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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第24話「印をつける手」

 午後の畑に、ソウは一人で立っていた。


 日は、頭の真上を少し過ぎたばかりだった。

 風は川下から吹いていて、第一の畑の葉を、川の方から丘の上の方へ、順番に撫でていく。葉はソウの腰の上まで伸びていた。雨明けから、半月。茎は最初の一節を太らせ、二節目に入りかけていた。


 穂はまだ出ていない。

 葉の段階。だが、葉の付け根の茎の太さに——ソウの目は、最初にそこを見ていた。



 ソウは第一の畑の北の縁から、ゆっくり列の間に入った。


 地面は踏み固めてある。

 歩幅は、苗を蹴らないように半歩ずつ。腰を低く落として、列の中ほどでしゃがんだ。


 目の前の茎を、指で軽く挟んでみる。

 節と節の間が長い。茎は細い。ソウは、その茎を指先から離した。


 二歩横にずれる。

 そこの茎をまた、指で挟んだ。


 太い。

 節間は短く、茎の根元が、しっかりと土を掴んでいた。葉の幅も、半分ほど広い。


 ソウは自分の腰の革袋から、細く裂いた草の紐を一本取り出した。

 昨日のうちに、川辺の繊維の強い葉を選んで、何本も裂いてあった。指の腹で揉んでおいたから、結び目がほどけにくい。


 太い茎の根元に、紐を二重に巻いた。

 固結びを一つ。それから、結び目の位置を、上から軽く押さえた。


 目印は、これでついた。


 ソウは立ち上がった。

 膝が、少しだけ鳴った。


 二列目、三列目と、同じ動きが続いた。

 太い茎は大きな実をつける。大きな実から取った種は、次の世代の苗を太い茎に育てる傾向がある——はずだ。

 昨日、ガランの調停の夜に重たくなった「はずだ」と、同じ二音。だが、今日のはいくらか軽かった。茎は人より、ずっとこちらの言うことを聞きやすい。



 第一の畑の半分を回った頃、丘の下の方から、足音が聞こえてきた。


 軽くはない。

 だが、重すぎもしなかった。歩幅は一定。何かを肩に担いでいる足音だった。


 ソウは、しゃがんだまま顔を上げた。


 テツが登ってきていた。

 肩には、改良型の石鍬が一本。柄の先に嵌まった刃が、午後の光の中で鈍く光っていた。穴に直接通された柄は、ぐらつきの気配をまったく見せていなかった。


「何してるんだ」


 テツが、畑の縁で足を止めた。

 石鍬を肩から下ろして、刃の先を地面に立てかけた。


「選別」


 ソウは短く返した。


「選別?」


「太い茎を覚えておく」


 ソウは立ち上がりながら、自分が結んだ紐を指差した。

 第一の畑のあちこちに、低い緑の中にもう一段濃い緑の小さな結び目が、点々と見え始めていた。


 テツが、列の方へ一歩入ってきた。

 しゃがんで、結び目の一つを指の腹で触った。


「これ、お前の手で結んだのか」


「全部、俺だ」


「何のために」


 テツが結び目から指を離して、ソウを見上げた。

 目の中に、好奇心の色が半分。残り半分には、別の色があった。納得していない、というよりは、もう半歩踏み込みたい、という顔。


 ソウはしゃがんだ姿勢のまま、テツに向き直った。


「太い茎は、大きい実をつける」


 ソウはゆっくり言った。


「種を取る時、大きい実から取れば、次の年に蒔く種は大きい実の系統になる。大きい実の系統から育った苗も、太い茎になりやすい——はずだ」


 テツはすぐには返事をしなかった。

 結び目の上の紐の端を、指で軽く弾いた。紐がわずかに揺れた。


 しばらくしてテツは、低く言った。


「お前さあ」


 テツの顔は、紐の方を向いていた。


「精霊の代わりに、自然を動かそうとしてるのか?」


 ソウの指がわずかに止まった。


 川下からの風が、もう一度、葉の上を通った。

 葉と葉が擦れる音が、しばらく二人の間に残った。


