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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第19話「先祖の声」

 風の湿り気は、十日の間、戻ってこなかった。


 三度目の播種から、十日。

 第三の畑にも、芽が、点々と土の上に顔を出し始めていた。第一、第二と比べても、出芽の揃い方は悪くない。ソウは朝ごとに畝の端を歩き、土の湿り具合を指で確かめ、頭の中で日数を数える。


 順調だ、と思いかけて、ソウは喉の奥で、その言葉を一度押し戻した。

 あの夕方の風の湿り気を、まだ覚えていた。


 順調な時こそ、警戒すべきだ。

 その自戒が、夏の朝の頭の片隅で、小さな石のように転がり続けていた。



 夕暮れになると、焚き火の周りに人が集まる。


 夏の夜は、冬よりもずっと早く明るさが消える。日が落ちきる前から、誰かが薪を運び、誰かが火をおこし、誰かが座る場所を地面に均す。十日前まで畑にかかりきりだった族民たちも、播種が終われば手が空く。

 空いた手は、火の周りに戻ってくる。


 その夜の焚き火は、いつもより輪が大きかった。


 若い族民が、火の縁に幾人か並んで座っていた。サガがいる。ヒガもいる。ダイはサガの斜め向こうで、地面に石鍬の刃を置いて、指の腹で縁の欠けを確かめていた。

 その背後で、ナツが薪の一本を細く割っていた。割った薪を、火の弱った側へ、音を立てずに置く。火の縁の動きが、すぐに変わる。


 ソウは、輪の少し外側にいた。

 火の正面ではなく、薪の山の陰のあたり。族民の顔が見える距離で、けれど会話の中心には入らない場所。あの夜、ゴウザを見ていた時と、座る向きだけが少し違う。


 ——その輪の中央寄りに、ムロが座っていた。



 ムロの白い髪は、後ろで一束に結わえられていた。


 革紐ではなく、植物の蔓を細く裂いたもの。年月で手垢の染みた、薄い茶色の紐だった。後頭部の高い位置で結わえているので、横顔の輪郭が火に照らされると、はっきり浮き上がる。

 六十八歳。族の最年長の男。バアより、五つほど若い。だが体は乾いた木の幹のように丈夫で、座る姿勢も、若い猟師たちより背筋が立っている。


 ガランの父の代——つまり、二十年以上前——に、狩りの指揮を執っていた男だった。当時の話を、テツの父からも、サガの祖父からも、ソウは断片的に聞いていた。冬の獣道を読む腕は、当時の族の誰よりも正確だった、と。

