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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第106話「板の上の契約」

「来た」


 見張り台の上から、ヒガの声が落ちた。

 昨日のリアの声と同じ高さだったが、声の粒は一段乾いていた。


「南西。同じ数だ」


 ソウは作業場の脇の石の前で立ち上がった。

 膝の脇に新しい粘土の塊がある。今朝テツが捏ねて分けた一塊で、表面はまだ湿って光を吸っていた。

 隣に五枚の粘土板。配給板、鍬印板、白板、医療制度板、カナの薬の板。並びは昨日と変わらない。

 六枚目の位置に、今朝、別の板が一つ置かれていた。ハミに渡した形の写しを、冬の入り口に引き直したものだった。


 ガランは焚き火の脇に座ったままで、腕は組まれている。咳が一度、口の脇から落ちた。


「埃だ」


 ガランは低く言った。昨日と同じ声だが、声の中に「来た」を聞いた者の温度が、半段だけ加わっていた。



 柵の東の側、丸太の上に手を置く位置は昨日と同じだった。

 右にリア、左にテツ、後ろの斜め半歩にガラン。ヨミは革幕の脇から半歩出ていて、ヨルがその隣に立った。

 カヤは焚き火の脇のカナの薬の板の前で、今朝も薬草の束を一つ板の脇に置いていた。


 斜面の半ばに、影が並んだ。

 昨日と同じ十四人。先頭はグラム。だが止まる場所が違った。昨日は柵の前で、今朝は——柵の中だった。

 ガランが指を組み直したのに合わせて、リアが柵の門の閂を片手で外した。外す角度は、ベンの一家を受け入れた朝の角度と似ていた。


 グラムは門を二歩越えてから足を止めた。

 脇の若い男一人。残り十三人は門の外で、槍の穂先は地面の方に向いていた。


 グラムの目が空き地の中を一度なぞった。

 昨日と同じ順番だった。住居、窯の覆い、陶器大壺の並び、焚き火脇の二つの椀とカナの薬の板。そして作業場の脇の粘土板の方で目が止まった。

 止まる時間は昨日より長かった。長かったが、目の動きは固くなかった。



 ソウは丸太から離れて、作業場の脇の石の前まで歩いた。グラムも二歩遅れて追った。脇の若い男は一歩遅れた。


 石の上に、ソウは六枚目の板を置き直した。

 真ん中に縦の線。左にガラの丘が出すもの、右に向こうから受け取るもの。穂の絵、点の数、境の線、貝殻一枚分の丸。ハミの後ろに渡したのと同じ形の板だった。


 グラムは板の脇に膝を折った。

 膝を折る動きは丘の上の誰よりも遅かった。だが止まり方は決まっていた。

 目は板の上を左から右へゆっくり流れた。


「線」


 グラムは低く言った。


「これか」


「これだ」


 ソウは答えた。


「左に、こちらが出すもの。右に、そちらが出すもの」


 グラムは目を逸らさないまま、指の腹を境の線の上に一度だけ当てた。


「動くのか」


「動かない。乾いて固まる」


 グラムは答える代わりに、左の穂の絵の上を指の腹で軽くなぞった。



 ソウは木片を持ち直して、左の穂の絵の下、点の脇に新しい線を引いた。

 粒。陶器大壺の脇から一袋分。点を十並べる。十が貝殻一枚分。

 その下に薬草の束、苦い葉の絵に点を二つ。

 さらにその下に矢じりの絵、点を六つ並べた。


 左の絵が三つ並んだ。粒、薬草、矢じり。

 ガランの腕の組み方が、わずかに動いた。ソウは振り返らなかったが、組み直しの幅を肩の脇で受け取った。


「これがこちらが出すもの」


 ソウは言った。

 声は丸太の上で「奪うより取引が得だ」と置いた声と、同じ角度から出ていた。


「冬の真ん中までに一度。春の入り口までにもう一度」


