第102話「東の方角」
「東に、人だ」
夜明けの少し前、見張り台のダイの声が、空き地の上に低く降りた。
ソウは焚き火の脇で、椀を口の縁まで運びかけていた手を止めた。湯気が口の前で半呼吸だけ留まり、それから上へ抜けた。
冬の入り口の風は、昨日と同じ方角から、昨日と同じ角度で吹いている。
「一人か」
ガランが焚き火の脇から聞いた。
声は座ったままの低さだった。膝の上には革の防寒具の縁。咳が口の脇から二度落ちた。
「二人だ」
ダイは続けた。
「東の林の縁を歩いている。武器は提げているが構えていない」
ヨルが住居の革幕の方から空き地の縁へ歩いてきた。
歩幅はいつもの朝のままだった。だが、東の斜面の方を見る目の動きは、いつもの朝より速かった。
ヨルの後ろから、トトが続いた。
「ナギの足だ」
ヨルは低く言った。
「東の谷の方から、来ている」
*
ソウは立ち上がった。
膝の関節の伸びは、昨日の朝よりわずかに早かった。冬の入り口の冷えは骨の縁まで届いていたが、足の運びはもうためらわなかった。
柵の東の側にソウは立った。丸太の上に両手を置く位置は、夏の終わりも秋も冬の入りも同じ位置だった。
ヨルがソウの斜め後ろに立った。声を出さない位置だった。
斜面の半ばに、二人の影が立った。
先頭は、ナギだった。背は前に来た時と同じ高さで、肩の落ち方も同じだった。ただ、革の防寒具の襟の合わせ方が、前の時より少しだけ深かった。冬の入り口の風を、防寒の中に入れない合わせ方だった。
ナギの後ろの男は、若かった。二十代の半ば。袋を背に負い、両手は革紐の上で軽く組まれている。
「ナギ」
ソウは静かに言った。
「ナギだ」
ナギは答えた。声は前と同じ芯を保っていた。
「冬の入り口に足を運んだ」
ソウは続けた。
「お前たちの方から来るのは初めてだ」
「来た」
ナギは答えた。
「先に、置きたい話があった」
*
ガランが焚き火の脇から立ち上がった。
立ち上がる動きの中で、右の手が一度、膝の上に置かれた。半秒。今朝もソウだけがそれを拾った。
ガランは柵の東の側まで歩いてきた。歩幅は、昨日のハミを迎えた時と同じだった。同じだが、足を運ぶ間隔がわずかに長かった。
「聞こう」
ガランは低く言った。
ナギは丘の上を一度、目で順になぞった。
住居の屋根の藁の編み目。窯の覆い。陶器大壺の並び。焚き火の脇の二つの椀と、その隣のカナの薬の板。三つの盛り土の方向。
ナギの目はカナの薬の板の上で、半呼吸だけ留まった。それから、ソウに戻った。
「東の谷の向こうから」
ナギは口を開いた。
「南の集団の動きが、見えている」
空き地の縁で煎じの火の音だけが続いた。
誰も声を上げなかった。
「冬の半ばだ」
ナギは続けた。
「我らの猟場の北の縁から、向こうの本体の煙が見える。数を数えていた」
「数えた」
後ろの若い男が初めて口を開いた。
ヨルがソウの斜め後ろから低く一言だけ落とした。
「コウと呼ばれている。ナギの族の若手だ」
*
ソウは答えなかった。
答える代わりに、頭の中の白板の上に、ハミの言葉を置き直した。
冬の半ばか明けか。十数人。袋は持つ。手は空けない形。
昨日、丘の南の縁から運ばれてきた言葉だった。今朝、丘の東の縁から運ばれてきた言葉が、その上に重なった。
「数は」
ガランが低く聞いた。
「十二か十三」
コウは答えた。声は若く、だが揺れていなかった。
「煙の本数を五日数えた。減らなかった。増えもしなかった。冬の支度の煙の数だ」
「動く時の数か」
ガランは続けた。
「動く時の数だ」
コウは答えた。
ソウの頭の中で、白板の上の二つの数字が、貝殻の上で並んだ。
ハミの十数人。コウの十二か十三。
二つの数字は、揃った。
*
ハルが住居の革幕の方から空き地の縁へ歩いてきた。
手の中には粥の椀が二つ。湯気が立っている。冬の入り口の朝の粥だった。
ハルはナギとコウの方ではなく、まず焚き火の脇の二つの椀の隣の、空いている石の上を見た。それから柵の脇まで歩いてきて、丸太の上に二つの椀を置いた。
「冷える」
ハルは穏やかに言った。
「東の谷の朝の風はここよりまだ低い」