 その腕も、今は焚き火の縁に置かれて、動かない。皺の刻まれた指の節が、火の影で太く見えた。


 ムロは、若い族民の方をゆっくり見渡した。


 声を出す前に、目で全員を一度撫でていく。視線が当たった若者は、背を僅かに正した。サガが特にそうだった。膝の上に置いた手の指を、一度握り直していた。


「先祖はな」


 ムロが口を開いた。


 声に若い男のような張りはない。だが低くて、長く伸びる。火の音や、夜風の音や、誰かの息の音のどれにも、混ざらない、芯のある声だった。


「一つの場所には留まらなかった」


 言葉が、ゆっくり出てきた。


「季節ごとに動いておった。獣を追って、水を求めて。雪の前には南へ、雪が解ければ北へ。それが、正しい生き方じゃ」


 ムロの視線は、火の中ほどに落ちていた。

 誰か特定の相手に向かって話しているのではない。先祖、という見えない誰かに向けて、その姿勢を保っているように見えた。


 若い族民の中には、頷く者も、ただ聞いているだけの者もいた。

 サガが頷いた側だった。深く、というほどではない。だが、ムロの言葉の節目で、首が一度確かに動いた。



「でも——ムロ爺さん」


 サガが口を挟んだのは、ムロの言葉の合間のわずかな静寂の中だった。


 火が、薪の崩れる音を立てた。

 ナツがまた、一本新しい薪を音もなく置いた。


「畑があるから——動けないんじゃ……」


 サガの声は最後まで言い切れずに、語尾が少しだけ細くなった。

 反論ではない、という形を、声の中で必死に作っていた。だが、内容はムロの言ったことを真っ向から押し返している。


 ムロは、サガをすぐには見なかった。

 火の中ほどに置いていた視線を、ゆっくりサガの顔まで持ち上げた。


「畑が、なければ、動けるじゃろう」


 ムロの返しは、短かった。


「土に縛られて、どうする」


 最後の一句は、若い族民の輪全体に静かに落ちた。

 誰かが唾を飲み込む音がした。

 サガは口を半分開いたまま、すぐには次の言葉を継げなかった。



「——ムロ爺の言うことは、半分は正しいよな」


 その合間に入ってきたのは、ダイの低い声だった。


 石鍬の刃を地面に置いたまま、ダイは、ムロの方を直接は見ない。火を見ている。だが、声は、ムロにも、サガにも、輪の全員にも届くだけの大きさで放られた。


「半分は、な」


 ヒガがすぐに継いだ。

 ダイの斜め後ろで、片膝を立てて座っている。語尾の上がり方が、ダイとは正反対に軽い。


「俺ら、雪の前に動いてた頃は、足の裏が痛かった。冬まで歩いて、寒くて腹が減って。あれは、確かにしんどかった」


 ヒガの軽口の中に、半分だけ、笑いの色が混ざった。

 残りの半分は笑いではなかった。


「だけど、今年の冬は歩かなかったよな、ダイ」


「ああ」


 ダイの返事はそれだけだった。


「歩かなくて、飢えなかった。それは、初めてだった」


 ヒガが続けて、言葉をふっと切った。

 切ったまま、火を見た。


 ムロは、ダイとヒガの方を、否定もせず、肯定もせず、見ていた。

 白髪の影が頬の皺に深く落ちて、表情の輪郭が、火の側からは読みにくくなる。


 半分は正しい、半分は違う。その二つを、ムロは聞いている。聞いて、その上で、自分の言葉を曲げる気はないという顔をしている。



 ナツが、薪を一本また足した。


 火の高さが、ほんの少し戻る。火の粉がふわりと夜空に上がって、すぐに消えた。


 ナツは薪を足してから、自分の元の位置に戻る前に、輪の中の若い族民の顔をひとつずつ見た。サガの口元の固さ。ヒガの目尻の力みの抜け方。ダイの顎の角度。視線の動きは速かった。誰にも気づかれないほどの一瞬。

 それから、ナツは、火の縁の元の場所に座り直した。


 気づいているな、とソウは思った。

 ナツが何を見ているのかが、ソウにはわかる気がした。サガの心の揺れ。ヒガの軽口の下にある本気。ダイの一語の重み。ムロが折れる気がないこと。

 火の縁から、その全部が見えている女だった。



 ソウは依然として、輪の少し外側にいた。


 近づいて何かを言うつもりはなかった。

 ムロを説得することも、サガを支えることも、ヒガに同意することも——どれも、今の場に必要なことではなかった。


 結果が出れば、時間が解決する。


 頭の中で、その短い文を、ソウはもう一度繰り返した。

 灌漑水路はもう動いている。第三の畑も拓いた。夏の収穫が、二度目の冬をもっと厚く支えるはずだ。粒は皮の袋ではなく、もっと硬くて湿気を通さない器の中に貯められるようになる予定だ。

 数字が、人の心の節目を少しずつ動かしていく。


 遊動と定住。前世で何度も読んだ問いが、頭の奥で立ち上がった。


 遊動には合理性がある。

 季節ごとに最適な土地を選び、獲物が減れば別の谷に移る。一つの場所に縛られないことが、生存の幅を広くする。何万年もの時間が証明してきた、人類の生き方そのものだ。


 だが、定住にも、別の理がある。

 動かないからこそ、種を撒ける。撒けるから、余剰が生まれる。余剰があるから、誰かが鎌を作り、誰かが器を焼く時間が生まれる。


 ムロの言葉は間違ってはいない。

 ソウの立っている側にも、理はある。

 二つはすぐには同居しない。


 時間が要る。


 ソウは夜気の冷たさを、首の後ろで感じた。

 夏の夜は、昼の熱を引きずったまま、足元から冷えていく。焚き火の前面では頬が熱く、背中側では夜気が肌に触れる。熱と冷たさの境目が、ちょうど自分の体の真ん中を走っているような気がした。