 ソウは、テツの横顔を見た。

 テツは笑っていなかった。からかいの色も、なかった。地面の方を向いた目の奥に、ただ、まっすぐな問いだけが置かれていた。


 ——テツはわかっている。

 ソウの頭の中で、その判定はほとんど即座に下りた。


 着柄を独力で形にした手と、同じ手だった。

 石鍬の刃が泥の中でずれた、その違和感を、刃の根元の溝という形で答えに変えた、あの手。テツは人より一段早く、物事の輪郭を、自分の手でなぞる。


 ソウは、息を一つ整えた。


「精霊じゃない」


 ソウは答えた。


「理屈だ」


 テツはそれから、ようやくソウの方を見た。

 すぐには何も言わなかった。だが、目の奥の問いの色が、半分ほどけていた。


「……理屈、ねえ」


 テツが、紐の上から自分の指を離した。


「俺の刃に開ける穴と、同じ種類のやつだな」


 テツはそれだけ言った。

 立ち上がって、肩に石鍬を担ぎ直す。畑の縁の方へ、半歩戻った。


「邪魔した」


 短かった。

 だが、その短さの中に、これ以上聞かない、という、テツなりの選択が確かにあった。


 ソウは、テツの背中が、第二の畑の方へ歩き去るのを、しばらく見ていた。



 第二の畑の畝に、テツが入っていくのと入れ違いだった。


 第三の畑の方角から、二人の女が上がってきた。


 先に立っていたのは、ナツだった。

 肩に、空の籠を一つ引っ掛けていた。日に焼けた額に、薄く汗が浮かんでいる。第三の畑の北側八列の葉の状態を、朝から見て回っていた帰りらしかった。


 ナツの半歩後ろを、もう一人がついていた。


 背が、ナツより半分ほど低い。

 肩幅も、細い。後ろで一つに束ねた髪の先が、首筋の汗でわずかに張りついていた。手の中に、ナツの籠とは別の、もう一回り小さい籠を両手で抱えていた。


 その若い方が、ソウの結んだ紐を最初に見つけた。


「あ」


 声は小さかった。

 だが、ナツの足を止めるには十分だった。


 ナツが振り返って、若い方の視線を追った。

 それから、ソウの方へ目線を移した。ソウは第一の畑の中央あたりで、五本目の紐を結んでいる途中だった。


「ねえ、ソウ」


 ナツが、列の縁から声をかけてきた。


「何の印?」


 ソウは結び終えた紐の端を軽く整えてから、立ち上がった。


「太い茎に、目印をつけてる」


「目印」


 ナツが繰り返した。

 籠を肩から下ろして、自分の足元の茎を一本指で挟んだ。それから、半歩横にずれて、もう一本。


「……たしかに、太さが違うね」


 ナツの声は、独り言に近かった。

 二本目の茎を指で挟んだまま、しばらく目を伏せていた。観察力のある女が、自分の指の感覚で初めて、ソウが指している差を実際に確かめた、という間合いだった。


 ナツの後ろで、若い方がまだ紐の方を見ていた。


「トウカ」


 ナツが、振り返らずにその名を呼んだ。


「あんたの方が、こういうの上手いよ」


 トウカが半歩前に出た。

 ナツの肩越しに、ソウの結んだ紐をもう一度見た。それから、自分の籠を、ナツの足元にそっと置いた。


「ナツ姉さん」


 トウカの声は、低くもなく高くもなかった。

 だが、語尾の収まり方が、ソウの周りで普段聞いている若い男たちのものとは違っていた。少し、丁寧だった。


「これ、結んでも、いいですか」


 ナツは自分の足元の茎を指から離して、一度ソウの方を見た。

 ソウが頷いた。


「お願い」


 ナツが、トウカに短く言った。



 トウカが、ソウの隣まで来た。


 膝を、土の上に軽く落とす。

 籠の中から、ソウのものよりもう一段細い草の紐を、何本か取り出した。先を軽く揃えてから、一本を、自分の指の腹で撫でた。


「これ、ナツ姉さんと編んだやつです」


 トウカが、紐をソウの方に向けて、見せた。

 繊維の方向が、揃っていた。ソウのものは川辺で裂いただけだったから、ところどころ、繊維が斜めに走っていた。トウカの紐の方が、結び目の収まりは、確実に良くなりそうだった。