 グラムは答える代わりに、左の三つの絵を指の腹で上から下へ順に確かめた。



 テツが作業場の脇から半歩近づいて、矢じりの絵の上に目を置いた。


「春までに十二は作れる。半分を残して、あとの六で——足りる」


 テツの声は平らだったが、その中に、黒曜石十二片を初めて掌に受けた朝の指の温度が薄く残っていた。

 ソウは矢じりの絵の点を一つも増やさなかった。増やさなかったことで、テツの「半分を残す」の中身が板の上に座った。



 グラムは右の側に目を流した。まだ何も引かれていない側だった。


「俺たちが出すものは」


 グラムは言った。


「人。道。猟場」


 短い三つだが、間隔は昨日の沈黙の中の半呼吸の長さと同じだった。


「人」


 ソウは繰り返した。


「丘の南の斜面、落とし穴の埋め直し。柵の補強。冬の真ん中に二人、半月、置く」


 グラムは答えながら、脇の若い男を一度だけ目で示した。

 若い男は踵を返さなかった。返さない、ということで頷いていた。


「道」


「南西の尾根を越えた向こう側。冬の獣の通り道。ハミの道とは別の道だ」


 グラムは続けた。


「ハミは夏に来る。冬は来ない。冬の獣の道は——俺たちしか知らない」


 ソウは頷きの代わりに、木片の先を粘土板の右の上に置いた。

 道の線を一本引く。境の線の右、上から下へ通る線で、線の脇に短い点を二つ。二つの点は尾根の向こうの猟場の場所だった。



「猟場」


 ソウは三つ目を繰り返した。


「南の谷の、東の縁。鹿の通り道。ガラの丘の者が、冬の真ん中に三日入って良い。獲ったものの半分を、こちらに渡す」


「半分」


「半分」


 グラムは繰り返した。


 ソウは木片の先を、右の二つ目の絵の下に置いた。

 鹿の角の形を短い二本の線で引いて、線の脇に点を二つ。二つの点は半分の意味だった。獲ったものの、半分。


 リアの弦を持つ指がわずかに動いた。動いただけで引かなかった。

 南の谷、冬の真ん中、三日。頭の中で道のりを数える指の動きだった。



「半月で二人」


 カヤが焚き火の脇から低く言った。

 聞かせる声ではなく、確かめる声だった。


「それなら、粥の量を増やせばいい。苦い葉と丸い葉、半分の量で足りる。束を、半分余計に揃える」


 ソウは左の薬草の束の絵の脇に、もう一つ短い線を引いた。

 束。半分余計。線の意味は、カヤの目の中で固まっていた。



 グラムは板の上の左右を目で一度往復した。左の三つ、右の三つ、境の線の上で目が止まった。

 止まる時間は長かった。ソウも目を逸らさなかった。


 風が丘の東の縁から上がってきた。冬の入り口の風だった。

 焚き火の煙が東の方へ細く流れていく。粥の鍋の湯気の縁が朝の光に薄く染められて、煙と同じ方角に消えていった。

 ガランの咳がもう一度、口の脇から落ちた。


「埃だ」


 ガランは低く言った。

 今朝二度目の「埃だ」だった。グラムの目が咳の方を半秒だけ拾って、すぐに板の上に戻った。



「これで、いいか」


 グラムは口を開いた。


 ソウは答える前にもう一度板の上を目で追った。

 左、右、境の線、点の数、貝殻の意味。頭の中でハミの板を渡した朝の指の動きが、もう一度通った。


「いい」


 ソウは答えて、木片を石の上に置いた。置いた音は小さかった。


「だが、形にする。板にお前の印を置く」


 グラムは目をソウから動かさないまま繰り返した。


「印」


「お前の」


 ソウは頷きの代わりに、自分の右手の指の腹を板の左の下の縁の方に近づけた。近づけただけで、まだ押さなかった。



 グラムはしばらく動かなかった。

 動かない時間が、昨日の朝の沈黙と同じ長さで続いた。


 動いたのは、グラムの右手の親指だった。

