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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第21話「二列の犠牲」

 夜は終わらなかった。


 ソウの石鍬が、最初の朝の光の中でようやく動きを止めた。

 第三の畑の南側、川の支流へ向かう溝は、想定の七分目まで届いていた。残りの三分は、ダイとヒガがそのまま掘り続けた。雨は、降り方を弱めなかった。粒の大きさだけが、夜の途中で一段、細くなっていた。


 空の灰色は、夜より明るく、昼より暗い。

 雲の切れ目は、どこにもなかった。


 テツが、溝の縁に座り込んで、片手で泥を顔から拭った。掌に黒い筋が残り、頬から顎まで、雨で薄く伸びていく。リアは、すでに弓の手入れに戻るために、集落の方へ歩き出していた。背中の革の上着が、肩のあたりで色を二段濃くしていた。


 ソウは、第二の畑の縁をゆっくり歩いた。

 昨夜のうちに整えた既存の溝は、満杯近くまで水を運んでいた。だが、溢れていなかった。畑の畝は雨に叩かれて少し沈んでいるが、芽の位置はソウの記憶と、ほとんど変わっていない。


 第二は持つ。

 頭の中で、その言葉が形になった。



 二日目の朝。


 雨は夜のうちに一度強くなり、明け方にまた弱まった。

 第二の畑の溝は、依然として水を運び続けていた。第一の畑も同じ。問題は、第三の畑の南端だった。


 ソウは泥に足を取られながら、畑の南の縁まで歩いた。

 昨夜、ダイとヒガが掘り進めた溝の終点が、目の前にあった。畑の南端から川の支流まで、あと十歩ほど。十歩分の溝が、まだ繋がっていない。


 その十歩の手前で、雨水が滞っていた。

 水たまりではなく、地面そのものが水を含み、表面が緩い泥の層に変わっている。指で押せば、指の節まで沈む。


 ソウはしゃがんだ。

 二列。畑の南端の二列分。芽の根元が、泥水の中に沈んでいた。葉の色が緑ではなく、薄い黄色に変わり始めている。葉の先端から、根元へ向かって、色が上がってきている。


 根が息をしていない。

 その判定は、ソウの中でほとんど即時に下りた。


 ソウは頭の中で、計算を始めた。

 今から十歩分の溝を掘り切るには、五人で四半刻。雨は止んでいない。掘り進めても、新しい雨水が、溝の上流から流れ込んでくる。第三の畑全体に水を行き渡らせる前に、二列の根は、すでに腐りかけている。


 ソウは掌を泥水につけたまま、顎を引いた。


 ——二列を捨てる。


 その判断が、口の中で形になる前に、頭の奥で先に立ち上がっていた。

 残り全てを救うために、救えないものを、はっきり救えないと決める。残りの溝の人手は、第二と第三の北側に回す。二列分の芽は、見送る。


 前世の救急医療の教科書に、似た言葉があった。

 大きな災害の現場で、限られた人手と時間を、誰に向けるかを決める手順。重傷者の中で助かる見込みのある者を先に、助からない者を後に。残酷な、しかし、それを決めなければ全員が死ぬ手順。


