第105話「グラムは、頷いた」
「日が、上がる」
見張り台の上から、リアの声が降りてきた。
声は、震えなかった。震えるための間を、リアは夜のうちに使い切っていた。
ソウは、焚き火の脇で立ち上がった。
昨夜、丸太の縁に背を預けた格好で半分眠っていた。膝の上の指の節が、夜の冷えで固まっていた。
ガランは、焚き火の反対側に同じ姿勢で座っていた。腕は組んだまま、夜の間に組み直されなかった。
咳が一度、口の脇から落ちた。
「埃だ」
ガランは低く言った。
冬の入り口の朝の空気は、昨日よりも一段冷えていた。
テツは作業場の脇に立っていた。
短い槍を、夜のうちに腰の脇から手元に持ち替えていた。ハクの掌は、テツの作業の脇に置かれている。指は今朝も、何も握っていなかった。
ヨミは、革幕の脇から半歩だけ空き地の縁に出ていた。昨日と同じ位置だった。ヨルがその脇に立った。
*
カヤが、住居の革幕の影から焚き火の方へ歩いてきた。
手には薬草の束が一つ。苦い葉と丸い葉が、紐で揃えて結ばれている。傷の根の束は、今朝も持っていなかった。
カヤは焚き火の脇のカナの薬の板の前で足を止め、束をその板の脇に置いた。置いてから、板の表面の凹みの線を指の腹で一度だけなぞった。なぞっただけで、線は深まらなかった。
子世代は、住居の中だった。革幕の縁から、八歳の目が一つだけ覗いていた。ホシだった。覗いて、すぐに引っ込んだ。
*
「人だ」
見張り台のリアの声が、もう一度落ちた。
昨日と同じ声だった。だが、昨日よりも声の中の粒が小さかった。
「南西。同じだ」
ソウは、柵の東の側へ歩いた。
位置はドルクの時と同じ場所。昨日と同じ場所。丸太の上に両手を置く角度も、変わらなかった。
右にリア。見張り台から半呼吸の遅れもなく降りてきて、柵の上の半歩、左の見張り台の足場の縁に立った。手には弓。矢は番えていない。だが弦の張りはいつでも引ける角度に整っていた。
左にテツ。槍は腰の脇に戻した。
ガランはソウの斜め後ろ。腕は組んだまま。
斜面の半ばに、影が並んだ。
先頭はグラムだった。
昨日より、足の止まる場所が二歩、上だった。
落とし穴の縁を越えて、柵の前まで来た。
*
止まり方が、違った。
昨日は「話すかどうかを決める者の止まり方」だった。今朝は「話す者の止まり方」だった。肩の角度が、半分の幅、下がっていた。
後ろに十四人。槍を持つ八人のうち、二人が穂先を下に向けていた。戦の意志を地面に置く時の構え方だった。
ソウは、それを拾った。拾ったが、表情は動かさなかった。
ガランの腕の組み方が、わずかに変わった。その変わり方を、グラムは目で拾った。
*
「来た」
グラムは言った。
昨日と同じ底の深さから出ていた。
「来た」
ソウは答えた。
短い往復だった。
短いが、昨日の最初の往復より、間が半分の幅、縮まっていた。
縮まった間が、丘の上の空気の温度を、わずかに変えた。
グラムは、もう一度丘の上に目を流した。
昨日と同じ順番だった。住居。窯の覆い。陶器大壺の並び。焚き火脇の二つの椀とカナの薬の板。粘土板五枚。
目が止まる時間は、昨日より短かった。
すでに数え終わったものを、もう一度確かめる目の動かし方だった。
目が、ソウに戻った。
戻った目は、ソウの肩のあたりで一度止まってから、目の高さに合わせた。
*
「お前たちは——」
グラムは言った。
「俺たちが力で取れる物を、持っている」
ソウは、丸太の上で指の節を一度だけ握り直した。
答えなかった。答える前に、グラムの言葉の続きを待った。
「粒。陶器。薬草。それから、線を引く板」
グラムは、革袋の方を目で指した。
脇の若い男の腰の革袋の口から、ハミの板の縁が、今朝も一つ覗いていた。
「力で取れば、こちらが減る」
グラムは続けた。
「だが、取れる」
短かった。
短かったが、その短さが丘の上の温度を、半段、下げた。
リアの弦を持つ指の腹が、わずかに弦の方へ寄った。寄っただけで、引かなかった。
テツの肩は動かなかった。
*
ソウは、答える前にもう一度丘の上を見た。