 親指を自分の口の脇に一度当てた。当ててから、ゆっくり板の右の下の縁の方へ持っていった。


 親指の腹が湿った粘土の表面に触れた。触れて、半秒だけ留まった。

 留まった親指の腹を、グラムはそのまま下に押した。

 粘土に、親指の指紋の渦が薄く残った。


 残った渦の脇で、グラムの口の端がわずかに動いた。

 言葉にはならなかった。形だけが、板の上に座った。



 ソウは自分の右手の親指を、板の左の下の縁に当てて押した。

 グラムの渦の対角の場所に、自分の渦が薄く残った。


 二つの渦が、境の線を挟んで板の上に並んだ。

 左の渦と、右の渦。間に、線。


 誰も声を上げなかった。


 リアの弦を持つ指が、半分の幅、緩んだ。

 テツの肩が、半分の幅、緩んだ。

 カヤは焚き火の脇から、薬草の束をもう一度結び直した。結び直す指の動きは、いつもの間隔と同じだった。


 ガランは腕を組んだまま動かなかった。咳は落ちなかった。



「これが——形か」


 グラムは言った。

 昨日の「分かった」と、同じ底の深さから出ていた。


「形だ」


 ソウは答えた。


「動かない。乾けば固まる」


 グラムは答える代わりに、もう一度板の上を左から右へ目で流した。

 左の穂、薬草、矢じり。右の人、道、猟場。境の線、二つの渦。目の動きは固くなかった。


 グラムは立ち上がった。立ち上がる動きは、昨日斜面を降りた時よりほんの少しだけ軽かった。


「焼くのか」


「乾かしてから、焼く。焼けば、もう線は戻らない」


 ソウは答えた。


 グラムはもう一度板の方を見て、目を逸らさずに頷いた。

 昨日の朝の頷きより、半分の幅、深かった。



 グラムは振り返らずに、門の外の十三人に手を一度動かした。動かしただけで、十三人は踵を返さなかった。脇の若い男だけが、グラムの後ろを二歩離れずに付いた。


 グラムは門を二歩越えて外に出てから、丘の上にもう一度目を流した。

 今度は住居でも窯でも壺でもなく、空き地の北側の三つの盛り土の上で目が止まった。

 バアの盛り土。カナの盛り土。トゥの盛り土。

 冬の入り口の風が、三つの盛り土の上を撫でていた。


 グラムは目を逸らさずに見て、何も言わなかった。

 言わないまま、斜面を降り始めた。

 十三人は半呼吸の遅れもなく踵を返し、足音が林の縁の方へ離れていった。



 空き地の中央に、ソウとガランとテツとリアが残った。

 粘土板の上の二つの渦は、まだ湿っていた。乾くまでに半日、焼くまでにもう半日。


 ガランが、ソウの斜め後ろから咳を落とした。今朝三度目の咳だった。

 咳の中に、「埃だ」は置かれなかった。置かれなかったことを、ソウだけが拾った。

 ガランは腕の組み方を、わずかに動かした。動いた角度は、定住宣言の夜の頷きの角度と同じだった。



 ソウは石の前にしゃがんだまま、二つの渦の縁を指の腹で確かめた。

 湿った粘土の冷たさが返ってきた。冷たかったが、ひりつかなかった。


「動いた」


 ソウは低く言った。


 ガランの咳が、もう一度口の脇から落ちた。咳は何の名も与えられないまま、冬の入り口の風の中に消えていった。


 焚き火の脇の二つの椀の縁を、冬の入り口の風が薄く撫でていく。バアの椀と、カナの椀。掌一つ分の隙間が、二つの椀の間に同じ広さで残っていた。その隣に、カナの薬の板。

 作業場の脇には粘土板五枚と、もう一枚、六枚目の板。六枚目の板の上には、二つの渦。


 ソウは石の前から動かないまま、口の中で低く言った。


「焼く」


 声には出さなかった。

 出さなかったが、丘の上の冬の入り口の風の中に、その形だけが残った。

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