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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第102話「東の方角」

「東に、人だ」


 夜明けの少し前、見張り台のダイの声が、空き地の上に低く降りた。

 ソウは焚き火の脇で、椀を口の縁まで運びかけていた手を止めた。湯気が口の前で半呼吸だけ留まり、それから上へ抜けた。

 冬の入り口の風は、昨日と同じ方角から、昨日と同じ角度で吹いている。


「一人か」


 ガランが焚き火の脇から聞いた。

 声は座ったままの低さだった。膝の上には革の防寒具の縁。咳が口の脇から二度落ちた。


「二人だ」


 ダイは続けた。


「東の林の縁を歩いている。武器は提げているが構えていない」


 ヨルが住居の革幕の方から空き地の縁へ歩いてきた。

 歩幅はいつもの朝のままだった。だが、東の斜面の方を見る目の動きは、いつもの朝より速かった。

 ヨルの後ろから、トトが続いた。


「ナギの足だ」


 ヨルは低く言った。


「東の谷の方から、来ている」



 ソウは立ち上がった。

 膝の関節の伸びは、昨日の朝よりわずかに早かった。冬の入り口の冷えは骨の縁まで届いていたが、足の運びはもうためらわなかった。

 柵の東の側にソウは立った。丸太の上に両手を置く位置は、夏の終わりも秋も冬の入りも同じ位置だった。

 ヨルがソウの斜め後ろに立った。声を出さない位置だった。


 斜面の半ばに、二人の影が立った。

 先頭は、ナギだった。背は前に来た時と同じ高さで、肩の落ち方も同じだった。ただ、革の防寒具の襟の合わせ方が、前の時より少しだけ深かった。冬の入り口の風を、防寒の中に入れない合わせ方だった。

