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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第23話「分業の軋轢」

 夏が深くなった。


 雨が止んでから、半月が過ぎていた。

 第一の畑の葉は、ソウの腰の上まで届くようになり、第二の畑の畝は、川面からの照り返しを受けて、葉の縁が一日中、白く光っていた。第三の畑の北側八列は、雨をくぐり抜けた強さを残したまま、茎を太らせ続けていた。南端の二列だけが黄色いまま、土に伏せていた。


 集落の方では、別の変化が形を取り始めていた。


 朝、日が出て間もない頃。

 ソウが寝床の小屋の前に出ると、もう、人の流れが二つに分かれていた。


 一つは南へ。狩りの組だった。ゴウザを先頭に、若手の猟師が三人、弓と槍を肩にかけて、林の方角へ歩いていく。

 もう一つは北の丘の上へ。畑へ向かう組だった。テツ、サガ、ノタ、アズ。それから、手伝いに加わるようになったダイ、ヒガ、ナツ、ミラ。バアも、自分の薬草の苗の方へ、ゆっくり歩いていく。


 数えれば、十人を超えていた。


 ソウは小屋の前で、その二つの流れをしばらく目で追った。

 誰が決めたわけでもなかった。ガランが指図したわけでもない。朝、それぞれが自分の足で、自分の向かう方角を選んでいた。


 ——分業の始まりだ。


 ソウの口の中で、その言葉は声にならない形のまま、輪郭を持った。

 前世の経済の本に、何度も出てきた文だった。農業が余剰を生み、余剰が分業を可能にする。分業が効率を上げ、効率がさらなる余剰を生む。文明を支える循環の最初の歯車。それが、いま、目の前で軋みながら回り始めていた。


 軋みながら。

 その言葉に、ソウは自分で引っかかった。



 その夜だった。


 夕食はいつも通り、焚き火を囲んで取られた。

 昼の狩りで、兎が二匹と小鹿が一頭。穀物を、枯草と粘土で内側を覆った木の桶で、薄く煮たもの。ナツとミラが交代で配って回り、子供たちから順に椀を受け取っていく。


 火の周りには、十五、六人が座っていた。

 その日、畑にいた者と狩りから戻った者が、同じ火を囲んでいた。


 最初は、いつもの夜だった。

 ヒガが「すげえな、今日の小鹿、肝が大きかった」と軽口を叩いて、ダイが「うるさい」と短く返し、ナツが笑いながら粥を啜っていた。


 空気が変わったのは、サガが椀を膝の上に置いて、腰を浮かせた時だった。


「——なあ」


 サガの声は低くもなく、特別大きくもなかった。

 だが、その声を聞いた何人かが、椀を口元から離した。


「俺たちが狩りに行ってる間、畑の連中は土を掘ってるだけだろ」


 サガは続けた。

 言葉は自分の膝の方を向いていた。誰の目も、まっすぐには見ていなかった。


「どっちが大変か、考えてみろよ」


 火の音が、急に大きく聞こえた。

 粥を啜る音が、あちこちで止まった。


 ソウは火の向こう側に座っていた。

 サガの横顔が、火の揺れの中で半分だけ赤かった。サガの椀はまだ半分以上、粥が残っていた。


 ——サガは、農業チームの一員だ。

 昼に畑にいた。ソウの隣で土を掘っていた。


 ソウの頭の中で、その事実がまず先に立ち上がった。

 サガは農業に自分の手を染めていた。にもかかわらず、いま、その同じ口で、畑を「土を掘ってるだけ」と呼んでいた。


 ソウは、すぐには言葉を返さなかった。


 サガは農業に手は染めながらも、心の片隅で、猟師の誇りを捨てきれずにいた。

 弓を背負って林を駆ける男たちの背中が、サガの中でまだ眩しいのだろう。畑にしゃがんで土を寄せる自分の姿が、その背中と並んで頭の中に置かれた時、後者の方が小さく見える日が、サガにはある。