 言葉だけは知っていた。

 その言葉を、自分の畑の前で繰り返すことになるとは、思っていなかった。



「テツ」


 ソウの声に、テツが顔を上げた。

 道具小屋から戻る途中で、新しい石鍬を二本、肩に担いでいた。雨水が、束ねた髪の毛先から、絶え間なく落ちていた。


「南の二列、捨てる」


 ソウは短く言った。


 テツの足が、半拍止まった。

 ソウの顔を見て、ソウの指差す方を見て、もう一度ソウを見た。


「人手は第二と、第三の北に回す」


 ソウは続けた。


「南の溝は、後でいい。今、新しく掘っても、あの二列はもう間に合わない」


 テツは何かを言いかけて、口を閉じた。

 石鍬の重みを、肩の位置で一度持ち直す。雨水が刃の先から、まっすぐ細い線になって、落ちた。


「……わかった」


 短く言った。

 反論はしなかった。判断の早さに口を挟むほど、テツも、自分の役割をはみ出さなかった。


 ダイとヒガが、すぐに動いた。

 ヒガが「マジか」と一度だけ呟いて、それきり言葉を継がなかった。ダイは何も言わずに、石鍬の柄を、第二の畑の方角へ向けた。


 二列分の芽が、雨の中に置き去りにされた。

 黄色く色を変えた葉の先端が、泥水の表面でわずかに揺れていた。



 三日目の朝、雨はようやく小降りになった。


 雲の腹が、初めて薄くなった。

 空の高い所に、灰色の上の別の灰色が見えた。光はまだ差さない。だが、夜中までの分厚さは、もうない。


 ソウは、第三の畑の南端にもう一度立った。


 約四十本。

 頭の中で目で数えた本数を、もう一度数え直した。芽の総数のちょうど一列半。残り半列は、判断の遅れがほんの少しでも縮まっていれば、救えたかもしれない芽だった。


 だが、それは後から考えるから、言えることだった。


 四十本の芽は、全て葉が黄色かった。

 茎の付け根の方まで色が上がっている。雨水の引いた跡が、土の表面に薄い波の模様を残していて、その波の中に、芽が沈むようにして立っていた。


 ソウは唇を噛んだ。


 正しい判断だった、と頭ではわかっていた。

 二列を捨てたから、残り全部が助かった。第二の畑も、第三の北側も、第一も、全て持ちこたえた。算盤の上では、これは——上出来の部類に入る結果だった。


 だが、目の前の四十本の黄色い葉を見ていると、算盤の数字は、急に意味を失った。

 二十日かけて土の上に顔を出した芽だった。粒を落としたのも、覚えていた。南端の川に近い列。日当たりの良さで言えば、第三の畑の中で一番条件の良い場所だった。


 悔しい、というのが、いちばん近い言葉だった。



 泥の足音が近づいてきた。


 テツだった。

 顔も腕も泥だらけで、髪の毛先は乾いていない。三日間で、たぶん一刻ずつしか眠っていない。目の縁が、雨の幕の外でも、はっきり腫れぼったく見えた。


「二列か」


 テツが隣に立って、低く言った。


「二列だ」


 ソウも、低く返した。


「残りは」


「大丈夫だ」


 テツはしばらく、四十本の芽を見ていた。

 雨水の引いた泥の表面に、自分の足跡を一つだけ、ゆっくり残した。それから、息を一つ吐いた。


「上出来だろ」


 テツの声は、軽くはなかった。

 軽くないのに、励ます形を、ぎりぎりで保っていた。


「上出来じゃない」


 ソウは首を横に振った。


「二列、失った」


「去年は」


 テツが、言葉を一拍置いた。


「全滅しかけたんだぞ」


 その一言で、ソウの喉の奥が、わずかに詰まった。


「二列で済んだなら——上出来だ」


 テツは、それ以上続けなかった。

 ソウの肩を叩くこともしなかった。代わりに、自分の顎の泥をもう一度、手の甲で拭った。拭った跡が、頬の上で雨に薄く広がった。


 ソウは何も言わなかった。

 言葉で返せば、テツの励ましを否定することになる気がした。否定はしたくなかった。


 ただ、首をもう一度、小さく横に振った。

 それで伝わるかどうかは、わからなかった。



 丘の上に、人影が立っていた。


 ソウが顔を上げた時、その人影はすでにしばらく前から、そこにいた気配だった。

 白髪が後ろで一束に結われている。雨上がりの薄い光の中で、その白さが、灰色の空の手前にはっきり浮いていた。


 ムロだった。


 腕を組んでいた。