ナギは丸太の上の椀を、両手で受け取った。
受け取る手の動きが、夏の終わりにここを訪れた時の手の動きと、ほとんど同じだった。だが、ほとんど同じだということは、ハルだけが知っていた。
ハルは何も言わずに、半歩下がった。
*
イサが見張り台の梯子の半ばまで降りてきた。
降りる動きはリアの動きに似ていた。半年前の冬から、二人で覚えていった音の立てない降り方だった。
梯子の半ばで足を止め、東の斜面の林の縁の方へ視線を流す。コウの後ろに別の影がないことを、目で確かめている動きだった。
確かめてから、イサはリアの方へ目を向けた。リアは柵の北の側の上から、東の斜面の方を見ていた。二人の目は会って、それから、ほどけた。
声は、一つも交わさなかった。
*
「うちの部族も」
ナギは椀の湯気の縁から目を上げて低く言った。
「お前たちの形を知っている」
ナギは続けた。
「向こうがどう動くか見ている。だから、先に置きに来た」
「向こうの本体は」
ガランは聞いた。
「お前たちの猟場には来るか」
「来ない」
ナギは答えた。
「向こうの足はここの丘の方を向いている。我らの谷は、向こうの足の角度から外れている」
ナギはそこで半呼吸ほど口を結んだ。
「だが、向こうがここを動かしたあと、足の角度がどこを向くかはまだ分からない」
*
ガランは焚き火の方へ目を一度戻した。
戻してから、口を開かなかった。咳が、口の脇から二度、それから一度、落ちた。
「……埃だ」
ガランは低く言った。
今朝の埃も、夏の終わりのハミの前で出た埃と形が同じだった。
ナギはその咳を、目で拾った。
拾ったが、口にはしなかった。
「もう一つ」
ナギは続けた。
「冬の入り口を過ぎたら、うちの部族から人をこちらに送りたい」
*
ソウは答えなかった。
答えない代わりに、ナギの目を、まっすぐ受けた。
ナギの目は、商人の目ではなかった。長の目だった。
「人とは」
ガランが低く聞いた。
「冬をこちらで越したい三人だ」
ナギは答えた。
「東の谷の方は今年の備えが薄い。三人ならこちらの粥の鍋に深く沈まない数だと見ている」
「三人か」
ガランは繰り返した。
「ヨミ、コウ、それから子が一人」
ナギは答えた。
「コウは今、ここに立っている」
コウは肩の力を抜かなかった。だが目は、ガランからソウへ、それからヨルの方へ、順に動いた。動き方は、初めて来る場所の動き方だった。
*
ソウはガランの方を見た。
ガランは火の方を見ていた。火の縁の燃え方がわずかに高くなった。
ガランの首は前に落ちていなかった。
「話す」
ガランは低く言った。
「形は夜までに置く」
ナギは深く頭を下げた。誇りを保ったままのナギの頭の下げ方だった。
コウもその後ろで頭を下げた。下げ方は、ナギより半呼吸だけ遅かった。
*
ナギは椀を、丸太の上に静かに戻した。
戻してから、ソウとガランの方を、もう一度順に見た。
「次に来る時に」
ナギは言った。
「人を連れてくる」
「いつだ」
ガランは聞いた。
「もうじきだ」
ナギは答えた。
「東の谷の朝の風がここの朝の風と同じになる前に」
ナギとコウは、斜面を降りていった。
歩幅は来た時と同じだった。林の縁で角度を変えた。東の方角だった。背中は、一度も振り返らなかった。
*
ソウは作業場の脇の石の前に、もう一度しゃがんだ。
石の上の粘土板は五枚のままだった。配給板。鍬印板。白板。医療制度板。カナの薬の板。
六枚目の板の凹みはまだ、石の表面に薄く残っている。
ハミの足が運ぶ形。
ナギの口が運ぶ形。
二つの方角から、同じ南の集団の話が、丘の上に届いた。
届いて、揃った。
ソウは指の腹を、六枚目の板の凹みの上に置いた。
冷たくはなかった。だが温かくもなかった。
ヨルが、作業場の脇まで歩いてきた。
ソウの斜め後ろに立って、低く言った。
「もうじき、ナギから人が来る」
ヨルの声は、東の谷の言葉でも、ここの言葉でもなかった。
二つの間のどこかから出ていた声だった。
冬の入り口の風が、丘の東の縁から、もう一度上がってきた。
風は、止まらなかった。




