第15話「ガランの一口」
焼き餅は、三つ作った。
一つはバアに渡した。
一つはテツと分けた。
最後の一つは、ソウが革の布に包んで、翌朝まで取っておいた。
ガランに渡すためだった。
*
翌朝は、曇り空だった。
ガランはいつものように、川の岩の上に一人で座っていた。
だが今日は、ただ水の音を聞いているのではなかった。
少しだけ集落の方を振り返って見ていた。
何かを待っているようにも見えた。
ソウは包みを手に族長に近づいた。
「ガラン」
「来たか」
ガランは、ソウの手の中の包みをちらりと見た。
「持ってこい、とは言っていない」
「持ってきたかったんです」
ソウは包みを広げて、焼き餅をガランの掌に載せた。
小さな褐色の円盤。
焼き目がきれいについている。朝の冷えた空気の中で、まだわずかに香ばしい匂いが残っていた。
ガランは、しばらく焼き餅を見ていた。
それから、ゆっくり口に運んだ。
噛んだ。
もう一度噛んだ。
三度目に飲み込んだ。
沈黙。
ガランは焼き餅を持った手を、膝の上に置いた。
残り半分をもう一口かじった。
噛み、飲み込み、また沈黙した。
川の音が流れていった。
*
「——ソウ」
ガランが口を開いた。
「はい」
「これだけの量で、何人分だ」
ガランの声は、いつもと同じだった。平らで、感情が乗っていない。
だがソウはその中に、これまで聞いたことのない種類の慎重さを感じた。
——族長は、本気で計算しようとしている。
「今の畑では、三人が十日食べられる分です」
「……三人、十日か」
「はい。穂を全て脱穀して粉にして、焼き餅にすれば」
「二十三人の食料にはならんな」
「まだ、なりません」
ソウは正直に答えた。
嘘はつかなかった。
族長は誇張を嫌う。そして、正直な男を覚えている。
「——だが」
ソウは続けた。
「畑を広げれば、その限りではありません」
「どれくらい広げれば、二十三人分になる」
「今の広さの、およそ十倍です」
ガランは少し目を細めた。
「十倍」
「はい。人手を少し増やして水の引き方を改良すれば、十倍までは無理なく広げられます」
「——何年かかる」
「二年、もしくは三年」
ソウは、できるだけ保守的な数字を出した。
早くできると言い切って、失敗すれば一気に信頼を失う。
だが「三年」なら、やり切れる自信があった。
ガランは、膝の上の焼き餅をもう一口食べた。
咀嚼しながら、焼き餅そのものよりも遠くの景色を見ていた。
族長が考えているのは、二十三人の腹をどうやって満たすかだけだった。
その計算に、ソウの作った焼き餅の味が今、一つの答えとして入り込んだ。
*
しばらくの沈黙の後、ガランは立ち上がった。
「次の春」
「……はい」
「お前に人を二人つける。どちらも狩りの腕が落ちてきた若手だ。体力はある」
ソウは耳を疑った。
「——二人、ですか」
「二人だ」
ガランは平らな声で続けた。
「ただし、その二人の食料はお前の畑で賄うんじゃない。狩りに出ない分、族全体の狩りの分け前から引く。それで冬が厳しくなるようなら、来年の中で判断を見直す」
「……わかりました」
「それと、お前自身も、畑を広げる範囲は自分で管理しろ。狩人の口出しは俺が止める。だが、失敗したら俺も庇えん」
「……はい」
ガランは、焼き餅の残りをゆっくり口に入れた。
最後の一口を飲み込んだ。
立ち上がって、ソウの肩を軽く叩いた。
「煙の肉の時も、『小さく成功しろ』と言ったな、俺は」
「……言われていません」
「そうか。心の中で言っていた」
ガランはわずかに口角を上げた。
ソウが初めて見る族長の笑みだった。
「小さく成功する男は、大きく成功できる」
「……」
「次は、もっと大きく成功しろ」
