第101話「ハミの、目に渡す」
「南の斜面に一人」
見張り台のダイの声が、空き地の上に低く降りてきた。
ソウは作業場の脇の平らな石の前にしゃがんでいた。指の腹は、六枚目の板の境の線の上に置かれたままだった。線の縁から湿った冷たさが返ってきたのは、昨日の朝のことだ。今朝はもう縁は乾いている。
「背に袋」
ダイが続けた。
声には軽口の語尾がない。冬の入り口の風が北の縁から南の縁へ斜めに渡る音だけが、空き地の上で続いていた。
「歩き方に迷いがない」
「一人か」
「一人だ。前と同じ歩幅だ」
ソウは立ち上がった。
膝の関節が、一拍だけ遅れて伸びた。冬の入り口の冷えが、もう骨の縁まで届いている。指は境の線の上から、まだ離れなかった。
*
テツが作業場の方から空き地の縁へ歩いてきた。
手の中には何もない。捏ねかけの粘土の塊は、石の上に布をかぶせて置いてきたままだった。
「春の入り口、と言って去った」
テツは低く言った。
「冬の入り口だぞ」
「早い」
ソウは答えた。
「だが、ハミだ」
ガランは焚き火の脇から立ち上がった。
立ち上がる動きの中で、右の手が一度、膝の上に置かれた。半秒。ソウだけが拾った。咳が二度、それから一度、ガランの口の脇から落ちた。
「……埃だ」
ガランは火を見たまま、低く言った。
*
ソウは柵の南の側に立った。
丸太の上に両手を置く位置は、夏の終わりも秋の入りも冬の入りも同じ位置だった。五度目の同じ位置だ。
ハミは斜面の三分の二の高さで足を止め、袋を地面に下ろした。
紐を一本ほどき、口を半分だけ開ける。半分だけ。中身の全部は見せない。五度目も、ハミの手の動きは同じだった。
だが、袋の中身の音が前の四回より、わずかに少なかった。
「冬の入り口と言わなかった」
ソウは静かに言った。
「言わなかった」
ハミは答えた。
「だが来た」
ハミは続けた。
「先に置きたい話があった」
*
ガランは焚き火の脇に膝を落としたままだった。
立ち上がらない代わりに、咳の合間に、低く一言だけ落とした。
「聞こう」
ハミは袋の口を結び直してから、丘の上を一度、目で順になぞった。
住居の屋根の藁の編み目。窯の覆い。陶器大壺の並び。粥の鍋の脇でカヤが煎じる薬草の小さな火の縁。焚き火の脇の二つの椀と、その隣のカナの薬の板。そして作業場の脇の平らな石の上の、六枚の粘土板。
ハミの目はそこで半呼吸ほど留まった。
「南の集団」
ハミは口を開いた。
「お前たちのことを話していた集団のことだ」
「数えていたと聞いた」
ソウは答えた。
「数え終わった」
ハミは言った。
「本体が動くらしい」
*
空き地の縁で、薬草を煎じる火の音だけが続いていた。
誰も声を上げなかった。
リアが梯子の半ばで足を止めた。柵の上の指は動かさない。だが肩の角度がハミの言葉の方へわずかに傾いた。
「いつ」
ガランが低く聞いた。
「冬の半ばか明けか」
ハミは答えた。
「俺の知っているのはそこまでだ」
「数は」
「本体の数だ。十数人。袋は持つ。手は空けない形だ」
ハミは続けた。
「歩いて来るなら、お前たちの門の前に立つ」
*
ソウは作業場の方を一度振り返った。
六枚目の板。境の線。穂と点と貝殻。黒曜石の絵と点と貝殻。釣り合いの形は昨日の朝の光の中で乾いて、今朝の光の中で同じ角度のまま残っている。
ソウは木片を石の上から取らなかった。代わりに両手で六枚目の板を持ち上げた。
板の縁を両の親指の腹が支えた。
柵の南の側のハミの目の高さまで、板を運んだ。
丸太の上に板を置く。境の線がハミの目の前で、上から下に真っ直ぐ立った。
「これを、お前に渡したい」
ソウは言った。
*
ハミは板の縁から、目を上げなかった。
目は左の穂の絵の上で止まり、点の数を一つずつ数え、貝殻の丸の上で止まった。それから境の線を越えて右の黒曜石の絵に移る。点の数を数え、もう一度貝殻の丸の上で止まった。
目の動きの速さは、丘の上の誰の目の動きとも違った。
「これは——」
ハミは口を半分開けた。
言葉は続けて出てこなかった。
「絵は、誰でも読める」
ソウは静かに言った。
「数は貝殻で揃える。お前たちの数え方とこちらの数え方が貝殻の上で同じになる」
ハミは指の腹を境の線の上にかざした。
触れはしなかった。指の先が線の上の空気をなぞった。
「お前たちの数え方を向こうも数えるなら」
ハミは低く言った。
「揃う」
*
ガランが焚き火の脇から低く一言だけ落とした。
「これも、形か」
