第107話「形は、残る」
夜明け前にテツが窯の覆いを外した。
ソウは作業場の脇の石の前にしゃがんでいた。
石の上に六枚目の板。二つの渦は乾いていた。湿った時の色から半段、白い方へ寄っている。境の線も左右の絵も、昨日のままの形で固まっていた。
風は弱い。冬の入り口の風だが、今朝は薪の煙を流す方向だけを決めて空き地の縁で止まっていた。
「焼くか」
テツが背中の方から低く言った。
窯の口に新しい薪が組まれている。火種はもう赤い粒を残していた。
「焼く」
ソウは答えた。
*
ハクが作業場の脇に立っていた。
今朝も指は何も握っていない。掌だけがテツの背中の斜め後ろに置かれている。
テツは火床の薪を一本動かして火の通り道を作った。
ソウは粘土板を両手で持ち上げた。指の腹に冷たさが返ったが、湿りはもう返ってこない。境の線の脇を親指で支え、渦の縁には触れなかった。
「中に入れる」
テツは窯の口の方を顎で示した。
ソウは板を窯の口の手前まで運んだ。
覆いの内側の温度が首の脇に薄く触れる。冬の入り口の冷たさとの差で輪郭が持ち上がった。
テツが板を受け取り、火床の脇の平らな石の上に置いた。角度を一度直し、覆いを半分戻す。
火が、薪の隙間で一段大きくなった。
*
ガランは焚き火の脇に座っていた。腕は組まれている。咳が一度、口の脇から落ちた。
「埃だ」
ガランは低く言った。
今朝最初の「埃だ」だった。声の中の温度は、昨日と同じ底から出ていた。
カヤは焚き火の脇のカナの薬の板の前で、薬草の束を一つ板の脇に置いた。
苦い葉と丸い葉。束を置く指の動きは昨日と同じ間隔だった。置いてから板の縁の凹みを指の腹で一度なぞる。なぞっただけで線は深まらなかった。
リアは見張り台の上だった。
今朝も弓を肩から外していない。だが弦の張りは半分の幅、緩んだままだった。斜面を見る目の動きが昨日より半呼吸長い。長い分、深かった。
ヨミは革幕の脇から半歩出ている。ヨルが隣に立つ。
二人は何も言わない。窯の口から立ち上る煙の方を、目だけで追っていた。
*
火は半刻の間、同じ強さで燃えた。
テツは薪を二度足した。間隔はいつもの陶器より少しだけ短い。板の厚さが椀より薄く、温度の入り方が早い。テツはそれを掌の感覚で量っていた。
ハクが火床の脇に半歩近づく。
近づいただけで薪には触れない。テツが薪を動かす肘の角度を、ハクの目がもう一度なぞった。
「熱が入ったか」
テツは火床の脇から低く言った。
ソウに向けた声ではなかったが、ソウは半歩、窯の方へ寄った。
「入った」
テツは続けた。
火の中で粘土板の縁が薄く朱に染まっている。境の線の上、二つの渦の並ぶ場所に、火の色が二つに分かれて当たっていた。
*
焼成が終わるまで、もう半刻かかった。
テツは火を落とした。落としたというより、薪を継がなかった。
窯の中の温度がゆっくり下がっていく。テツは覆いを動かさない。内側の熱が外の冷えに追いつく頃合いまで、待つほかはなかった。
空き地の中央に、薄い煙が一本立つ。
粥の鍋の湯気とは別の方角に、その煙だけが昇る。冬の入り口の風が二つを分けて、東の方へ運んでいった。
ガランの咳がもう一度、落ちた。
「埃だ」
今朝二度目の「埃だ」だった。
声の中に、昨日までは置かれていなかったものが半段、加わっている。それは温度ではなく、もう少し別の何かだった。
ソウは振り返らなかった。振り返らないことで、「埃だ」を肩の脇で受け取った。
*
窯の覆いを開けた時、板はもう冷えていた。
テツが両手で板を持ち上げ、作業場の脇の石の上に戻した。
