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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第15話「ガランの一口」

 焼き餅は、三つ作った。


 一つはバアに渡した。

 一つはテツと分けた。

 最後の一つは、ソウが革の布に包んで、翌朝まで取っておいた。


 ガランに渡すためだった。



 翌朝は、曇り空だった。


 ガランはいつものように、川の岩の上に一人で座っていた。

 だが今日は、ただ水の音を聞いているのではなかった。

 少しだけ集落の方を振り返って見ていた。


 何かを待っているようにも見えた。


 ソウは包みを手に族長に近づいた。


「ガラン」


「来たか」


 ガランは、ソウの手の中の包みをちらりと見た。


「持ってこい、とは言っていない」


「持ってきたかったんです」


 ソウは包みを広げて、焼き餅をガランの掌に載せた。

 小さな褐色の円盤。

 焼き目がきれいについている。朝の冷えた空気の中で、まだわずかに香ばしい匂いが残っていた。


 ガランは、しばらく焼き餅を見ていた。

 それから、ゆっくり口に運んだ。


 噛んだ。

 もう一度噛んだ。

 三度目に飲み込んだ。


 沈黙。


 ガランは焼き餅を持った手を、膝の上に置いた。

 残り半分をもう一口かじった。


 噛み、飲み込み、また沈黙した。


 川の音が流れていった。



「——ソウ」


 ガランが口を開いた。


「はい」


「これだけの量で、何人分だ」


 ガランの声は、いつもと同じだった。平らで、感情が乗っていない。

 だがソウはその中に、これまで聞いたことのない種類の慎重さを感じた。


 ——族長は、本気で計算しようとしている。


「今の畑では、三人が十日食べられる分です」


「……三人、十日か」


「はい。穂を全て脱穀して粉にして、焼き餅にすれば」


「二十三人の食料にはならんな」


「まだ、なりません」


 ソウは正直に答えた。

 嘘はつかなかった。

 族長は誇張を嫌う。そして、正直な男を覚えている。


「——だが」


 ソウは続けた。


「畑を広げれば、その限りではありません」


「どれくらい広げれば、二十三人分になる」


「今の広さの、およそ十倍です」


 ガランは少し目を細めた。


「十倍」


「はい。人手を少し増やして水の引き方を改良すれば、十倍までは無理なく広げられます」


「——何年かかる」


「二年、もしくは三年」


 ソウは、できるだけ保守的な数字を出した。

 早くできると言い切って、失敗すれば一気に信頼を失う。

 だが「三年」なら、やり切れる自信があった。


 ガランは、膝の上の焼き餅をもう一口食べた。

 咀嚼しながら、焼き餅そのものよりも遠くの景色を見ていた。


 族長が考えているのは、二十三人の腹をどうやって満たすかだけだった。

 その計算に、ソウの作った焼き餅の味が今、一つの答えとして入り込んだ。



 しばらくの沈黙の後、ガランは立ち上がった。


「次の春」


「……はい」


「お前に人を二人つける。どちらも狩りの腕が落ちてきた若手だ。体力はある」


 ソウは耳を疑った。


「——二人、ですか」


「二人だ」


 ガランは平らな声で続けた。


「ただし、その二人の食料はお前の畑で賄うんじゃない。狩りに出ない分、族全体の狩りの分け前から引く。それで冬が厳しくなるようなら、来年の中で判断を見直す」


「……わかりました」


「それと、お前自身も、畑を広げる範囲は自分で管理しろ。狩人の口出しは俺が止める。だが、失敗したら俺も庇えん」


「……はい」


 ガランは、焼き餅の残りをゆっくり口に入れた。

 最後の一口を飲み込んだ。


 立ち上がって、ソウの肩を軽く叩いた。


「煙の肉の時も、『小さく成功しろ』と言ったな、俺は」


「……言われていません」


「そうか。心の中で言っていた」


 ガランはわずかに口角を上げた。

 ソウが初めて見る族長の笑みだった。