 その揺れを、ソウは責める気にはなれなかった。

 責めたところで、揺れは消えない。揺れは、サガが十六で若いから、ある。


 だが、揺れたまま口に出した言葉は、火の周りの空気を、確かに固くした。



 最初に動いたのは、ヒガだった。


 ヒガは、ダイの隣で、四つ目の粥のおかわりに手を伸ばしかけていた。

 その手を、半分の高さで止めた。


「お前さあ」


 ヒガがサガの方を向いた。

 声は、いつもの軽口の調子だった。だが、語尾が、いつもより一段、低かった。


「一度、俺たちと一緒に水路掘ってみろよ」


 ヒガは、自分の右の掌をサガに向けて、軽く広げて見せた。

 掌の付け根に、皮の剥けた跡が、何か所か、薄く赤く残っていた。雨明けから、第三の畑の南側に新しい溝を掘り始めていた。雨の前に整えておく。ソウが繰り返してきた言葉を、ダイとヒガが形にしていた。


「腰が砕けるぞ」


 ヒガが低く言った。


 サガが、ヒガの掌を、火の明かりの中で見た。

 それから、自分の掌に視線を落とした。サガの掌にも、似た跡があるはずだった。畑の土を寄せる作業で、革紐の柄が皮の同じ場所を擦る。


「……マジか、って、お前、俺の前で言うのっすか」


 サガが低く呟いた。

 いつもなら同年代のヒガに、敬語混じりの語尾は使わない。だが、ヒガの掌に並んだ皮の剥けた跡を見た直後の声は、本人の意図とは別に、半歩、年上の男に対する形にずれていた。


 ヒガは笑わなかった。


「マジだ」


 ヒガはそれだけ返した。

 いつもの「マジか」が、立場を入れ替えて、ヒガの口から出ていた。


 火の周りの誰かが息を呑む音が、ソウの耳に届いた。

 ヒガとサガの間に、夜の空気が薄く張った。



 張った空気を、ガランが断ち切った。


 ガランは火の向こう側、いつもの自分の場所に座っていた。

 その日は夕方まで、畑の縁の溝の補強を見ていて、肩のあたりにまだ汗のあとが残っていた。粥を一口啜ってから、椀を足元に置いた。それから、立ち上がった。


 ガランが立ち上がった、というだけで、火の周りの全員の視線が、一斉に上がった。


 ガランの背は、特別高くはなかった。

 だが、立ち上がった時の背骨の伸び方には、若い男のそれにはない種類の、まっすぐさがあった。肩の幅は、火の明かりの中で、実際よりも一段、広く見えた。


 ガランは、火の向こうから、サガを見た。

 目を細めるでもなく、声を荒らげるでもなかった。ただ、見た。


 それから、低い声で言った。


「食料が増えれば、全員の腹が膨れる」


 短かった。


「文句を言うな」


 それで終わりだった。


 ガランはもう一度椀を取って、腰を下ろした。

 立ち上がってから座るまで、たぶん、十数えるよりも短かった。


 サガは口をつぐんだ。

 膝の上の椀を、両手で握り直した。指の関節の白さが、火の光の中ではっきり見えた。


 火の音が、また戻ってきた。

 誰かが咳払いを一つした。粥を啜る音が、一つ、二つと再開した。


 ソウは火の向こう側で、ガランの横顔を見ていた。


 ——ガランの調停は、一時的だ。

 ソウの頭の中で、その判定はほとんど即座に下りた。


 今夜は、ガランの一言で空気が収まる。

 だが、分業が進めば、この種の不満は必ず、別の口から、別の夜に出てくる。畑の人手が増えれば増えるほど、狩りに残る者たちの中で、自分たちの方が「外」に押し出されつつあるという感覚は育っていく。