「これ、何のためですか」


 トウカが、自分の手の中の紐を軽く握ったまま、聞いた。

 声は、ソウの方をまっすぐに見ていなかった。視線は、ソウの足元の茎の根元、結び目の少し下のあたりに置かれていた。


 ソウはすぐには返事をしなかった。


 ——テツとは違う問い方だ。

 ソウの頭の中で、その判定がまず、立った。


 テツの問いは、結び目の意味の奥の奥を探っていた。

 トウカの問いはまず、目の前の作業の意味を確かめていた。「これは何をしている作業ですか」という、最初の一段。


 ソウは、その差を、頭の中で丁寧に見分けた。

 トウカに渡すべき答えは、テツに渡したものと、同じ言葉ではない。


 ソウはしゃがんだまま、自分の足元の紐を結んだ茎を指差した。


「この太い茎の方が」


 ソウはゆっくり始めた。


「同じ畑の他の茎よりも、大きな実をつけると思う」


 トウカが頷いた。

 まだ視線は、茎の根元のあたりに置かれていた。


「で、来年、また種を蒔く時に」


 ソウは続けた。


「全部の実から適当に取った種じゃなくて、この太い茎が育てた実から、種を取って蒔く」


「…………」


「そうすると、来年の苗は、今年の太い茎の子供になる。子供は親に似ることが多い。だから、来年の苗の方が、今年より少しだけ、太い茎が増える」


 ソウはそこで一度、言葉を切った。

 トウカの呼吸の間隔を見てから、続けた。


「再来年も、同じことをする。一番太いやつから、種を取る」


「……ずっと、ですか」


 トウカが初めて、ソウの方を見た。


「ずっとだ」


「何年も」


「何年もだ」


 トウカはしばらく、何も言わなかった。

 ソウの結んだ紐の結び目を、もう一度見た。それから、自分の手の中の細い紐に視線を落とした。


「だから、印をつけておくんですね」


 トウカの声は、確認の低さだった。


「忘れたら、種が取れなくなるから」


「そうだ」


 ソウは頷いた。


 トウカは、それきり、何も聞かなかった。



 トウカの手は、速かった。


 ソウが一本結ぶ間に、トウカは、二本結んでいた。

 結び目の収まりは、ソウのものより明らかに整っていた。紐の余りの長さがすべて、揃っていた。指の腹で最後に一度、結び目の位置を上から押さえる動きまで、いつの間にか、ソウのやり方を真似ていた。


 ナツは、第二の畑の畝の方で、テツと何かを話していた。

 時折、トウカの方を振り返って、結び目の数を目で数えていた。それから、また、テツの方に向き直った。


 ソウは、第一の畑の南端の方でしゃがんでいた。

 膝の関節が長くしゃがんでいた分、わずかに痺れ始めていた。


 トウカの結ぶ音が、列の二つ向こうで続いていた。

 草の繊維が軽く擦れる、低い音。それが、規則的でも不規則でもない間隔で、ソウの耳に届いていた。


 ソウの頭の中で、数字の輪郭が、まだ薄いまま組まれ始めていた。

 今年印をつけた親から取った種を、来年、また選ぶ。何年か繰り返せば、畑は放っておくよりも、確実に太い方へ動く——向きだけは、はっきりしていた。


 ソウは、自分の指先を見た。

 何本も結んだあとの指の腹に、草の繊維の細かい屑が薄く張りついていた。湿り気のある屑だった。指で軽く払う。屑は、地面の上にぱらぱらと落ちた。


 払い終えた指を、ソウはもう一度、新しい紐に伸ばした。



 日が、丘の西側に傾き始めた頃。


 第一の畑の最後の列を、ソウが結び終えた。

 顔を上げると、トウカはもう、第二の畑の縁まで進んでいた。立ち上がって、自分の籠の中の残った紐の本数を数えていた。


 ナツが、トウカの隣に立っていた。

 二人が、何かを低く話していた。トウカが結び目の作り方を、ナツにもう一度説明している顔だった。ナツが頷いて、トウカの肩を軽く叩いた。


 ソウは、その光景を、第一の畑の南端からしばらく見ていた。


 ——伝わった。

 ソウの口の中で、その三音が形になった。


 声には出さなかった。

 声に出す必要はなかった。トウカの手の動きの速さと、丁寧さの中に、もう答えは置かれていた。


 着柄が、テツの手から、別の誰かの手に渡るには、まだ何度かの夏が要るかもしれない。

 だが、紐を結ぶ手は、今日もう、ソウ一人の手から、トウカの手に、半分渡った。何年か、何十年か先に、畑の茎が今年より太くなっている時、その太さの始まりに、今日のトウカの結び目が混じっている。


 ソウは、自分の指先をもう一度見た。

 草の繊維の屑が、また薄く張りついていた。今度は払わなかった。



 風が、川下から、もう一度上がってきた。


 第一の畑の葉が、丘の上の方へ、順番に撫でられた。

 ソウが結んだ結び目が、その風の中で揺れた。緑の葉と、もう一段濃い緑の紐が、低い高さで、同じ方向に傾いた。


 第二の畑の畝の上では、テツの肩の上の石鍬の刃が、傾いた光を返していた。

 第三の畑の北側八列も、同じ風の中で、葉を揺らしていた。南端の二列だけが揺れずに黄色いまま、伏せていた。


 その間に、トウカの手の動きが、もう一つ加わっていた。


 ソウは立ち上がった。

 膝が、長く屈んでいた分、今度は、はっきり鳴った。


 頭の片隅に置いたものが、また一つ増えていた。

 ガランの調停の続き。バアの咳の重なり。サガの足が向かう方角。それから今日、トウカの手に渡った、結び目の作り方。


 ソウは、その置いた場所にもう一度、印をつけ直した。

 昨日と同じ動作だった。だが、印の数が、一つ増えていた。


 夜の風には、夏の盛りの中でも薄く、別の季節の匂いが混じり始めていた。

 まだ秋の気配と呼ぶには早かった。だが、夜の方が、確実に長くなる方角に、季節は動いていた。


 印をつけた茎が、風に揺れていた。

 明日も、明後日も、ソウが見ていない時間にも、その茎は、同じ風の中で揺れ続けるはずだった。

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