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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第100話「板を、渡す」

 朝の光が、作業場の脇の平らな石の上に長く落ちていた。

 冬の入り口の空は薄い青で、雲は南の縁から低く流れている。空き地の方ではオンが粥の鍋の脇で杓を握り直す音がしている。煎じの薄い青い匂いが、焚き火の脇から細く立ち上がっていた。


 ソウは粘土板の前に膝を折って座っていた。

 石の上には五枚の板が並んでいる。配給板。鍬印板。白板。医療制度板。カナの薬の板。並びの順は、引いた順そのままだった。

 昨夜焚き火の前でソウが言った言葉が、まだ頭の中に残っていた。粒。薬草。矢じり。皿。それから——数える形。五つの線が、頭の中で上から下に並んでいる。並んでいるが、まだ粘土の上には置かれていない。


 ソウは指の腹で、五枚目の板の縁を一度なぞった。

 縁の白さは、昨日の闇に沈んだ影がほどけて、朝の光の中で乾いて見えた。



 五枚の板を、左から右に目で追う。

 配給板の貝殻、鍬印板の節とひびの印、白板の絵、医療制度板の朝と夕の線、カナの薬の板の四枚の葉。

 どれも、丘の上の誰かの頭の中に座らせるために引かれた線だった。

 その「立つ顔」はいつも丘の上の顔だった。


 頭の中の白板の上で、ソウは別の顔を一度浮かべた。

 南の海から来た男の、日に焼けた顔。

 ハミが、春の入り口にまた来る。

 その時ハミの前に置けるものは、まだない。



 ソウは作業場の方を一度見た。

 テツが新しい粘土の塊を捏ねている。冬の入り口の風で固くなりかけた塊を、掌の付け根で押して柔らかさを呼び戻していた。ソウが目で問うと、テツは塊から拳一つ分を切り取って差し出す。

