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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第18話「育てるということ」

 冬は、誰も飢えなかった。


 二度目の冬。

 干した穂を粉にして焼き、乾かした肉と合わせて、雪の朝に少しずつ齧る。皮の袋の中で湿気てしまった粒もあったが、それでも、ガランが舌打ちしない程度の量で済んだ。


 雪解けの水が支流を太らせる頃、ソウは丘の上で、二年目の段取りを書き出していた。

 書く、と言っても紙はない。湿った土の上に、木の枝で線を引くだけだ。

 畑、三倍。第一の畑も、今年はもう一度。あの時は、水を入れすぎて種を腐らせた。今度は、水の逃げ道を先に作ってから蒔く。水路、支流から畑まで。粒を入れる容器を、もう少しましなものに。


 ——容器の話はまだ先だ。

 まずは、水を引く。



「人をもう一人つける」


 春の朝、ガランが言った。

 いつもの川辺の岩に腰かけて、水の流れを見たままだった。


「アズだ」


 ソウは頷いた。


 アズは二十七歳。

 幼い子を一人抱えている女で、出産の後、走るのに支障が出た。狩りには出られないが、獣皮を縫う技術は族で一番だと、テツが前に言っていた。骨の針と、細く裂いた腱で、毛皮の継ぎ目を波のような縫い目で塞ぐ。冬の寝具の半分は、アズの手が通っている。


「うちの子を、畑の縁で遊ばせていいか」


 顔合わせの場で、アズが最初に言ったのはそれだった。実務的な声。挨拶の前に条件を出してくる女だった。


「構わない」


 ソウが答えると、アズは小さく頷いた。それ以上余計な言葉は出さない。



 水路掘削を始めたのは播種前の十日間だった。


 支流の岸から畑までは、ソウの歩幅で三百歩ほど。途中に小さな起伏が二つあった。等高線を読みながら、勾配を浅く取る——前世の言葉で言えばそうだが、この場ではただ「水が、上から下に、ゆっくり流れる道」と説明した。