 ナギの後ろの男は、若かった。二十代の半ば。袋を背に負い、両手は革紐の上で軽く組まれている。


「ナギ」


 ソウは静かに言った。


「ナギだ」


 ナギは答えた。声は前と同じ芯を保っていた。


「冬の入り口に足を運んだ」


 ソウは続けた。


「お前たちの方から来るのは初めてだ」


「来た」


 ナギは答えた。


「先に、置きたい話があった」



 ガランが焚き火の脇から立ち上がった。

 立ち上がる動きの中で、右の手が一度、膝の上に置かれた。半秒。今朝もソウだけがそれを拾った。

 ガランは柵の東の側まで歩いてきた。歩幅は、昨日のハミを迎えた時と同じだった。同じだが、足を運ぶ間隔がわずかに長かった。


「聞こう」


 ガランは低く言った。


 ナギは丘の上を一度、目で順になぞった。

 住居の屋根の藁の編み目。窯の覆い。陶器大壺の並び。焚き火の脇の二つの椀と、その隣のカナの薬の板。三つの盛り土の方向。

 ナギの目はカナの薬の板の上で、半呼吸だけ留まった。それから、ソウに戻った。


「東の谷の向こうから」


 ナギは口を開いた。


「南の集団の動きが、見えている」


 空き地の縁で煎じの火の音だけが続いた。

 誰も声を上げなかった。


「冬の半ばだ」


 ナギは続けた。


「我らの猟場の北の縁から、向こうの本体の煙が見える。数を数えていた」


「数えた」


 後ろの若い男が初めて口を開いた。

 ヨルがソウの斜め後ろから低く一言だけ落とした。


「コウと呼ばれている。ナギの族の若手だ」



 ソウは答えなかった。

 答える代わりに、頭の中の白板の上に、ハミの言葉を置き直した。

 冬の半ばか明けか。十数人。袋は持つ。手は空けない形。

 昨日、丘の南の縁から運ばれてきた言葉だった。今朝、丘の東の縁から運ばれてきた言葉が、その上に重なった。


「数は」


 ガランが低く聞いた。


「十二か十三」


 コウは答えた。声は若く、だが揺れていなかった。


「煙の本数を五日数えた。減らなかった。増えもしなかった。冬の支度の煙の数だ」


「動く時の数か」


 ガランは続けた。


「動く時の数だ」


 コウは答えた。


 ソウの頭の中で、白板の上の二つの数字が、貝殻の上で並んだ。

 ハミの十数人。コウの十二か十三。

 二つの数字は、揃った。



 ハルが住居の革幕の方から空き地の縁へ歩いてきた。

 手の中には粥の椀が二つ。湯気が立っている。冬の入り口の朝の粥だった。

 ハルはナギとコウの方ではなく、まず焚き火の脇の二つの椀の隣の、空いている石の上を見た。それから柵の脇まで歩いてきて、丸太の上に二つの椀を置いた。


「冷える」


 ハルは穏やかに言った。


「東の谷の朝の風はここよりまだ低い」


 ナギは丸太の上の椀を、両手で受け取った。

 受け取る手の動きが、夏の終わりにここを訪れた時の手の動きと、ほとんど同じだった。だが、ほとんど同じだということは、ハルだけが知っていた。

 ハルは何も言わずに、半歩下がった。



 イサが見張り台の梯子の半ばまで降りてきた。

 降りる動きはリアの動きに似ていた。半年前の冬から、二人で覚えていった音の立てない降り方だった。

 梯子の半ばで足を止め、東の斜面の林の縁の方へ視線を流す。コウの後ろに別の影がないことを、目で確かめている動きだった。

 確かめてから、イサはリアの方へ目を向けた。リアは柵の北の側の上から、東の斜面の方を見ていた。二人の目は会って、それから、ほどけた。

 声は、一つも交わさなかった。



「うちの部族も」


 ナギは椀の湯気の縁から目を上げて低く言った。


「お前たちの形を知っている」


 ナギは続けた。


「向こうがどう動くか見ている。だから、先に置きに来た」


「向こうの本体は」


 ガランは聞いた。


「お前たちの猟場には来るか」


「来ない」


 ナギは答えた。


「向こうの足はここの丘の方を向いている。我らの谷は、向こうの足の角度から外れている」


 ナギはそこで半呼吸ほど口を結んだ。


「だが、向こうがここを動かしたあと、足の角度がどこを向くかはまだ分からない」



 ガランは焚き火の方へ目を一度戻した。

 戻してから、口を開かなかった。咳が、口の脇から二度、それから一度、落ちた。


「……埃だ」


 ガランは低く言った。

 今朝の埃も、夏の終わりのハミの前で出た埃と形が同じだった。


 ナギはその咳を、目で拾った。

 拾ったが、口にはしなかった。


「もう一つ」


 ナギは続けた。


「冬の入り口を過ぎたら、うちの部族から人をこちらに送りたい」



 ソウは答えなかった。

 答えない代わりに、ナギの目を、まっすぐ受けた。

 ナギの目は、商人の目ではなかった。長の目だった。


「人とは」


 ガランが低く聞いた。


「冬をこちらで越したい三人だ」


 ナギは答えた。


「東の谷の方は今年の備えが薄い。三人ならこちらの粥の鍋に深く沈まない数だと見ている」


「三人か」


 ガランは繰り返した。


「ヨミ、コウ、それから子が一人」


 ナギは答えた。


「コウは今、ここに立っている」


 コウは肩の力を抜かなかった。だが目は、ガランからソウへ、それからヨルの方へ、順に動いた。動き方は、初めて来る場所の動き方だった。



 ソウはガランの方を見た。

 ガランは火の方を見ていた。火の縁の燃え方がわずかに高くなった。

 ガランの首は前に落ちていなかった。


「話す」


 ガランは低く言った。


「形は夜までに置く」


 ナギは深く頭を下げた。誇りを保ったままのナギの頭の下げ方だった。

 コウもその後ろで頭を下げた。下げ方は、ナギより半呼吸だけ遅かった。



 ナギは椀を、丸太の上に静かに戻した。

 戻してから、ソウとガランの方を、もう一度順に見た。


「次に来る時に」


 ナギは言った。


「人を連れてくる」


「いつだ」


 ガランは聞いた。


「もうじきだ」


 ナギは答えた。


「東の谷の朝の風がここの朝の風と同じになる前に」


 ナギとコウは、斜面を降りていった。

 歩幅は来た時と同じだった。林の縁で角度を変えた。東の方角だった。背中は、一度も振り返らなかった。



 ソウは作業場の脇の石の前に、もう一度しゃがんだ。

 石の上の粘土板は五枚のままだった。配給板。鍬印板。白板。医療制度板。カナの薬の板。

 六枚目の板の凹みはまだ、石の表面に薄く残っている。


 ハミの足が運ぶ形。

 ナギの口が運ぶ形。

 二つの方角から、同じ南の集団の話が、丘の上に届いた。


 届いて、揃った。


 ソウは指の腹を、六枚目の板の凹みの上に置いた。

 冷たくはなかった。だが温かくもなかった。


 ヨルが、作業場の脇まで歩いてきた。

 ソウの斜め後ろに立って、低く言った。


「もうじき、ナギから人が来る」


 ヨルの声は、東の谷の言葉でも、ここの言葉でもなかった。

 二つの間のどこかから出ていた声だった。


 冬の入り口の風が、丘の東の縁から、もう一度上がってきた。

 風は、止まらなかった。

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