板の表面は灰色から、乾いた焼成色に変わっている。境の線の上、二つの渦は火の前と同じ形で板の中に座っていた。
ソウは指の腹で渦の縁を確かめた。
冷たい。だが、ひりつかない。
粘土の柔らかさは、もう返ってこなかった。
「動かない」
ソウは低く言った。
「焼けた」
テツは答えた。短かった。
ハクが板の脇に半歩寄った。寄って、自分の指の腹を空中で板の線の形に合わせて動かす。板には触れない。指の動きだけが二つの渦の間を、左から右へゆっくり通った。
*
ガランが腕を組んだまま立ち上がった。
立ち上がる動きはいつもより半秒、遅かった。
右手の指がわずかに右の膝の上で押した。押した動きは見ていた者にだけ見えた。テツの肩は動かない。リアは見張り台の上で気づかなかった。ソウだけが肩の脇で受け取った。
ガランは焚き火の脇から作業場の方へ歩いた。
歩く間、咳は落ちない。
石の前まで来て板の上を一度、目で流す。左の絵、右の線、境、二つの渦。
「形に、なった」
ガランは言った。
短かった。
短かったが、その四つの音の中に半年以上の何かが座っていた。
ソウは答えなかった。
答える代わりに、板の縁を指の腹で一度確かめ直す。
ガランの咳がようやくもう一度、口の脇から落ちた。咳にはもう「埃だ」は置かれなかった。
*
昼前に、テツがもう一枚の板を持ち出した。
昨日のうちに同じ形を、湿った粘土でテツが写し取っていた板だった。
二つの渦の場所は、グラムが押した形を見ながら指の腹で写した。形だけの写しだ。だが、左右の絵も境の線の角度も同じ位置に並んでいた。
その板も火床に入った。二枚目の焼成は一枚目より半刻、短かった。テツの手は、もう一度同じ温度を作るのに迷わなかった。
昼の終わりに、二枚目の板も冷えた。
石の上に、同じ形が二つ。
一枚はガラの丘に置く。一枚はグラムへ渡す。
*
その日の昼を半刻過ぎた頃、斜面の半ばに影が現れた。
「来た」
見張り台の上から、リアの声が降りた。声の中の粒は乾いていた。
「南西。二人だけだ」
二人だけ、という言葉の意味をソウは丸太の脇で受け取った。
ガランは焚き火の脇に座り直す。腕の組み方がわずかに動いた。動いた角度は昨日グラムが帰る背中を見ていた時と同じだった。
柵の門までの斜面を、二人の影がゆっくり登ってきた。先頭はグラム。脇に昨日と同じ若い男。
後ろの十三人はいなかった。
*
グラムは門を二歩越えて止まった。
脇の若い男は一歩遅れて止まった。
ソウは作業場の脇の石まで歩いた。
石の上に、二枚の板が並んでいる。
グラムの目はすぐにその二枚の上で止まった。止まった時間は長くなかった。
「二枚」
グラムは言った。
「二枚」
ソウは答えた。
「一枚はこちらに残す。一枚をお前が持って帰る」
ソウは続けた。
グラムは答える代わりに、二枚目の板の脇に膝を折った。膝を折る動きは昨日より半段、軽かった。
指の腹を二つの渦の境の線の上に当てる。当てて、止めた。
「動かない」
グラムは言った。
昨日聞いたソウの「動かない」を、今日は自分の口で繰り返した。
*
脇の若い男が革袋を肩から下ろした。
袋の口を開け、中から皮の束を取り出す。短く編まれた皮の紐が、十本。
「人手の印だ」
グラムは言った。
「冬の真ん中。半月。二人。十本の紐で半月の日を数える」
ソウは頷いた。
頷いてから、テツの方を一度見た。テツも頷いた。
ソウは作業場の脇の革袋から、粒の入った小袋を一つ取り出した。陶器大壺の三つ目から、今朝のうちに測って分けてあった袋だった。
袋を、グラムの脇の若い男に渡す。
