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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第101話「ハミの、目に渡す」

「南の斜面に一人」


 見張り台のダイの声が、空き地の上に低く降りてきた。

 ソウは作業場の脇の平らな石の前にしゃがんでいた。指の腹は、六枚目の板の境の線の上に置かれたままだった。線の縁から湿った冷たさが返ってきたのは、昨日の朝のことだ。今朝はもう縁は乾いている。


「背に袋」


 ダイが続けた。

 声には軽口の語尾がない。冬の入り口の風が北の縁から南の縁へ斜めに渡る音だけが、空き地の上で続いていた。


「歩き方に迷いがない」

「一人か」

「一人だ。前と同じ歩幅だ」


 ソウは立ち上がった。

 膝の関節が、一拍だけ遅れて伸びた。冬の入り口の冷えが、もう骨の縁まで届いている。指は境の線の上から、まだ離れなかった。



 テツが作業場の方から空き地の縁へ歩いてきた。

 手の中には何もない。捏ねかけの粘土の塊は、石の上に布をかぶせて置いてきたままだった。


「春の入り口、と言って去った」


 テツは低く言った。


「冬の入り口だぞ」


「早い」


 ソウは答えた。


「だが、ハミだ」


 ガランは焚き火の脇から立ち上がった。

 立ち上がる動きの中で、右の手が一度、膝の上に置かれた。半秒。ソウだけが拾った。咳が二度、それから一度、ガランの口の脇から落ちた。


「……埃だ」


 ガランは火を見たまま、低く言った。



 ソウは柵の南の側に立った。

 丸太の上に両手を置く位置は、夏の終わりも秋の入りも冬の入りも同じ位置だった。五度目の同じ位置だ。


 ハミは斜面の三分の二の高さで足を止め、袋を地面に下ろした。

 紐を一本ほどき、口を半分だけ開ける。半分だけ。中身の全部は見せない。五度目も、ハミの手の動きは同じだった。

 だが、袋の中身の音が前の四回より、わずかに少なかった。


「冬の入り口と言わなかった」


 ソウは静かに言った。


「言わなかった」


 ハミは答えた。


「だが来た」


 ハミは続けた。


「先に置きたい話があった」



 ガランは焚き火の脇に膝を落としたままだった。

 立ち上がらない代わりに、咳の合間に、低く一言だけ落とした。


「聞こう」


 ハミは袋の口を結び直してから、丘の上を一度、目で順になぞった。

 住居の屋根の藁の編み目。窯の覆い。陶器大壺の並び。粥の鍋の脇でカヤが煎じる薬草の小さな火の縁。焚き火の脇の二つの椀と、その隣のカナの薬の板。そして作業場の脇の平らな石の上の、六枚の粘土板。

 ハミの目はそこで半呼吸ほど留まった。


「南の集団」


 ハミは口を開いた。


「お前たちのことを話していた集団のことだ」


「数えていたと聞いた」


 ソウは答えた。


「数え終わった」


 ハミは言った。


「本体が動くらしい」



 空き地の縁で、薬草を煎じる火の音だけが続いていた。

 誰も声を上げなかった。

 リアが梯子の半ばで足を止めた。柵の上の指は動かさない。だが肩の角度がハミの言葉の方へわずかに傾いた。


「いつ」


 ガランが低く聞いた。


「冬の半ばか明けか」


 ハミは答えた。


「俺の知っているのはそこまでだ」


「数は」


「本体の数だ。十数人。袋は持つ。手は空けない形だ」


 ハミは続けた。


「歩いて来るなら、お前たちの門の前に立つ」



 ソウは作業場の方を一度振り返った。

 六枚目の板。境の線。穂と点と貝殻。黒曜石の絵と点と貝殻。釣り合いの形は昨日の朝の光の中で乾いて、今朝の光の中で同じ角度のまま残っている。

 ソウは木片を石の上から取らなかった。代わりに両手で六枚目の板を持ち上げた。

 板の縁を両の親指の腹が支えた。


 柵の南の側のハミの目の高さまで、板を運んだ。

 丸太の上に板を置く。境の線がハミの目の前で、上から下に真っ直ぐ立った。


「これを、お前に渡したい」


 ソウは言った。



 ハミは板の縁から、目を上げなかった。

 目は左の穂の絵の上で止まり、点の数を一つずつ数え、貝殻の丸の上で止まった。それから境の線を越えて右の黒曜石の絵に移る。点の数を数え、もう一度貝殻の丸の上で止まった。

