第24話「印をつける手」
午後の畑に、ソウは一人で立っていた。
日は、頭の真上を少し過ぎたばかりだった。
風は川下から吹いていて、第一の畑の葉を、川の方から丘の上の方へ、順番に撫でていく。葉はソウの腰の上まで伸びていた。雨明けから、半月。茎は最初の一節を太らせ、二節目に入りかけていた。
穂はまだ出ていない。
葉の段階。だが、葉の付け根の茎の太さに——ソウの目は、最初にそこを見ていた。
*
ソウは第一の畑の北の縁から、ゆっくり列の間に入った。
地面は踏み固めてある。
歩幅は、苗を蹴らないように半歩ずつ。腰を低く落として、列の中ほどでしゃがんだ。
目の前の茎を、指で軽く挟んでみる。
節と節の間が長い。茎は細い。ソウは、その茎を指先から離した。
二歩横にずれる。
そこの茎をまた、指で挟んだ。
太い。
節間は短く、茎の根元が、しっかりと土を掴んでいた。葉の幅も、半分ほど広い。
ソウは自分の腰の革袋から、細く裂いた草の紐を一本取り出した。
昨日のうちに、川辺の繊維の強い葉を選んで、何本も裂いてあった。指の腹で揉んでおいたから、結び目がほどけにくい。
太い茎の根元に、紐を二重に巻いた。
固結びを一つ。それから、結び目の位置を、上から軽く押さえた。
目印は、これでついた。
ソウは立ち上がった。
膝が、少しだけ鳴った。
二列目、三列目と、同じ動きが続いた。
太い茎は大きな実をつける。大きな実から取った種は、次の世代の苗を太い茎に育てる傾向がある——はずだ。
昨日、ガランの調停の夜に重たくなった「はずだ」と、同じ二音。だが、今日のはいくらか軽かった。茎は人より、ずっとこちらの言うことを聞きやすい。
*
第一の畑の半分を回った頃、丘の下の方から、足音が聞こえてきた。
軽くはない。
だが、重すぎもしなかった。歩幅は一定。何かを肩に担いでいる足音だった。
ソウは、しゃがんだまま顔を上げた。
テツが登ってきていた。
肩には、改良型の石鍬が一本。柄の先に嵌まった刃が、午後の光の中で鈍く光っていた。穴に直接通された柄は、ぐらつきの気配をまったく見せていなかった。
「何してるんだ」
テツが、畑の縁で足を止めた。
石鍬を肩から下ろして、刃の先を地面に立てかけた。
「選別」
ソウは短く返した。
「選別?」
「太い茎を覚えておく」
ソウは立ち上がりながら、自分が結んだ紐を指差した。
第一の畑のあちこちに、低い緑の中にもう一段濃い緑の小さな結び目が、点々と見え始めていた。
テツが、列の方へ一歩入ってきた。
しゃがんで、結び目の一つを指の腹で触った。
「これ、お前の手で結んだのか」
「全部、俺だ」
「何のために」
テツが結び目から指を離して、ソウを見上げた。
目の中に、好奇心の色が半分。残り半分には、別の色があった。納得していない、というよりは、もう半歩踏み込みたい、という顔。
ソウはしゃがんだ姿勢のまま、テツに向き直った。
「太い茎は、大きい実をつける」
ソウはゆっくり言った。
「種を取る時、大きい実から取れば、次の年に蒔く種は大きい実の系統になる。大きい実の系統から育った苗も、太い茎になりやすい——はずだ」
テツはすぐには返事をしなかった。
結び目の上の紐の端を、指で軽く弾いた。紐がわずかに揺れた。
しばらくしてテツは、低く言った。
「お前さあ」
テツの顔は、紐の方を向いていた。
「精霊の代わりに、自然を動かそうとしてるのか?」
ソウの指がわずかに止まった。
川下からの風が、もう一度、葉の上を通った。
葉と葉が擦れる音が、しばらく二人の間に残った。
ソウは、テツの横顔を見た。
テツは笑っていなかった。からかいの色も、なかった。地面の方を向いた目の奥に、ただ、まっすぐな問いだけが置かれていた。
——テツはわかっている。
ソウの頭の中で、その判定はほとんど即座に下りた。
着柄を独力で形にした手と、同じ手だった。
石鍬の刃が泥の中でずれた、その違和感を、刃の根元の溝という形で答えに変えた、あの手。テツは人より一段早く、物事の輪郭を、自分の手でなぞる。
ソウは、息を一つ整えた。
「精霊じゃない」
ソウは答えた。
「理屈だ」
テツはそれから、ようやくソウの方を見た。
すぐには何も言わなかった。だが、目の奥の問いの色が、半分ほどけていた。
「……理屈、ねえ」
テツが、紐の上から自分の指を離した。