 ガランの背骨のまっすぐさで抑えられるのは、今夜の一瞬だけだ。

 その先は——別の仕組みが要る。


 ソウは、その「別の仕組み」を、まだ自分の中に持っていなかった。

 持っていない、ということだけは、はっきりわかっていた。



 空気が完全には戻らないまま、しばらく時間が流れた。


 誰も、サガに直接話しかけなかった。

 ヒガもそれきり何も言わずに、四つ目の粥を、結局取りに行かなかった。ダイは無言で自分の椀を空にしてから、薪を一本、火にくべ直した。


 火の粉が、上に向かって細く昇った。


 その時、ナツが立ち上がった。


 ナツは、自分の椀を一度火の脇に置いてから、サガの座っている場所までゆっくり歩いた。

 歩く速さは、急いでもいなかったし、ためらってもいなかった。畑で松明を運ぶ時の、いつもの足取りだった。


 サガの隣に腰を下ろした。

 膝を抱える形で座って、火の方に目を向けた。サガの方は、すぐには見なかった。


 しばらくして、ナツが口を開いた。


「ねえ、サガ」


 声は低かった。

 火の音に、半分溶けるくらいの低さだった。だが、サガの耳には、確かに届いていた。サガの肩が、わずかにナツの方へ傾いだ。


「土の匂いも、悪くないよ」


 ナツは火を見たまま、続けた。


「一回、夕方の畑を見てごらん」


 ナツはそれだけ言った。

 サガの返事は待たなかった。膝を抱えたまましばらく火を見て、それから、自分の椀を取りに立ち上がった。


 歩き去る背中が、火の向こう側へ消えていった。


 サガはしばらく、ナツが座っていた場所の空いた地面を見ていた。

 それから、ゆっくり、自分の椀の中の冷め始めた粥に目を落とした。匙を一度、握り直した。


 ソウは、その手の動きを、火の向こう側から見ていた。


 ナツの一言は、説得ではなかった。

 反論でもなかった。サガを論破しようとも、サガを慰めようとも、していなかった。

 ただ、土の匂いがあるよ、と言った。夕方の畑を一回見てごらん、と言った。


 観察力のある女の、観察した結果の提示だった。

 サガの揺れに、別の風景の選択肢を一つだけ、横に置いた。選ぶか選ばないかは、サガの足が、明日の夕方、どちらを向くかで決まる。


 ソウは、自分の椀の縁を、指で軽くなぞった。

 火の温度が、椀の側面にまだ残っていた。



 夜が深くなり、火が落ち始めた頃。


 族民が、一人また一人と、それぞれの寝床の方へ立ち去り始めた。

 ソウは最後まで火の前に残った。残り火の上で、薪がゆっくり灰の色に変わっていった。


 今夜は、ガランが言葉で抑えた。

 ヒガが、自分の掌を見せて反論した。ナツが、別の風景を横に置いた。三つの動きが、たまたま、一つの夜に重なった。


 明日も、同じ三つの動きが、同じ順番で起きるとは限らなかった。

 明日には、別の口が別の言い方で、同じ種類の不満を口にするかもしれない。あるいは、サガが夕方の畑に、本当に立つかもしれない。


 不満は、自然に薄れるはずだ。


 ソウは、頭の中で、その文を一度置いてみた。

 置いてから、自分の指が、椀の縁をもう一度なぞっていることに気づいた。指の腹に、椀の細かい木目の感触が伝わっていた。


 ——はずだ。


 その「はずだ」の二音が、ソウの口の中で、いつもより、重たかった。

 前世で何度も読んだ経済史の本は、分業の利点をたっぷり書いていた。だが、分業が生み出す軋轢が、何百年、何千年と人を悩ませ続けたことも、同じ本に書いてあった。


 火の最後の薪が、ぱちっと小さく爆ぜた。

 ソウは、椀を膝の上から下ろして立ち上がった。膝の関節が長く座っていた分、わずかに鳴った。


 寝床の方へ、歩き出す。

 夜の空気が、首筋に少し冷たかった。夏のさなかでも、夜の風には、別の季節の匂いが薄く混じり始めていた。


 明日の夕方、サガがどこにいるか。

 ソウは、頭の片隅にその問いを置いた。


 置いた場所に、印をもう一度つけ直した。

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