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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第20話「夜の雨」

「雨が来るよ」


 バアの声が、夕餉の前の薄闇に落ちた。


 空の色を、ソウは丘の中腹で見上げていた。

 西の空がいつもより低い。雲の腹が、夕日の橙色を呑み込んで、灰色の幕のように厚みを増していく。風の湿り気は、十日のあいだ戻ってこなかったはずだった。それが今朝から首の後ろを撫でるようにして戻ってきていた。


 戻り方が、ソウの想定よりも、速い。


「長い雨じゃ」


 バアがもう一度、低く言った。


 集落の中央、薪の山の隣でバアは空を見上げたまま動かなかった。皺の深い喉が上下に小さく動く。咳ではない。何か、空気の匂いを確かめるような、ゆっくりした嚥下だった。


 ソウは駆け下りた。

 バアの精霊感応が外れたことは、ソウの記憶の中で一度もない。



「テツ」


 ソウの声に、テツが道具小屋の前で顔を上げた。


「排水溝を増やす。今すぐだ」


「今から?」


 テツの声が、半拍、上ずった。


「明日からでは、間に合わない」


 ソウは第三の畑の方角を指で短く示した。芽は土の上に顔を出してから、まだ二十日。根は浅い。粒が割れたばかりの白い根が、土の表面の二寸ほどの層に、ようやく爪を立てたところだ。

 長雨がその層を水で満たせば——根は息ができずに腐る。


 第二の畑にも第一にも、雨水を逃がす溝はある。だが、第三の畑の南側だけは、まだ溝が届いていない。播種に追われて後回しにしていた場所だった。


「南側だ。畑の縁から、川の支流まで、まっすぐ」


 テツはもう、聞き返さなかった。

 石鍬を一本、自分の肩に担いで、もう一本をソウに差し出した。



「マジか」


 ヒガの第一声が、それだった。


 道具小屋の前にダイ、ヒガ、ナツの三人が、ほぼ同時に集まっていた。テツが声をかける前に、ソウとテツの動きを見て、何が起きているかを察した者から順に、足が動いたらしい。ナツが一番早かった。


