リアが言った。


「耳が悪いのか」


 ソウは答えに迷った。


 迷っているうちに、リアが、肩の弓を軽く担ぎ直した。

 半歩、丘の下の方へ、足を進めた。


「暇だからだよ」


 リアは振り返らずに、それだけ言った。


 その四文字は、ソウの耳に聞き覚えのある四文字だった。

 夜の排水溝の時。寝られないんだよ、とリアが嘘をついた、あの夜の——少し前と、少し後に、何度か、聞いた四文字。


 リアの背中は、丘の下の方へ、ゆっくり遠ざかっていった。

 赤い紐の先が、後ろ姿の首筋のあたりで、リアの歩幅に合わせて、小さく揺れていた。



 ソウは、リアの背中が丘の下に消えるまで、その場に立っていた。


 風が、穂の上をもう一度撫でた。

 穂の音がまた、低くソウの耳に届いた。


 穂が揺れている。


 ——あの音が好きだ。

 ソウの口の中で、その四音が形になった。


 声には出さなかった。

 声に出す相手は、その時、近くにはいなかった。


 前世では聞いたことのない音だった。

 風と穀物だけが作る音。何の楽器も、何の機械も、混ざっていない。乾いた、優しい音だった。


 ソウは、自分の手の甲に朝の光が当たっているのを見た。

 日が、もう少し高くなっていた。第二の畑の方からは、ミラの「あらあら」の声がまた、低く聞こえていた。トウカが、ミラに何かを聞いている声も、混じっていた。


 ソウはもう一度、穂の音に、耳を傾けた。

 乾いた、低い音はまだ続いていた。明日も、明後日も、収穫の朝までも、その音は、同じ風の中で続くはずだった。



 ソウは、息を一つ吐いた。


 頭の片隅に置いた問いが、また一つ増えていた。


 ミラの目に、ようやく自分の手で見つけた刈り頃の見分け方。

 リアの口から、振り返らずに落ちた「暇だからだよ」の、二度目か、三度目。それから、来年も、再来年もだ、と自分の口で、ソウが言ったこと。


 その三つを、ソウは、頭の中のいつもの場所に置き直した。


 置きながら、ソウは、自分の指先をもう一度握って開いた。

 昨日の痺れの名残は、もう、ほとんど引いていた。


 順調だ。


 ソウの口の中で、その三音が形になった。

 形になってから、ソウは、その三音に、自分で軽く引っかかった。


 順調な時ほど、警戒すべきだ。


 ソウは、その文を、頭の中にもう一度置いた。

 昨日のいつもの場所のすぐ隣だった。

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