 目の動きの速さは、丘の上の誰の目の動きとも違った。


「これは——」


 ハミは口を半分開けた。

 言葉は続けて出てこなかった。


「絵は、誰でも読める」


 ソウは静かに言った。


「数は貝殻で揃える。お前たちの数え方とこちらの数え方が貝殻の上で同じになる」


 ハミは指の腹を境の線の上にかざした。

 触れはしなかった。指の先が線の上の空気をなぞった。


「お前たちの数え方を向こうも数えるなら」


 ハミは低く言った。


「揃う」



 ガランが焚き火の脇から低く一言だけ落とした。


「これも、形か」


 昨夜の声と同じ高さだった。


「形です」


 ソウは答えた。


 ガランは咳を一つ落とした。短い咳。

 答えの代わりにガランは焚き火の方へ目を戻した。火の縁の燃え方がわずかに高くなった。



 ハミは丸太の上の板の縁を、もう一度目で辿った。

 左から右へ。それから右から左へ。

 顔の中で何かが動いた。商人の目ではなかった。観察者の目でもなかった。


「奪うより、取引が得だ」


 ソウは続けた。


「向こうが力で取れる物より、貝殻の数で取れる物の方が多い」


 ハミは答えなかった。

 答えない代わりに、革紐に通した首の貝殻の縁を、左の指の腹で一度撫でた。

 ハミ自身の貝殻だった。


「俺の足は向こうにも届く」


 ハミは低く言った。


「この板を向こうの男の前に置けるか置けないか。それは俺が見て決める」


「置けると見たら」


 ガランが焚き火の脇から聞いた。


「置く」


 ハミは答えた。


「置けないと見たら持って戻す」



 カヤが煎じの火の脇から一度だけ立ち上がった。

 手にした椀を、焚き火の脇の二つの椀の隣ではなく、ソウの背中の脇の石の上に置いた。湯気が薄く立ち上がっている。冬の入り口の咳に対しての煎じだった。

 カヤはガランの方もハミの方も見なかった。

 戻って火の脇にしゃがんだ。指の動きの中に説明はなかった。


 リアが梯子を降りてきた。

 降りる動きはいつもと同じ静かさだった。柵の脇まで来て、丸太の上の板を一度だけ目で確かめた。

 それからハミの方ではなく、南の斜面の林の縁の方へ視線を流した。


「届ける前に置きたい話があるなら」


 リアは低く言った。


「聞く」


 ハミは首を一度だけ振った。

 振り方は、否定の振りではなかった。今日はここまで、という振りだった。



 ハミは袋を肩に背負った。

 背負ってから、丸太の上の板に、もう一度だけ目を落とした。

 ソウは板を、両手で持ち上げ、革の切れ端で包んだ。テツが作業場の脇の壁から、布の切れ端を一枚運んできていた。布の上から革。革の上から細い紐。ハミの袋の脇に、板の入った包みを、ソウは差し出した。


 ハミは両手で受け取った。

 受け取る時、ハミの手の動きが、袋の口を結ぶ時の動きとは違っていた。物を扱う手の動きではなかった。


「次に来る時に」


 ハミは言った。


「向こうの返事も、持ってくる」


「春の入り口か」


 ガランが聞いた。


「雪が早ければ、その先だ」


 ハミは答えた。

 夏の終わりに置いた言葉と、同じ言葉だった。だが、今日の言葉の温度は、夏のそれより半呼吸だけ低かった。



 ハミは斜面を降りていった。

 来た時と同じ歩幅だった。林の縁で角度を変えた。南西の方角だった。背中は、一度も振り返らなかった。

 だが、肩の上の袋の中で、板の包みが、わずかに音を立てない位置に押し込まれているのが、ソウの目には見えた。


 ハミの背中が林の縁に消えてから、しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 風が、止まらなかった。


 ガランが焚き火の脇で、咳を二度落とした。それから一度。


「……埃だ」


 ガランは火を見たまま、低く言った。

 今日の埃は、夏の終わりにハミの前で出た埃と、形が同じだった。



 ソウは作業場の脇の石の前に、もう一度しゃがんだ。

 石の上の粘土板は、五枚に戻っていた。配給板。鍬印板。白板。医療制度板。カナの薬の板。

 六枚目の板の場所が、石の上に薄く凹んで残っている。湿った板の重みが、石の表面に置いていった形だった。


 板が、丘の外を歩く。

 ガラの丘の外側に、初めて「形」が送られる。

 ソウは指の腹を、六枚目の板の凹みの上に一度だけ置いた。冷たくはなかった。だが、温かくもなかった。



 夕の光が、丘の南の縁から薄くなる頃、リアがソウの脇に立った。

 梯子を降りる動きを、もう一度繰り返したのではない。柵の脇に立ったまま、ソウの方を一度見た。


「板の絵は向こうの男の目に届くと思うか」


 リアは低く聞いた。


「分からない」


 ソウは答えた。


「届くか届かないかは、ハミの目が向こうに着くまで分からない」


「ナギの方からも聞こえはじめている」


 リアは続けた。


「南の集団のことを、ナギの方も話しているらしい」


 ソウは答えなかった。

 答えない代わりに、頭の中の白板の方を、もう一度見た。

 ハミの足が運ぶ形と、ナギの口が運ぶ形と。

 二つの方角から、同じ南の集団の話が、丘の上に近づいてきていた。


 冬の入り口の風が、丘の南の縁からもう一度上がってきた。

 風は、止まらなかった。

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