「小さく成功する男は、大きく成功できる」


「……」


「次は、もっと大きく成功しろ」


 ガランはそれだけ言って、集落の方へ歩き出した。

 ソウはその背中を、朝の光の中で見送った。


 ——承認された。


 条件付きではあるが、族長から初めての正式な承認が出た。

 ソウの頭の中に、次の春の計画が瞬時に組み上がり始めていた。



 テツに伝えに行った。


 テツは畑の残り半分を、朝から一人で刈っていた。


「テツ」


「おう、どうだった?」


 テツは刈る手を止めずに振り返った。


「次の春、人を二人つけてくれるそうだ」


 テツは一瞬、動きが止まった。

 それから石鎌をそっと地面に置いた。


「……二人?」


「二人だ。ガランがそう言った」


「……」


 テツは、しばらく黙って畑を見つめていた。

 日が雲の切れ間から差し込んで、刈り残された穂の先端だけを薄く照らしている。

 テツの胸が一度、大きく上下した。

 それから、ゆっくり、もう一度。

 穂が風に揺れていた。


「……二人って、誰だ?」


「わからない。狩りの腕が落ちてきた若手、としか聞いていない」


「……なるほど」


 テツは顎を掻いた。

 その手は土と穂の青い汁で汚れていた。


「人が増えれば、刈り取りも、整地も、もっと速くなる」


「速くなる」


 テツは地面に置いた石鎌の柄を、指先で軽く撫でた。

 言葉を選ぼうとして、選びきれない様子だった。


「……お前、やったな」


「……やった」


 ソウは小さく頷いた。


 テツはもう一度、石鎌を拾い上げた。

 握り直した拳の節が、朝より少しだけ白く浮いていた。

 刈る手が、朝より少しだけ勢いが増している気がした。



 バアのところに報告に行った。


 バアは朝食後の薬草仕分けをしていた。

 ソウの話を聞き終えると、少しだけ目を細めた。


「承認されたか」


「はい」


「……ゴウザは黙っとったか」


「ゴウザはまだ何も言っていません」


「そうか」


 バアは薬草の束を縛り直しながら、遠くを見た。


「ゴウザはな、若い頃、一番狩りがうまかった男じゃ。今も腕は落ちてはおらん。じゃが、そろそろ力が衰え始めとる年齢なんじゃ」


「……はい」


「新しいやり方が出てくると、一番怖いのは、自分の技が要らなくなることじゃ。ゴウザは、お前に自分の居場所を奪われると、どこかで思っとる」


 ソウは少し驚いた。


 ゴウザは、ただ新しいものを嫌う古参だと思っていた。

 だがバアが言うのは、もっと具体的な恐れの話だった。


「……俺はゴウザの居場所を奪いたいわけじゃありません」


「そりゃ、わかっとる。お前は、食料を増やしたいだけじゃ。じゃが、ゴウザにはそう見えん」


「どうすればよい、ですか」


「どうすれば、ではなくて——」


 バアは少しだけ笑った。


「そのうち、ゴウザの方から何か言ってくる。それまで、待つことじゃ」


「……はい」


「言葉では変わらん。腹が減って初めて、新しい知恵に手を伸ばすんじゃ。人というのは、そういうものじゃ」


 ソウは頷いた。



 その夕方、畑の残り半分も刈り終わった。

 二人で二日かけての作業だった。


 畑の縁に穂の山が、前よりも大きくなって積み上がっていた。

 夕日を浴びて黄金色に光っていた。


 ソウはその山を、少し離れた場所から見ていた。


 ——これが、最初の一歩だ。


 次の春には畑が広がる。人が増える。道具も改良される。

 焼き餅は、今よりも何倍にも作れる。

 そして、族長はもう「止めない」ではなく、「続けろ」と言うようになった。


 小さな、確かな変化だった。


 ソウは深く息を吸った。

 秋の乾いた空気が胸に広がった。


 ——次は、保存だ。


 この穂の山を冬まで持たせる方法が要る。

 湿気から、虫から、ネズミから、守る方法が要る。


 頭の中は次の課題で、すでに埋まり始めていた。

 だがそれは焦りではなく、楽しみに近い感覚だった。

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