住居五棟。
窯。
陶器大壺の並び。
焚き火脇の二つの椀とカナの薬の板。
粘土板五枚。
空き地の北側、三つの盛り土。
バアの盛り土。カナの盛り土。トゥの盛り土。
見て、ソウは口を開いた。
「奪うより、取引した方が得だ」
ソウは言った。
声は、丸太の上の両手の角度と同じだった。低くはなく、高くもなかった。
グラムは、答えなかった。
答える代わりに、目を逸らさなかった。
「お前たちが力で取れる物より」
ソウは続けた。
「取引で取れる物の方が、多い」
言い終わってから、ソウは丸太の上の手を動かさなかった。動かさないことが、言い終わったあとの形だった。
*
動かない時間が、始まった。
グラムは、口を開かなかった。
目は、ソウから動かなかった。
脇の若い男も、後ろの十四人も、誰の足の指も動かなかった。
風が、丘の東の縁から上がってきた。
冬の入り口の風だった。リアの髪の毛の先がわずかに揺れた。揺れたが、リアの弦を持つ指は動かなかった。
焚き火の薪が一度、低く爆ぜた。
爆ぜた音だけが、空き地の縁から斜面の半ばまでゆっくり降りていった。
グラムの目が、ソウから外れなかった。
ソウも、外さなかった。
沈黙が、半呼吸を超えた。
超えてから、もう半呼吸を超えた。
「……」
グラムの口の中で、一度だけ、何かが動いた。
動いただけで、外には出なかった。
「……」
もう一度、同じ形が、口の中で動いた。
今度も、外には出なかった。
*
ガランが、腕を組んだまま咳を一度落とした。
咳の中に、今朝までの「埃だ」は置かれなかった。
置かれなかったことを、ソウだけが拾った。
拾ってから、ソウはもう一度口を開いた。
「お前は——選べる」
ソウは言った。
「力を使うか」
半呼吸の間。
「取引するか」
三つに割って、ソウは置いた。
置いてから、もう動かさなかった。
*
さらに長い沈黙が、始まった。
風は、止まらなかった。
焚き火の煙が、空き地の中央から東の方へ細く流れていった。
粥の鍋の湯気は、湯気の縁が朝の光に薄く染められていた。鍋の縁から立ち上って、煙と同じ方角に消えていった。
グラムの目は、ソウから動かなかった。
ソウの目も、グラムから動かなかった。
「……」
グラムの口の脇で、もう一度形が動いた。
動いた形が、ソウに向かう前に、また引っ込んだ。
脇の若い男の、足の指が、一度動いた。
動いただけで、足の踵は動かなかった。
グラムの右手の指が、半秒だけ若い男の方を制した。指は若い男を見ていなかった。ただ、動いただけだった。
若い男の足の指が、止まった。
後ろの十四人のうち、誰かの足音が、半歩分、地面の上で擦れた。
擦れただけで、踵は動かなかった。
ガランの咳が、もう一度、口の脇から落ちた。
「埃だ」
ガランは低く言った。
今朝、初めて出た「埃だ」だった。
グラムの目が、その咳の方を、半秒だけ拾った。拾って、すぐにソウに戻った。
*
沈黙の中で、グラムの口の端が一度だけ動いた。
言葉になる前の形だった。
形になる前に、もう一度引っ込んだ。
引っ込んでから、グラムは肩の角度を半分の幅、下げた。
昨日、止まる時の角度から半分下がっていた肩が、もう半分の幅、下がった。
下がった肩の上に、グラムの目の高さが、わずかに低くなった。
ソウから、目は外れなかった。
外れないまま、グラムは口を開いた。
「……分かった」
声は、低かった。
ドルクの声よりも、昨日のグラムの声よりも、底が一段深い場所から出ていた。
短かった。
短かったが——その短さの中に、長い沈黙の全部が、収まっていた。
後ろの十四人の槍の角度が、もう半分の幅、下がった。
グラムは、頷いた。
*
誰も声を上げなかった。
リアの弓の弦の張りが、半分の幅、緩んだ。
弦から指は離れなかった。だが、引く角度は緩んだ。
テツの肩が、半分の幅、緩んだ。
ガランは、腕を組んだまま、何も言わなかった。
ヨミは革幕の脇から、半歩を引かなかった。引かないまま、ヨルの方を見た。
ヨルは、首を一度だけ縦に動かした。
