第16話「認める者、認めない者」
族長の承認が出た翌日から、集落の空気が、少しだけ変わった。
若い族民の何人かがソウに話しかけてくるようになった。
「あの穂、本当に食べられるの?」「焼き餅って、木の実のより美味しい?」「どうやって広げるの?」
質問は素朴だった。
だが誰も、最初から馬鹿にするような声ではなかった。
一方で、ソウと目を合わせなくなった族民も何人かいた。
*
ゴウザはその一人だった。
焚き火の前でソウが近くを通ると、ゴウザはわざと視線を外した。
軽蔑ではなかった。
無視だった。
存在しないものとして扱っている。
ソウはそのことをバアに話した。
「そう来たか」
バアは少しだけ笑った。
「ゴウザは、素直な男じゃ。素直だから、認めたくない時は、目を合わせん。それだけじゃ」
「……認めたくない」
「お前のやっとることが正しいかもしれんと、どこかで気づいとる。でも、今さら認めれば自分がこれまで言ってきたことが全部恥になる。だから目を合わせんのじゃ」
ソウは頷いた。
バアの観察は、鋭かった。
前世の自分の指導教授も、似たような人間心理の話をしていた。
「頑なな人は、実は自分の間違いに気づいている。気づいているからこそ頑なになる」。
ゴウザはその典型だった。
*
別の声も聞こえ始めていた。
最年長の男、ムロ。
ムロは杖をつきながら、焚き火の側で若い族民に話していた。
「定住は、危険じゃ」
ムロの声には、力があった。
年老いていても、声は低くよく響いた。
「先祖はな、一つの場所に留まることをしなかった。常に動いた。獲物を追い、水を求めた。動けるから危険を避けられた。動かなくなれば、病が来た時も逃げられん。敵が来た時も逃げられん」
ソウは、焚き火から少し離れた場所で、その話を聞いていた。
ムロの声には嘲笑は含まれていなかった。
だが、ソウがやっていることを根本から否定する響きがあった。
——単に、嫌がっているのではない。
ムロの言葉には、古い知恵の重みがあった。
前世の文化人類学でも、遊動生活の合理性は繰り返し論じられていた。
一箇所に留まることは、食料が尽きた時、病が流行った時、天候が崩れた時、すべてのリスクを集中させる。
ムロの言っていることは、間違いではなかった。
だが。
ソウの知っている未来では、人類は定住を選んだ。
定住は農業と組み合わさることで、遊動のリスクを上回る利益を生んだ。
——その未来を、ムロが知らないだけだ。
ソウは、ムロと議論するつもりはなかった。
説得しても今は変わらない。
変わるのは、ムロ自身が目の前で定住のメリットを見た時だ。
*
リアはどちらにも属していなかった。
彼女は焚き火の前でも、どちらの側に座るでもなく、少し離れた場所で弓の手入れをしていた。
ムロの話も、ソウを遠巻きに見る若者たちの話も、聞こえているはずだった。
だが、リアは何も言わなかった。
ソウが通りかかると、リアは一度だけ目を合わせた。
何かを問いかけるような視線だった。
だがソウが立ち止まると、リアはすぐに視線を外した。
——リアは、決めあぐねている。
ソウはそう感じた。
旧来のガラの民の狩りの世界と、ソウが持ち込もうとしている新しい世界。
リアは、その二つの世界の境目に立っている。
*
テツは明確にソウの側だった。
テツは焚き火の前で、いつもソウの隣に座った。
ソウの話に笑った。
ソウの次の計画を、一緒に考えた。
カナがテツとソウの間に、いつも食事を運んでくるようになっていた。
カナは明るく、誰にでも屈託なく話しかける。
ムロの前でも、「焼き餅、食べてみた?」と平気で聞いた。
「まだじゃ」
ムロは、焼き餅を食べていなかった。
意地だった。
食べた瞬間、ムロの言葉は重みを失う。
カナはにっこり笑った。
「じゃあ、今度、私が持ってくるね」
ムロは答えなかった。
カナは、それ以上無理には勧めなかった。
軽い足取りで、テツの方へ戻ってきた。
*
ソウはテツに言った。
「カナは、ムロが食べないことを気にしていない」