 石鍬で土の表面を削る。

 削った土を籠で運ぶ。

 籠を空にしてまた戻る。


「腰、もげるぞ」


 ヒガがそう言ったのは二日目の午後だった。テツの相棒のような顔で、いつの間にか手伝いに来ていた若い男。口が軽い。

 その横で、ダイが黙って籠を担いでいた。族で一番背の高い男で、籠二つを片肩に乗せて運ぶ。ヒガがしゃべるぶん、ダイは口を開かない。


「ヒガ、しゃべる暇があるなら、もう一籠運べ」


 リアの声が、土手の上から落ちてきた。


 ソウは顔を上げた。

 リアは、弓を持っていなかった。代わりに、石鍬を肩に担いでいる。


「……何してるんだ」


「暇だから」


 リアは、土手を滑り降りてきた。


 暇、と言いながら、リアは溝の底に降りるなり、土の硬い場所と柔らかい場所を、足の裏で確かめ始めた。狩りで地面を読む癖が、そのまま出ている。


「お前、ここの溝を浅くしすぎだ。雨が来たら土がここに溜まる」


 リアは、ソウより先に、線を引き直した。


 半分指揮を取られた、と思った。

 悪い気はしなかった。



 水路が開通したのは五日目の夕方だった。


 最後の堰を、テツが石鍬で崩した。

 崩した瞬間、水は、最初は滲むように。それから、ふいに勢いを得て、溝の底を撫でながら、走り始めた。


 ——走る、というよりは、確かめながら、進んでいた。

 ソウは溝の端で水の先頭を目で追っていた。土の窪みに一度水が止まる。溜まる。溢れる。また、走り始める。


 畑の端に、水が届いた。


 誰かの口から、「あ」と短い声が漏れた。

 次に、別の誰かが、もう少し長い声を上げた。

 それから、いくつもの声が重なった。


 ソウは、声を上げなかった。

 代わりに、水が畝の根元を濡らして広がっていく速度を、頭の中で計算していた。一畝あたりの吸水量。蒸発の見積もり。次の補水のタイミング。


 その隣で、テツが拳を握っていた。

 ノタは無言で溝の縁に屈み込んで、水の流れを目で追っていた。

 アズは子を背負ったまま、片手を口元に当てていた。

 サガが何も言わずに、弓を持っていない自分の手を開いたり閉じたりしていた。


 水の音だけが、夕方の畑に響いていた。

 乾いた土が、湿った匂いに変わっていく。



 その夜、焚き火の少し外側で、リアがソウの隣に座った。


 膝を立てて、片手で頬杖をつく、いつもの座り方。

 火の音が、しばらく二人の間にあった。


「……なあ」


 リアが口を開いた。


「なんでお前、そんなこと知ってるの?」


 声は、低かった。詰問ではない。本当に知りたくて聞いている、という形の声だった。


 ソウは、すぐには答えなかった。

 火の中で、薪が一本軽い音を立てて崩れた。


「……考えた」


 ソウは、それだけ言った。


「考えた?」


「ずっと考えていた」


 水をどこから引くか。

 土をどう柔らかくするか。

 粒をどう乾かして冬まで持たせるか。

 ソウは、そう続けようとしてやめた。


 言葉にすれば、嘘になる気がした。

 考えた、というのは、半分は本当で、半分は——前世から持ち越した記憶のことだった。だが、それを説明する言葉が、この世界にはない。


 リアは、しばらく黙っていた。


「変な奴」


 リアは低く言った。

 今度の声は、前の夜の声よりも、もう少し柔らかかった。困っているような、笑っているような、そのどちらでもないような声。


 ソウは、何も返さなかった。

 返す言葉が見つからない。


 リアが立ち上がった。

 寝床の方へ歩き出して、二、三歩進んだところで、振り返らないまま、低く聞いた。


「次は、何を作るの?」


 ソウは、火を見たまま、考えた。

 水路の次。粒を貯める容器。皮の袋では限界がある。雨に弱い、虫に弱い、形を保てない。

 硬くて、形を保てて、湿気を通さない、何か。


「……器だ」


 ソウは低く答えた。


「器」


 リアは繰り返した。

 それから、もう何も言わずに、寝床の方へ歩いて行った。


 振り返らない歩き方は、いつも通りだった。



 三度目の播種は十日後に始まった。


 第一の畑、第二の畑、それから新しく拓いた第三の畑。三倍に広がった土の上に、粒を等間隔で落としていく。


 サガが、アズの隣にしゃがんでいた。


「指の腹で、こうやって軽く土をかける。強くやると、芽が曲がる」


 サガの声には、教える側の硬さがあった。半年前、ソウとテツが教えていたことを、今度はサガが、別の人間に渡している。


「うちの子の方が、上手にやりそうじゃないか」


 アズが、淡々と言った。


「いや、ばあちゃん——じゃなくて、アズ姉。最初は、誰でもこんなもんだから」


「ばあちゃんは、やめろ」


「すんません」


 サガが、軽く頭を下げた。

 アズの顔は崩れなかったが、口の端がほんの少しだけ動いた。


 その横で、ノタが新しい畝を掘っていた。

 ソウが何も言わないうちに、ノタは石鍬の角度を変え、深さを揃えて、粒を落としていく。


「ノタ。そっちの畝、深さは大丈夫か」


 ソウが声をかけると、ノタは顔を上げた。


「試してみるか」


 ノタは低く言った。


 ソウは、一瞬息を止めた。

 ノタが「試してみる」と言ったのは、第二の畑の朝が初めてだった。あの時は、自分の覚悟を口にする形だった。

 今のは——違う。

 他人に向けて、自分の言葉として、ソウの口癖を渡している。


 ソウは頷いた。

 頷いて、何も言わずに、隣の畝に移った。



 夕暮れ前、ソウは丘の上に登った。


 北の丘。

 集落を見下ろす場所だった。


 風が、頬に当たる。

 乾いた風だ。

 ——いや。

 わずかに湿っている。


 眼下にガラの民の暮らしが広がっていた。


 ダイとヒガが薪を背負って戻ってくる。ダイの背負った薪の山は、ヒガの倍の高さがあった。ヒガが何か軽口を叩いて、ダイがそれを聞き流している。

 水場から、ナツが水甕を抱えて戻ってくる。中堅の女で、ソウが知る限り、何かに気づくのが一番早い。今も、空の色を一度見上げてから、足を速めた。

 焚き火の脇でトウカが子供の頭をなでていた。十八歳の若い娘で、ナツに付き従って色々を覚えている。子供は、トウカの膝に頭を擦り付けて、何か小さく笑っていた。

 その奥でミラが籠を編んでいた。三十代の女で、編み物の腕は族で一番。指先が、植物の繊維を編み目に通していく動きが、夕方の光の中で、ゆっくり繰り返されていた。

 バアは薬草を地面に並べて、一束ずつ吟味していた。カナがその横にしゃがみ込んで、何かを聞いている。

 テツは道具小屋の入り口で、新しい鎌の柄を削っていた。

 ガランは川の方を一人で歩いていた。背中だけが見える。

 ゴウザはいつもの場所で、火を見ていた。輪の少し外側。

 ムロは、まだ集落の中央には来ていない。

 サガとノタとアズは、第三の畑の縁で、最後の畝の片付けをしている。

 リアは——丘の中腹で、こちらに背を向けて、弓の手入れをしていた。


 二十三人。

 全員の姿が、ソウの視界の中に納まっていた。


 夏の初めだった。

 物語が始まったあの秋から、一年と半分が過ぎていた。



 風が、もう一度頬を撫でた。

 今度は、はっきりと湿っていた。


 丘の下で、バアが、空を見上げていた。

 その姿勢の何かが、ソウの記憶のどこかに、引っかかった。


 順調だ、とソウは思った。

 水が、畑に届いた。

 粒が、土に降りた。

 知識が、サガからアズに、ノタからソウへ、形を変えながら、渡り始めている。


 ——だが。


 順調な時こそ、警戒すべきだ。

 風の湿り気を、ソウは、もう一度頬で確かめた。

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