二人の間に、東の谷の言葉の橋は、架けなかった。架ける必要が、今朝はなかった。
革幕の縁から、ホシの目がもう一度覗いた。
覗いて、今度はすぐには引っ込まなかった。
空き地の北側、三つの盛り土の上を、冬の入り口の風が、静かに撫でた。
バアの盛り土。カナの盛り土。トゥの盛り土。
草は、もう生え終わっていた。
風は、止まらなかった。
*
グラムは、振り返らずに後ろの十四人に手を一度動かした。
動かしただけで、十四人は踵を返さなかった。
返さない、ということを、グラムが手で示したのだった。
頷いた、ということが、終わりの形ではなかった。
「明日」
グラムは言った。
「話す」
昨日と同じ言葉だった。
だが——昨日の「話す」は「話すかどうかを話す」だった。今朝の「話す」は「中身を、話す」だった。
グラムは、もう一度ソウに目を合わせた。
「お前が……決めた」
グラムは言った。
「俺も、決めた」
*
ソウは、答えなかった。
答える代わりに、丸太の上の両手を一度だけ組み直した。
組み直した指の節は、夜の冷えで固まったままだった。
固まったまま、組まれた。
グラムは、斜面を降り始めた。
十四人は、半呼吸の遅れもなく、踵を返した。
返り方は、命令された返り方ではなかった。引き連れる方の、返り方だった。
足音が、林の縁の方へ離れていった。
離れていく間も、リアの弦を持つ指は動かなかった。テツの槍の柄も握り直されなかった。
ガランは、咳を一度落とした。
今朝二度目の「埃だ」は、置かれなかった。
*
空き地の中央に、ソウとガランとテツとリアが残った。
誰もすぐには口を開かなかった。
カヤが、焚き火の脇のカナの薬の板の前から、半歩離れた。
離れて、住居の革幕の方へ戻った。
戻る背中の角度は、来た時と変わらなかった。
ヨミが、革幕の脇から半歩進んだ。
ヨルがその隣に立った。ヨミがヨルに何かを置いた。ヨルが受けて、ソウの方を見た。
「ヨミは、初めて見たと言っている」
「何を」
「ああいう男が、頷くのを」
ヨミの目だけが、ヨルの肩越しにソウの方を見ていた。
*
ソウは、丸太の上から作業場の脇の石の方へ目を流した。
粘土板五枚。配給板、鍬印板、白板、医療制度板、カナの薬の板。
石の上の五枚は、今朝の間、動かなかった。
六枚目の凹みも、石の表面に薄く残ったまま、動いていなかった。
動かなかったが、ソウの目の中で、六枚目の凹みの線が、半分だけ深まっていた。
カナの薬の板の隣に、新しい板が立つ。立つ場所は、まだ空いていた。
空いている、ということが、今朝の形だった。
カナはいない。バアもいない。トゥもいない。
いないままで、形は、動いた。
*
ガランが、ソウの斜め後ろから咳を落とした。
咳の中に、三度目の「埃だ」は置かれなかった。
置かれなかったことを、ソウは目を逸らさずに受け取った。
ガランは、何も言わなかった。
腕の組み方が、わずかに動いた。動いた角度は、半年前の、定住宣言の夜の頷きの角度と同じだった。
ソウは、ガランの方を振り返らなかった。
振り返らないまま、低く言った。
「動いた」
ガランは、答えなかった。
答えなかったが、咳がもう一度、口の脇から落ちた。
落ちた咳は、何の名も与えられないまま、冬の入り口の風の中に消えていった。
*
焚き火の煙は、空き地の中央から東の方へ細く流れていった。
粥の鍋の湯気が、煙と同じ方角に消えていった。
斜面に、影はもうなかった。
あった場所だけが、ソウの目の中に残っていた。残った場所の縁が、昨日の朝より、わずかに深く彫られていた。
リアは、見張り台の梯子に手をかけてから、もう一度斜面の方を見た。
見て、登った。
テツは作業場の脇に戻り、矢じりの柄の固定の音がいつもの間隔で戻ってきた。ハクの掌は、自分の太腿の上に置かれたまま、線を引かなかった。
ソウは、丸太の上から動かなかった。
動かないまま、口の中でもう一度低く言った。
「グラムは、頷いた」
声には、出さなかった。
出さなかったが、丘の上の冬の入り口の風の中に、その形だけが残った。