「カナはな、そういうやつだ」
「……そういうやつ?」
「すぐに焦らない。時が来れば食べるだろ、って信じてる。待つのが、うまいんだ」
テツは焼き餅を一口かじった。
「俺も見習いたい、っていつも思ってる」
ソウは頷いた。
カナの、あの明るさ。
「春が、楽しみだね」と笑ったあの笑顔。
——あれは、天然のものではなかった。
カナは意識して、明るくいることを選んでいる。
前世の記憶が少し動いた。
——こういう人は、大切にしなければならない。
理由は、うまく言葉にできなかった。
ただ、そういう気持ちだった。
*
夕方、第二の畑の横を通った時、ソウは足を止めた。
第二の畑。
これは川沿いに、粘土質の土を堆肥で改良して作った二つ目の畑だった。
最初の畑より遅く播種したため、まだ収穫前だった。
穂の色を見た。
黄緑から黄金色に移ろっているところだった。
あと二週間もすれば、こちらも収穫できる。
しかも、第二の畑は第一の畑よりも広い。
収穫量は前回の——少なくとも三倍以上は取れる。
——三倍の収穫。
三倍の焼き餅。
十人が一ヶ月食べられる量。
ソウは胸の内で、低く呟いた。
「……ゴウザ」
声に出しては言わなかった。
ただ、相手が誰かを頭の中で名指した。
——これで、あなたの言っていたことが全部引っくり返る。
嘲笑したい気持ちはなかった。
むしろソウは、ゴウザのような男がきちんと黙るのを、静かに見届けたかった。
*
その夜、バアのところに寄った。
バアは、いつもの薬草仕分けをしていた。
「バア」
「なんじゃ」
「……ゴウザに見せつけるような真似は、やめます」
バアは手を止めた。
ソウを見た。
「ほう」
「黙ってやります。気づかない振りをして、結果だけを見せます」
バアは少しだけ口角を上げた。
「お前、大きくなったな」
「……え?」
「若い男はな、勝った時、相手に見せつけたくなるもんじゃ。勝ち誇りたくなる。じゃが、それをやると相手は意地を張る。もっと反発する」
「……」
「勝ちを見せつけないで、ただ結果を置いておく。それが一番、相手の心を折る」
ソウは頷いた。
「バア、もう一つ相談があります」
「なんじゃね」
「ムロについて、どうすれば良いでしょうか」
バアは少し考えてから、言った。
「ムロは、先祖の教えを守っとる男じゃ。お前のやっとることが成功すればするほど、先祖の教えが揺らぐ。ムロには、それが恐ろしい」
「……」
「ムロにとっては、定住に反対するのは『先祖を守る』ということなんじゃ。だから、今のお前には説得できん」
「では、諦めるしか」
「諦めるのではない。じっくり時間をかけるのじゃ。先祖の話とお前のやり方が矛盾しない、とムロが気づく日が来る。それまで、待つ」
ソウは静かに頷いた。
バアは薬草の一束を火に近づけて乾かした。
「人は、言葉では変わらん」
バアは低く言った。
「腹が減って初めて、新しい知恵に手を伸ばすんじゃよ」
ソウは、その言葉を頭の中で、何度も反芻した。
——腹が、減ってから。
だから、ソウは焦らない。
全員の腹を一度に満たす必要はない。
満たされた腹から、順に信じる者が増えていく。
それで良かった。
*
ソウが寝床に戻る時、リアが焚き火の反対側にまだ座っていた。
リアは焚き火の炎を、じっと見ていた。
その横顔を、ソウは少しだけ見た。
リアはソウに気づいた。
目が合った。
リアは目を逸らさなかった。
軽蔑でもない。
好奇でもない。
ただ——何かを考えている目だった。
ソウは軽く頭を下げて、寝床に向かった。
その夜、リアが何を考えていたのか、ソウにはわからなかった。
だが、リアがソウを「存在しないもの」として扱うのを完全にやめたことは、確かだった。
——次は、第二の畑。
ソウは、寝床に横たわりながら、明日の予定を整理し始めた。
次の収穫は、最初の三倍。
焼き餅の量も三倍。
ガランの顔は、どう変わるか。
ゴウザの顔は、どう変わるか。
頭の中でソウは、静かに予測を組み立てていった。
それは予測というより、もう予感に近かった。