 受け取った塊は思っていたよりも冷たかった。

 手のひらの上で平らに伸ばす。縁を指の腹で揃え表面を撫でて埃を払う。新しい板の一枚が、五枚の右隣に置かれた。


 六枚目だった。


 まだ何も刻まれていない。

 湿った表面が朝の光を吸って、五枚の乾いた板の白さとは違う色をしていた。


「もう一枚か」


 テツの声が作業場の方から低く落ちた。

 目は黒曜石の小片の上にある。ソウの方を見ないまま、テツは続けた。


「今度は何の板だ」


「外に渡す板」


 ソウは答えた。

 声は静かだった。テツの手は止まらなかった。だが、止まらない手の動きの速さがわずかに変わった。受け取った、という形の遅さだった。



「外」


 テツは繰り返した。

 今度は手を止めて、ソウの方に顔を向けた。


「お前——丘の外の話をする、板を引くのか」


「引く」


「相手は」


「ハミだ。それから——ハミの向こう側の誰か」


 テツは黒曜石の片を石の上に置いた。

 置いた音は小さかった。


「ハミは——板を、読めるのか」


 ソウは答えなかった。

 答えなかったのは、自分でも分からなかったからだった。粒の絵はハミにも分かるだろう。穂の絵も椀の絵も。

 だが、縮めた線はたぶん分からない。

 ソウが線一本でアズの名を表したことは、丘の上の誰の頭の中にも、この四ヶ月で少しずつ座った。だが丘の外側の男が線一本を見ても、それはただの線だった。


「絵は誰でも読める」


 ソウは口に出した。

 口に出すことで、頭の中の形が少しはっきりした。


「絵は誰でも読める。だが数は——教えないと読めない」


 テツは頷かなかった。

 頷きの代わりに、黒曜石の片をもう一度指の腹で撫でた。



 カヤが医療制度板の脇に立っていた。

 いつから立っていたのかは、ソウには分からなかった。煎じの鍋の方から戻る途中で足が止まったらしかった。

 カヤの目は新しい六枚目の板の上にあった。何も書かれていない湿った表面の上を、目だけが上から下へ流れていった。


「外の人に見せる板」


 カヤは確かめる声で言った。


「見せるというよりは渡す板」


 ソウは答えた。


「渡して、向こうの頭の中にも同じ形を座らせる」


 カヤはしばらく黙っていた。

 黙ったまま、自分の医療制度板の方へ目を流した。オンの線、カヤの線。太陽の形、夕方の弧。月の形と矢印。

 その板は、カヤの頭の中ではもう動かない形になっていた。


「向こうの頭はこちらの頭と違う」


 カヤは低く言った。


「同じ絵を見ても違うものを思う」


「だから——」


 ソウは木片を持ち直した。


「絵だけにする。数は貝殻で数える」



 ソウは作業場の脇の杭の下から、貝殻を一つ取ってきた。

 ハミが初訪の時に置いていった、南海の貝殻の一枚だった。白と薄桃の縞模様が、朝の光の中で薄く照り返している。

 貝殻を六枚目の板の右の端に置いた。

 配給板で貝殻を「単位」として使ったあの形と、同じ位置だった。


 ソウは木片の先を粘土の上にかざした。

 板の上を、左と右の二つに分けて考える。

 左には、ガラの丘が渡すもの。

 右には、向こうから受け取るもの。


 板の真ん中に縦の線を一本引いた。

 長い線。板の上から下まで通る、境の線だった。


 左の上の方に、穂の絵を一つ。

 穂の絵の下に点を五つ並べた。

 その下に、貝殻一枚分の小さな丸を一つ。

 穂が五粒で、貝殻一枚分。


 右の上の方に、黒曜石の小片の形を一つ。

 黒曜石の絵の下に点を一つ。

 その下に、貝殻一枚分の丸を一つ。

 黒曜石一片で、貝殻一枚分。


 左と右が、貝殻の数で釣り合う形だった。



「釣り合う、形」


 カヤが低く言った。

 カヤの目は、板の真ん中の縦の線の上にあった。境の線の右と左で、絵が同じ高さに並んでいる。穂の絵と黒曜石の絵。点の数と貝殻の丸の数。

 カヤは指の腹を、境の線の上に一度だけ当てた。


「これだけ渡す。これだけもらう」


「そうだ」


「板の上で釣り合う」


 ソウは頷いた。

 頷いてから、自分の指の動きが昨夜焚き火の脇で粘土板の縁の方へ向けかけたのと同じ動きだと気づいた。あの時は途中で止めた。今朝は止めなかった。



 空き地の縁を、足音が一つ通った。

 ガランだった。

 焚き火の脇から立ち上がって、いつもの足の運びで作業場の方へ歩いてくる。膝を一度押す動きが、立ち上がる時に挟まった。半秒。

 ソウは木片を持つ手を膝の上で休めた。


「何の板だ」


 ガランの声は低かった。

 聞かせる声ではなく、確かめる声だった。


「外に渡す板」


 ソウは答えた。


「外」


「ハミ。それから——ハミの向こう」


 ガランは咳を二度落とした。

 短い咳だった。


「……埃だ」


 ガランの目は、六枚目の板の上の境の線の上に落ちた。落ちた視線が、左の穂の絵と右の黒曜石の絵の間を一度だけ往復した。


「右と、左」


 ガランは低く繰り返した。


「右に何があって左に何があるか、向こうにも見えるのか」


「絵は見える。数は貝殻で揃える」


 ガランは答えなかった。

 答えない代わりに、指の腹を板の右の端の貝殻の上に一度だけ当てた。貝殻は動かなかった。


「これも、形か」


 ガランは言った。

 昨夜焚き火の脇で言った「形か」と、同じ声だった。


「形です」


 ソウは答えた。


 ガランは何も言わずに、空き地の方へ歩いて行った。

 歩く背中の脇で、右の手が一度だけ膝の頭を撫でた。



 ソウは板の前に、しばらく動かなかった。

 六枚目の板の上の絵と線と点と貝殻を、左から右へ目で追った。それから右から左へ、もう一度。

 ハミの目が板の上を流れる形を、頭の中で量った。

 穂の絵で止まる。点の数で止まる。境の線を越える。黒曜石の絵で止まる。貝殻の上で、止まる。

 止まる場所がそこにあることだけは、引いた線の脇で確かめられた。


「分かるか」


 テツが、作業場の方から低く聞いた。

 ソウの方は見ていない。捏ねる手は止まっている。


「分からない」


 ソウは答えた。


「分かるかどうかは、ハミの目に渡すまで分からない」


「渡すのか」


「春の入り口にまた来る」


 テツは頷かなかった。

 頷きの代わりに、捏ねる手を動かし始めた。動かす音は、いつもよりわずかに丁寧だった。



 日が空き地の上を半分まで回った頃、ベンが作業場の脇を通った。

 冬の入り口の風の中で、両手に薪を抱えていた。

 ベンの目は六枚目の板の上を、一度だけ流れた。長くは見なかった。

 だが、流れた目の中に何かが一拍だけ留まったのを、ソウは横から見た。

 ベンは何も言わずに、焚き火の方へ歩いて行った。


 空き地の端では、リアが見張り台の梯子の脇に立っていた。

 梯子の上のダイの黒い影と、南の斜面の方角を、目で確かめている。

 リアの目は、作業場の方には流れなかった。だが、肩の角度がわずかに、こちらを聞いている形をしていた。



 奪うより、取引が得だ。

 昨夜焚き火の前に置いたその言葉は、丘の上の誰の頭の中にも、一度座った。

 だが、丘の外側の誰かの頭の中にも座らせるためには、言葉では足りなかった。

 言葉は、空気の中で消える。

 線は、消えない。


 ソウは指の腹を、境の線の上に置いた。

 線の縁から、湿った粘土の冷たさが指に返ってきた。

 この一本の線が、いつかハミの目の前に置かれる。

 見えなかったら、その時はまた別の線を引く。


 板を、ハミに渡そう。

 春の入り口に、ハミがまた来た時に。



 焚き火の脇で、ガランが咳を一つ落とした。

 短い咳が二度、それから一度。


「……埃だ」


 焚き火の脇の二つの椀の縁を、冬の入り口の風が薄く撫でていく。バアの椀と、カナの椀。掌一つ分の隙間が、二つの椀の間に同じ広さで残っていた。

 その隣に、カナの薬の板。

 ソウの作業場の脇には、配給板。鍬印板。白板。医療制度板。

 そして六枚目の——まだ名前のない板。


 日が傾き始める頃、ソウは板の前から立ち上がった。

 六枚目の板の上の貝殻が、午後の光の中で薄く照り返している。

 白と薄桃の縞模様の、その内側を、冬の入り口の光が一度だけ撫でた。

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