若い男は両手で受け取った。受け取る指は夏のハミと似ていた。だが夏ではない。冬の入り口だった。
粒の小袋と、皮の紐十本。
最初の取引が、空き地の中央に静かに置かれた。
*
グラムは立ち上がった。
手の中に二枚目の板を抱える。指の幅は、昨日柵の前で槍を地面の方に向けた者と同じだった。
「南西の尾根を越えた向こう側」
グラムは言った。
「冬の獣の道。冬の真ん中までにもう一度来る。道の場所をこちらの板に書き足す」
ソウは頷いた。
頷いてから、グラムの後ろの斜面を見た。今日は十三人はいない。だが、いない場所にグラムの言葉の輪郭が残っていた。
「春の入り口までに、もう一度」
ソウは言った。
「来る」
グラムは答えた。
*
グラムは門を出てから、丘の上にもう一度目を流した。
今日も、住居でも窯でも壺でもなく、空き地の北側の三つの盛り土の上で目が止まった。
バアの盛り土。カナの盛り土。トゥの盛り土。
風が三つの盛り土の上を撫でていた。
グラムは何も言わない。言わないまま斜面を降り始めた。
脇の若い男は二歩遅れて付く。両腕の中に焼かれた板を抱えていた。
斜面の影が林の縁の方へ消えていく。
消えていく間もリアの弦を持つ指は動かない。
ガランの咳がもう一度、口の脇から落ちた。今朝何度目の咳か、ソウはもう数えていない。
咳の中に「埃だ」は置かれなかった。
*
夕方、ソウは焚き火の脇に座った。
焚き火の脇にバアの椀とカナの椀。掌一つ分の隙間がいつもと同じ広さで残っている。その隣にカナの薬の板。
作業場の脇の石の上には粘土板が六枚。配給板、鍬印板、白板、医療制度板、カナの薬の板、そして焼かれた契約板。
六枚目の板の上に二つの渦が残っていた。
ガランが焚き火の反対側で、腕を組んだまま薪の方を見ていた。
咳は半呼吸の間隔でもう一度落ちた。だが今度は声に出さなかった。
ソウは焚き火の薪を見ていた。頭の中で、丘の上の景色が上から下へゆっくり流れた。
形が、外に残った。
ガラの丘の柵の外側、南西の尾根を越えた向こう側に、もう一枚同じ板が置かれた。乾いて焼かれた板だった。
カナはいない。バアもいない。トゥもいない。
いないままで形は、外にも動いた。
半年前の夜のガランの声が、頭の脇に戻った。
「お前の役目も、もうじき、終わる」。
あの夜の声は今夜の咳の中に、半分だけ繋がっていた。残りの半分がどこに繋がるのかは、まだソウには分からなかった。
*
火が一度、低く爆ぜた。
テツが作業場の脇から焚き火の方へ歩いてきた。
ハクはテツの背中の斜め後ろに、まだ立っていた。
「冬の真ん中までにもう一度、来る」
テツは焚き火の脇に座りながら低く言った。
ソウに向けた声ではなかったが、ソウは半秒だけテツの方を見た。
「来る」
ソウは答えた。
「次に来る時は、二人だけじゃない」
テツは続けた。
言葉の中に何かを推し量る色があった。だが急ぐ色はない。
ハクの目がテツの肩越しに、カナの薬の板の方へ流れた。流れてからまた焚き火の方へ戻った。
リアが見張り台から降りてきて、柵の上から声を放った。
「飯だぞ!」
いつもと同じ角度の張り。
その張りが、今夜は半年ぶりに丘の上の温度を、一段上げた。
*
ソウは答える代わりに、焚き火の脇の地面に、指の腹で短い線を一本引いた。
引いた線は土の上にすぐ消えた。
消えたが——引く場所は、そこにあった。
空き地の北側、三つの盛り土の上を冬の入り口の風が静かに撫でていた。
その風は丘の柵を越えて南西の尾根の方へ流れていく風と、同じ方角を向いていた。