 その境目の上に、自分は立っている。



 誰かが、ソウの隣に腰を下ろした。


 膝の関節がゆっくり折れる音。布の擦れる音。動作の一つひとつが、ゆっくりしている人。


「ふう……」


 短い息。

 バアだった。


 バアは座ってしばらく、何も言わなかった。

 火の方ではなく、ムロの方を見ていた。視線が、ムロの白髪の結び目あたりで、しばらく止まっている。


「ムロの気持ちもな」


 バアが低く言った。


「わからん訳じゃないんじゃよ」


 ソウは頷いた。

 返す言葉はすぐには出てこなかった。


「わしらはな、ずっと歩いて、生きてきたんじゃから」


 バアの声は、ムロの声よりも、もう少し柔らかかった。古風な言い回しは同じだが、断ち切るような響きはない。語尾が、聞き手のところまでゆっくり伸びてくる。


「歩くことが、生きることじゃった」


 ソウは火を見ていた。

 バアの言葉の重みを、軽く受けようとしてできなかった。


 歩くことが、生きること。

 書物の中の言葉ではない。ムロの背中を、バアの背中を、何十年と支えてきた、肉と骨の中の知恵だった。

 それを、ソウの「種を撒く」という一言で覆そうとしている。

 覆していいわけがない。覆さずに、両方を立てる方法を考え続けるしかない。



 バアが、小さく咳をした。


 短い咳だった。

 肩がわずかに揺れただけ。手のひらで口元を覆って、二度ほど。それで収まった。


 ソウはバアの方を見た。


「年寄りの咳じゃよ」


 バアはソウの視線を受けて、口元の手を下ろしながら、薄く笑った。


「夏の終わりが近づくと、空気が変わるからの。喉がすぐに乾くんじゃ」


 バアの笑い方は、いつも通りだった。

 目尻の皺が、火の影で深く見える程度。

 咳のことを、それ以上、口にしなかった。


 ソウも、それ以上は聞かなかった。

 聞いてはいけない、と思ったわけではない。バアが聞かれることを望んでいない、という気配が、隣の体温の高さの中に、わずかに混じっていた。


 ただ。

 頭の片隅に、その咳の音が、小さな引っかかりとして残った。

 乾いた喉、という説明はたぶん正しい。だが、正しい説明が不安を消してくれるわけではない。



 焚き火の中央では、ムロがまだ若い族民に語っていた。


 話の中身は、最初の繰り返しではなかった。

 先祖が冬の谷をどう越えたか。雪の朝、足の裏に何を巻いて歩いたか。腹を空かせたまま三日歩いた時、何を口に入れて飢えを凌いだか。

 若い族民にとっては、たぶん初めて聞く具体だった。サガは、ムロの口元から、視線を外していなかった。


 ムロは、定住を否定するためだけに話している、わけではなかった。

 歩いて生きてきた、その生き方の中身を、まだ知らない世代に手渡そうとしている。族のことを心から思う者の、真摯な顔だった。


 バアは、ソウの隣でムロを見ていた。

 しばらくの沈黙の後、バアがもう一度口を開いた。


「ムロにとってはの」


 声は、ソウだけに届くくらいの小ささだった。


「正しさだけでは、足りんのじゃ」


 ソウは火を見たまま、聞いていた。


「心が追いつかんのじゃよ」


 バアの言葉は、ムロの背中の方へ、静かに落ちた。


 ソウは頷いた。

 何度も、ゆっくり頷いた。


 火が、もう一本の薪を呑み込んで、火の粉を夜空へ送った。

 ムロの白髪が、火の影でもう一度、はっきり浮かび上がった。

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