「俺の刃に開ける穴と、同じ種類のやつだな」
テツはそれだけ言った。
立ち上がって、肩に石鍬を担ぎ直す。畑の縁の方へ、半歩戻った。
「邪魔した」
短かった。
だが、その短さの中に、これ以上聞かない、という、テツなりの選択が確かにあった。
ソウは、テツの背中が、第二の畑の方へ歩き去るのを、しばらく見ていた。
*
第二の畑の畝に、テツが入っていくのと入れ違いだった。
第三の畑の方角から、二人の女が上がってきた。
先に立っていたのは、ナツだった。
肩に、空の籠を一つ引っ掛けていた。日に焼けた額に、薄く汗が浮かんでいる。第三の畑の北側八列の葉の状態を、朝から見て回っていた帰りらしかった。
ナツの半歩後ろを、もう一人がついていた。
背が、ナツより半分ほど低い。
肩幅も、細い。後ろで一つに束ねた髪の先が、首筋の汗でわずかに張りついていた。手の中に、ナツの籠とは別の、もう一回り小さい籠を両手で抱えていた。
その若い方が、ソウの結んだ紐を最初に見つけた。
「あ」
声は小さかった。
だが、ナツの足を止めるには十分だった。
ナツが振り返って、若い方の視線を追った。
それから、ソウの方へ目線を移した。ソウは第一の畑の中央あたりで、五本目の紐を結んでいる途中だった。
「ねえ、ソウ」
ナツが、列の縁から声をかけてきた。
「何の印?」
ソウは結び終えた紐の端を軽く整えてから、立ち上がった。
「太い茎に、目印をつけてる」
「目印」
ナツが繰り返した。
籠を肩から下ろして、自分の足元の茎を一本指で挟んだ。それから、半歩横にずれて、もう一本。
「……たしかに、太さが違うね」
ナツの声は、独り言に近かった。
二本目の茎を指で挟んだまま、しばらく目を伏せていた。観察力のある女が、自分の指の感覚で初めて、ソウが指している差を実際に確かめた、という間合いだった。
ナツの後ろで、若い方がまだ紐の方を見ていた。
「トウカ」
ナツが、振り返らずにその名を呼んだ。
「あんたの方が、こういうの上手いよ」
トウカが半歩前に出た。
ナツの肩越しに、ソウの結んだ紐をもう一度見た。それから、自分の籠を、ナツの足元にそっと置いた。
「ナツ姉さん」
トウカの声は、低くもなく高くもなかった。
だが、語尾の収まり方が、ソウの周りで普段聞いている若い男たちのものとは違っていた。少し、丁寧だった。
「これ、結んでも、いいですか」
ナツは自分の足元の茎を指から離して、一度ソウの方を見た。
ソウが頷いた。
「お願い」
ナツが、トウカに短く言った。
*
トウカが、ソウの隣まで来た。
膝を、土の上に軽く落とす。
籠の中から、ソウのものよりもう一段細い草の紐を、何本か取り出した。先を軽く揃えてから、一本を、自分の指の腹で撫でた。
「これ、ナツ姉さんと編んだやつです」
トウカが、紐をソウの方に向けて、見せた。
繊維の方向が、揃っていた。ソウのものは川辺で裂いただけだったから、ところどころ、繊維が斜めに走っていた。トウカの紐の方が、結び目の収まりは、確実に良くなりそうだった。
「これ、何のためですか」
トウカが、自分の手の中の紐を軽く握ったまま、聞いた。
声は、ソウの方をまっすぐに見ていなかった。視線は、ソウの足元の茎の根元、結び目の少し下のあたりに置かれていた。
ソウはすぐには返事をしなかった。
——テツとは違う問い方だ。
ソウの頭の中で、その判定がまず、立った。
テツの問いは、結び目の意味の奥の奥を探っていた。
トウカの問いはまず、目の前の作業の意味を確かめていた。「これは何をしている作業ですか」という、最初の一段。
ソウは、その差を、頭の中で丁寧に見分けた。
トウカに渡すべき答えは、テツに渡したものと、同じ言葉ではない。
ソウはしゃがんだまま、自分の足元の紐を結んだ茎を指差した。
「この太い茎の方が」
ソウはゆっくり始めた。
「同じ畑の他の茎よりも、大きな実をつけると思う」
トウカが頷いた。
まだ視線は、茎の根元のあたりに置かれていた。
「で、来年、また種を蒔く時に」
ソウは続けた。
「全部の実から適当に取った種じゃなくて、この太い茎が育てた実から、種を取って蒔く」
「…………」
「そうすると、来年の苗は、今年の太い茎の子供になる。子供は親に似ることが多い。だから、来年の苗の方が、今年より少しだけ、太い茎が増える」
ソウはそこで一度、言葉を切った。