昨夜の声と同じ高さだった。
「形です」
ソウは答えた。
ガランは咳を一つ落とした。短い咳。
答えの代わりにガランは焚き火の方へ目を戻した。火の縁の燃え方がわずかに高くなった。
*
ハミは丸太の上の板の縁を、もう一度目で辿った。
左から右へ。それから右から左へ。
顔の中で何かが動いた。商人の目ではなかった。観察者の目でもなかった。
「奪うより、取引が得だ」
ソウは続けた。
「向こうが力で取れる物より、貝殻の数で取れる物の方が多い」
ハミは答えなかった。
答えない代わりに、革紐に通した首の貝殻の縁を、左の指の腹で一度撫でた。
ハミ自身の貝殻だった。
「俺の足は向こうにも届く」
ハミは低く言った。
「この板を向こうの男の前に置けるか置けないか。それは俺が見て決める」
「置けると見たら」
ガランが焚き火の脇から聞いた。
「置く」
ハミは答えた。
「置けないと見たら持って戻す」
*
カヤが煎じの火の脇から一度だけ立ち上がった。
手にした椀を、焚き火の脇の二つの椀の隣ではなく、ソウの背中の脇の石の上に置いた。湯気が薄く立ち上がっている。冬の入り口の咳に対しての煎じだった。
カヤはガランの方もハミの方も見なかった。
戻って火の脇にしゃがんだ。指の動きの中に説明はなかった。
リアが梯子を降りてきた。
降りる動きはいつもと同じ静かさだった。柵の脇まで来て、丸太の上の板を一度だけ目で確かめた。
それからハミの方ではなく、南の斜面の林の縁の方へ視線を流した。
「届ける前に置きたい話があるなら」
リアは低く言った。
「聞く」
ハミは首を一度だけ振った。
振り方は、否定の振りではなかった。今日はここまで、という振りだった。
*
ハミは袋を肩に背負った。
背負ってから、丸太の上の板に、もう一度だけ目を落とした。
ソウは板を、両手で持ち上げ、革の切れ端で包んだ。テツが作業場の脇の壁から、布の切れ端を一枚運んできていた。布の上から革。革の上から細い紐。ハミの袋の脇に、板の入った包みを、ソウは差し出した。
ハミは両手で受け取った。
受け取る時、ハミの手の動きが、袋の口を結ぶ時の動きとは違っていた。物を扱う手の動きではなかった。
「次に来る時に」
ハミは言った。
「向こうの返事も、持ってくる」
「春の入り口か」
ガランが聞いた。
「雪が早ければ、その先だ」
ハミは答えた。
夏の終わりに置いた言葉と、同じ言葉だった。だが、今日の言葉の温度は、夏のそれより半呼吸だけ低かった。
*
ハミは斜面を降りていった。
来た時と同じ歩幅だった。林の縁で角度を変えた。南西の方角だった。背中は、一度も振り返らなかった。
だが、肩の上の袋の中で、板の包みが、わずかに音を立てない位置に押し込まれているのが、ソウの目には見えた。
ハミの背中が林の縁に消えてから、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
風が、止まらなかった。
ガランが焚き火の脇で、咳を二度落とした。それから一度。
「……埃だ」
ガランは火を見たまま、低く言った。
今日の埃は、夏の終わりにハミの前で出た埃と、形が同じだった。
*
ソウは作業場の脇の石の前に、もう一度しゃがんだ。
石の上の粘土板は、五枚に戻っていた。配給板。鍬印板。白板。医療制度板。カナの薬の板。
六枚目の板の場所が、石の上に薄く凹んで残っている。湿った板の重みが、石の表面に置いていった形だった。
板が、丘の外を歩く。
ガラの丘の外側に、初めて「形」が送られる。
ソウは指の腹を、六枚目の板の凹みの上に一度だけ置いた。冷たくはなかった。だが、温かくもなかった。
*
夕の光が、丘の南の縁から薄くなる頃、リアがソウの脇に立った。
梯子を降りる動きを、もう一度繰り返したのではない。柵の脇に立ったまま、ソウの方を一度見た。
「板の絵は向こうの男の目に届くと思うか」
リアは低く聞いた。
「分からない」
ソウは答えた。
「届くか届かないかは、ハミの目が向こうに着くまで分からない」
「ナギの方からも聞こえはじめている」
リアは続けた。
「南の集団のことを、ナギの方も話しているらしい」
ソウは答えなかった。
答えない代わりに、頭の中の白板の方を、もう一度見た。
ハミの足が運ぶ形と、ナギの口が運ぶ形と。
二つの方角から、同じ南の集団の話が、丘の上に近づいてきていた。
冬の入り口の風が、丘の南の縁からもう一度上がってきた。
風は、止まらなかった。