ガランはそれだけ言って、集落の方へ歩き出した。
ソウはその背中を、朝の光の中で見送った。
——承認された。
条件付きではあるが、族長から初めての正式な承認が出た。
ソウの頭の中に、次の春の計画が瞬時に組み上がり始めていた。
*
テツに伝えに行った。
テツは畑の残り半分を、朝から一人で刈っていた。
「テツ」
「おう、どうだった?」
テツは刈る手を止めずに振り返った。
「次の春、人を二人つけてくれるそうだ」
テツは一瞬、動きが止まった。
それから石鎌をそっと地面に置いた。
「……二人?」
「二人だ。ガランがそう言った」
「……」
テツは、しばらく黙って畑を見つめていた。
日が雲の切れ間から差し込んで、刈り残された穂の先端だけを薄く照らしている。
テツの胸が一度、大きく上下した。
それから、ゆっくり、もう一度。
穂が風に揺れていた。
「……二人って、誰だ?」
「わからない。狩りの腕が落ちてきた若手、としか聞いていない」
「……なるほど」
テツは顎を掻いた。
その手は土と穂の青い汁で汚れていた。
「人が増えれば、刈り取りも、整地も、もっと速くなる」
「速くなる」
テツは地面に置いた石鎌の柄を、指先で軽く撫でた。
言葉を選ぼうとして、選びきれない様子だった。
「……お前、やったな」
「……やった」
ソウは小さく頷いた。
テツはもう一度、石鎌を拾い上げた。
握り直した拳の節が、朝より少しだけ白く浮いていた。
刈る手が、朝より少しだけ勢いが増している気がした。
*
バアのところに報告に行った。
バアは朝食後の薬草仕分けをしていた。
ソウの話を聞き終えると、少しだけ目を細めた。
「承認されたか」
「はい」
「……ゴウザは黙っとったか」
「ゴウザはまだ何も言っていません」
「そうか」
バアは薬草の束を縛り直しながら、遠くを見た。
「ゴウザはな、若い頃、一番狩りがうまかった男じゃ。今も腕は落ちてはおらん。じゃが、そろそろ力が衰え始めとる年齢なんじゃ」
「……はい」
「新しいやり方が出てくると、一番怖いのは、自分の技が要らなくなることじゃ。ゴウザは、お前に自分の居場所を奪われると、どこかで思っとる」
ソウは少し驚いた。
ゴウザは、ただ新しいものを嫌う古参だと思っていた。
だがバアが言うのは、もっと具体的な恐れの話だった。
「……俺はゴウザの居場所を奪いたいわけじゃありません」
「そりゃ、わかっとる。お前は、食料を増やしたいだけじゃ。じゃが、ゴウザにはそう見えん」
「どうすればよい、ですか」
「どうすれば、ではなくて——」
バアは少しだけ笑った。
「そのうち、ゴウザの方から何か言ってくる。それまで、待つことじゃ」
「……はい」
「言葉では変わらん。腹が減って初めて、新しい知恵に手を伸ばすんじゃ。人というのは、そういうものじゃ」
ソウは頷いた。
*
その夕方、畑の残り半分も刈り終わった。
二人で二日かけての作業だった。
畑の縁に穂の山が、前よりも大きくなって積み上がっていた。
夕日を浴びて黄金色に光っていた。
ソウはその山を、少し離れた場所から見ていた。
——これが、最初の一歩だ。
次の春には畑が広がる。人が増える。道具も改良される。
焼き餅は、今よりも何倍にも作れる。
そして、族長はもう「止めない」ではなく、「続けろ」と言うようになった。
小さな、確かな変化だった。
ソウは深く息を吸った。
秋の乾いた空気が胸に広がった。
——次は、保存だ。
この穂の山を冬まで持たせる方法が要る。
湿気から、虫から、ネズミから、守る方法が要る。
頭の中は次の課題で、すでに埋まり始めていた。
だがそれは焦りではなく、楽しみに近い感覚だった。