 肩の位置が、若い男のそれよりもずっと低い。だが、組まれた腕の角度には、揺れがなかった。畑の方をまっすぐ見下ろしている。


 ソウは、ムロの顔の輪郭を、丘の上の距離から読もうとした。

 眉は寄っていた。口の端が、わずかに下がっていた。何かを言いたい、という形を、その顔は確かに作っていた。


 二列、駄目になったではないか。

 土に縛られて根を腐らせて、結局、芽を救えなかったではないか。

 遊動の民は、雨が来れば、別の場所へ移ればよかった。芽の心配など、しなくてよかった。


 その種の言葉が、ムロの口の中ですでに形になっていることが、ソウには丘の下から、見えるような気がした。


 だが——ムロは口を開かなかった。


 組んだ腕をほどかなかった。

 顎を引いたまま、畑の中で動き続ける族民の方を見ていた。テツの泥の顔を、ダイの背中を、ヒガが両腕で泥を放る音を、ナツが薪小屋の入口で松明の火を絶やさず守り続けてきた、その三日間の輪郭の全部を、ムロは丘の上から見ていた。


 言葉は、ムロの口の中に留まったままだった。

 ほどけない節のように、留まり続けていた。だが、その節は、外には出てこなかった。


 泥まみれの族民の前で、ムロは、自分の言葉を飲み込んだ。


 しばらくして、ムロの肩が一度深く動いた。

 長い息を吐いたのだ、とわかった。


 ムロは踵を返した。

 組んだ腕をほどかないまま、丘の向こう側へ、ゆっくりと姿を消した。


 ソウは、ムロの背中を最後まで見ていた。

 ゴウザの沈黙とは種類が違う、と思った。

 あの夜、焚き火の前でゴウザが見せたのは、降参の沈黙だった。負けを認めて口を閉じた者の沈黙。

 ムロの沈黙は、まだ負けていなかった。負けていないが、今、口にすることが正しくないと判断した者の沈黙だった。


 いつか、ムロは口を開く。

 今日でなければ、別の日に。


 その日が来るまでに、自分は、何を積み上げておけるか。



 ソウはもう一度、四十本の芽の前にしゃがんだ。


 手を伸ばして、一番手前の一本を指で挟んだ。

 茎はもう、生きていない感触だった。指先で軽く引くと、根の方は土に残ったまま、地上の部分だけが、抵抗もなく抜けた。


 いや、抜けたのではなかった。

 千切れた、のだった。


 指の間に、根の上端がわずかに残っていた。白かったはずの根が黄色く、芯まで色を変えていた。葉の一枚が、ソウの指の関節にへばりついた。雨水と泥と、芽の体液のような何かが混ざって、滑った。


 ソウは、その葉をしばらく剥がさなかった。


 二十日かけて土の上に顔を出した芽の、最後の重みだった。

 軽い、というには重く、重い、というには軽い。掌の中で、その重さの位置だけが、はっきりしていた。


 次は、と、ソウは口の中で言った。


 守る。


 全部。


 次に雨が来る前に、第三の畑の南側にも、最初から溝を引いておく。今回のように、雨が降り出してから掘るのではない。雨の前に、整えておく。仕組みとして、整えておく。

 誰か一人の判断や体力に頼るのではなく、最初から、雨が来ることを前提にして、畑の形を作っておく。


 救急医療の言葉で言えば——備えること。

 起きてから動くのではなく、起きる前に動ける形にしておくこと。


 ソウは、指の関節に張り付いた黄色い葉をゆっくり剥がした。

 葉は、皮膚から、湿った音を立てて離れた。剥がした葉を、ソウは土の上ではなく、自分の掌の中にしばらく握り込んでいた。


 掌の中で、葉が温度を持つことはなかった。

 冷たい、というほどでもなかった。ただ、雨水と泥の温度のまま、そこに在った。



 雨はまだ、完全には止まなかった。


 空の高い所で、灰色がもう一段薄くなっていた。雲の切れ目はまだ見えない。だが、夜は確実に明けていた。

 ダイが、第二の畑の縁で、溝の最後の補強をしている音が聞こえた。ヒガの声が、その背後で何か短く笑った。ナツは、薪小屋の前で、三日間守り続けた火をようやく落とす準備をしていた。


 ソウは立ち上がった。

 膝の関節が、ゆっくり伸びる。腰の付け根が重い。掌の中の黄色い葉が、握った形のまま、まだ崩れていなかった。


 次は守る。

 全部。


 その言葉が、口の中ではなく、掌の中に残った。

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