トウカの呼吸の間隔を見てから、続けた。
「再来年も、同じことをする。一番太いやつから、種を取る」
「……ずっと、ですか」
トウカが初めて、ソウの方を見た。
「ずっとだ」
「何年も」
「何年もだ」
トウカはしばらく、何も言わなかった。
ソウの結んだ紐の結び目を、もう一度見た。それから、自分の手の中の細い紐に視線を落とした。
「だから、印をつけておくんですね」
トウカの声は、確認の低さだった。
「忘れたら、種が取れなくなるから」
「そうだ」
ソウは頷いた。
トウカは、それきり、何も聞かなかった。
*
トウカの手は、速かった。
ソウが一本結ぶ間に、トウカは、二本結んでいた。
結び目の収まりは、ソウのものより明らかに整っていた。紐の余りの長さがすべて、揃っていた。指の腹で最後に一度、結び目の位置を上から押さえる動きまで、いつの間にか、ソウのやり方を真似ていた。
ナツは、第二の畑の畝の方で、テツと何かを話していた。
時折、トウカの方を振り返って、結び目の数を目で数えていた。それから、また、テツの方に向き直った。
ソウは、第一の畑の南端の方でしゃがんでいた。
膝の関節が長くしゃがんでいた分、わずかに痺れ始めていた。
トウカの結ぶ音が、列の二つ向こうで続いていた。
草の繊維が軽く擦れる、低い音。それが、規則的でも不規則でもない間隔で、ソウの耳に届いていた。
ソウの頭の中で、数字の輪郭が、まだ薄いまま組まれ始めていた。
今年印をつけた親から取った種を、来年、また選ぶ。何年か繰り返せば、畑は放っておくよりも、確実に太い方へ動く——向きだけは、はっきりしていた。
ソウは、自分の指先を見た。
何本も結んだあとの指の腹に、草の繊維の細かい屑が薄く張りついていた。湿り気のある屑だった。指で軽く払う。屑は、地面の上にぱらぱらと落ちた。
払い終えた指を、ソウはもう一度、新しい紐に伸ばした。
*
日が、丘の西側に傾き始めた頃。
第一の畑の最後の列を、ソウが結び終えた。
顔を上げると、トウカはもう、第二の畑の縁まで進んでいた。立ち上がって、自分の籠の中の残った紐の本数を数えていた。
ナツが、トウカの隣に立っていた。
二人が、何かを低く話していた。トウカが結び目の作り方を、ナツにもう一度説明している顔だった。ナツが頷いて、トウカの肩を軽く叩いた。
ソウは、その光景を、第一の畑の南端からしばらく見ていた。
——伝わった。
ソウの口の中で、その三音が形になった。
声には出さなかった。
声に出す必要はなかった。トウカの手の動きの速さと、丁寧さの中に、もう答えは置かれていた。
着柄が、テツの手から、別の誰かの手に渡るには、まだ何度かの夏が要るかもしれない。
だが、紐を結ぶ手は、今日もう、ソウ一人の手から、トウカの手に、半分渡った。何年か、何十年か先に、畑の茎が今年より太くなっている時、その太さの始まりに、今日のトウカの結び目が混じっている。
ソウは、自分の指先をもう一度見た。
草の繊維の屑が、また薄く張りついていた。今度は払わなかった。
*
風が、川下から、もう一度上がってきた。
第一の畑の葉が、丘の上の方へ、順番に撫でられた。
ソウが結んだ結び目が、その風の中で揺れた。緑の葉と、もう一段濃い緑の紐が、低い高さで、同じ方向に傾いた。
第二の畑の畝の上では、テツの肩の上の石鍬の刃が、傾いた光を返していた。
第三の畑の北側八列も、同じ風の中で、葉を揺らしていた。南端の二列だけが揺れずに黄色いまま、伏せていた。
その間に、トウカの手の動きが、もう一つ加わっていた。
ソウは立ち上がった。
膝が、長く屈んでいた分、今度は、はっきり鳴った。
頭の片隅に置いたものが、また一つ増えていた。
ガランの調停の続き。バアの咳の重なり。サガの足が向かう方角。それから今日、トウカの手に渡った、結び目の作り方。
ソウは、その置いた場所にもう一度、印をつけ直した。
昨日と同じ動作だった。だが、印の数が、一つ増えていた。
夜の風には、夏の盛りの中でも薄く、別の季節の匂いが混じり始めていた。
まだ秋の気配と呼ぶには早かった。だが、夜の方が、確実に長くなる方角に、季節は動いていた。
印をつけた茎が、風に揺れていた。
明日も、明後日も、ソウが見ていない時間にも、その茎は、同じ風の中で揺れ続けるはずだった。