「雨の中で掘るのか」


 ヒガがもう一度半笑いの声で言った。

 だが、その手は、もう石鍬の柄を掴んでいた。口と手が、別々に動いている男だった。


「了解」


 ダイの声は、それだけだった。

 石鍬の重い方を選んで肩に乗せる。族で一番背の高い男の肩に、刃の重さはほとんど揺れもしなかった。


 ナツは道具小屋の奥から、松明を二本抱えて出てきた。


「火がいるじゃない?」


 短く言って、ナツは、すでに薪の山から細い枝を選り分けていた。

 雨が降り出した時に火を絶やさない準備を、誰に言われるでもなく整えていた。



 第三の畑の南側に、五人と一人が並んだ。

 もう一人はナツが、少し離れた場所で、松明の火を風から守る位置に立った。


 空が、二段、暗くなった。


 最初の一滴が、ソウの石鍬の柄に落ちた。

 次の一滴は頬に。三滴目を数える前に、雨は、点ではなく面になった。


 土の表面が、見る間に色を変えていく。

 乾いた灰色から、暗い茶色へ。粒の隙間に水が染み込み、土が膨らみ始める。石鍬を振り下ろすたびに、刃の周りで、土が泥に変わっていく。


「掘れ」


 テツの声が、雨の音の中で低く飛んだ。


 ソウは石鍬を振り上げた。

 二度目に振り下ろした時、刃が泥に食い込んで抜けなかった。柄を両手で握り直して引く。腕の付け根が、最初の一回でもう熱を持っていた。



 雨が本降りになった。


 ナツが、松明の火を自分の体で囲っていた。

 左の肩を風上に向けて、右の腕を松明の頭の上に、庇のように差し出す。袖から雫が垂れる。それでも、火の縁の橙色は消えなかった。


 ダイの石鍬が泥を抉る音が、雨の音の隙間から聞こえる。

 一振りで、ソウの三振り分の土が動いている。ヒガは、ダイの掘った土を籠ではなく、両腕で抱えて、溝の外へ放り投げていた。籠を取りに戻る時間さえ、惜しんでいる。


「ヒガ。腕、もげるぞ」


 ダイが低く言った。

 いつもなら、ヒガがダイに言う台詞だった。


「お前が言うな」


 ヒガが、雨の中で笑った。

 半分だけ、笑った。



「寝られないんだよ」


 声が、土手の上から落ちてきた。


 ソウは顔を上げた。

 雨の幕の向こうに、リアが立っていた。革の上着の肩が、すでに濡れて色を変えている。手には石鍬。


「雨がうるさくて」


 リアはソウの目を見ないまま、土手を滑り降りてきた。

 嘘だ、と、ソウは思った。

 集落の寝床は、丘の北側の張り出しの下にある。あの場所に、雨の音はほとんど届かない。


 ソウは、何も言わなかった。

 言えば、リアは「うるさい」と言って、もう一度同じ嘘を繰り返すだろう。


 リアの石鍬が、ソウの隣で、最初の一振りを土に叩き込んだ。


 刃が、土の中の固い層を正確に捉えていた。

 次の振りで、泥の塊が、溝の外へ、放物線を描いて飛んだ。三振り目で、ソウが二度かけて掘った深さに、もう届いていた。


 猟師の腕だ、と、ソウは思った。

 獣の急所を見極めるためのあの目と腕の連動が、今は土の固さを読んでいる。形が違うだけで、根は同じものだった。



 ソウの腕が震え始めたのは、四半刻ほど経った頃だった。


 石鍬の柄を握る指の節が、雨と土に汚れた皮膚の下で白く浮いていた。

 肩から肘へ、肘から手首へ、力の入り方がもう自分の意思ではなくなりつつある。一振りごとに、次の一振りまでの呼吸が長くなっていく。


 止めろ、と頭のどこかが言った。

 お前の体は、これに耐えるようには出来ていない。テツも、ダイも、ヒガも、リアも、お前の代わりに掘ってくれる。引き下がれ。


 ソウは息を吸った。

 雨の混じった、冷たい空気が肺の奥まで入った。


 第三の畑の南側、二十日かけて土の上に顔を出したばかりの白い根のことをソウは考えた。あの根はソウが粒を落とした場所に、ソウの計算の通りに伸び始めている。

 その根を、腐らせるわけにはいかない。


 ソウはもう一度、石鍬を振り上げた。


 手のひらの皮が柄の木目に擦れて、ひりつく。指の節が、もう一段白くなる。

 だが、刃は土に届いた。



 夜が深くなった。


 松明の火が、ナツの腕の影で橙色の輪を保っていた。

 溝は、第三の畑の南側の縁から、川の支流の方へ、ゆっくり伸びている。ソウの想定の半分まで、ようやく届いたところだった。


 雨は、止む気配を見せない。

 むしろ、最初に降り出した時より、雨粒の一粒が大きくなっている。靴の中に、すでに水が溜まっていた。足の指が、泥の温度に馴染んでしまって、もう冷たさを感じない。


 ソウは、石鍬の柄に額を当てた。

 ほんの一呼吸、それだけ。

 額の汗が雨に流されて、目の縁を伝った。


 空を見上げた。

 雲の腹は、最初に見た時よりも、もっと低い。星は一つも見えない。月の輪郭さえ、どこにあるのか、わからない。


 ——三日は降る。


 ソウの口の中で、その言葉が形になった。

 根拠はない。前世の知識が示しているのは、低気圧の進路と、湿った南風の持続時間と、それから——バアの「長い雨」という、たった一言だった。


 その一言は、たぶん、ソウのどんな計算よりも、正確だった。


 ソウは、石鍬をもう一度握り直した。

 指の節は、依然として白かった。

 だが、夜はまだ終わっていなかった。

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