29.受験
すこし長くなりました。
父親の転勤で、花梨は家族で引っ越しをすることになった。時期は小学校を卒業して中学に入るまでの間、春休みだ。
花梨が泣き叫んでかなりの騒ぎにはなったが、父親の転勤先が勇人と由紀の故郷だと分かってから花梨は少し落ち着いた。全く知らない土地じゃない。夏休みを俺や由紀と過ごした土地だ。向こうには瑞希姉さんや美紀や颯希がいる。由紀の母親も居る。花梨にとってはみんな心強い味方になるだろう。
だが仲の良い友達は一人も同じ中学にはならない。俺や由紀とも別れることになる。同世代の知り合いが誰もいない中学でうまくやっていけるか花梨は不安になっている。実際のところ小学校からの繋がりのある仲良し集団に溶け込むのは結構難しい。
不安になっている花梨に由紀が一つ提案をしてくれた。
「中学受験をするのはどうかしら、花梨。」
「中学受験ってどういうこと、ママ。」
「私立中学を受けてみたらいいんじゃないかな。」
「どうして。」
「私立中学なら色んな地域から受験してくるでしょ。それならお互いに、初めまして、になるわ。もちろん多少は知り合いがいる人もいるでしょうけど、大半は違うわよ。」
私立中学なら全く別の土地から行っても新しい友達が作りやすい。まわりも見知らぬ人同士が多い。由紀は自分の経験を引き合いにして花梨に説明した。
そして花梨に由紀が勧めたのは由紀や颯希の母校だ。中学だけでなく系列の高校から大学まであるから内部進学も狙える。ちゃんとした成績を残せば、高校受験や大学受験で苦労しなくて済む。
それと系列校だけなら由紀の故郷の家から通える範囲にすべての学校はある。美紀達と離れて下宿して一人暮らしをしなくてもいい。学校は施設面で充実していて教師も優れた立派な人が多い。あと水泳部が有名で競泳界に学校名が響いている。
ただ由紀が私立中学に進んだ理由は花梨とは違っていた。由紀は知り合いの居ない学校を目指した。新しい友達が欲しかったわけではない。いや新しい友達を作りたかったし、新しい友達も出来たのは出来たのだが。
真の理由は、俺との繋がりがある同級生と同じ中学に進むのが辛かったから。過去と繋がりのない見知らぬ人達との新しい世界を望んだ。だがそれでも十分じゃなかった。中学は別でも住んでいる地域が一緒なら小学校の同級生にはどうしても会うことが多かった。その結果、由紀自身は内部進学を選ばず遠くの別の高校を選んだ。
いまさらながら、俺の存在、俺の死というものが由紀に与えた影響の大きさを考えさせられる。俺は本当に簡単に考えていた。やはり所詮12歳が考えたことだったということだろう。いまは何とか埋め合わせが出来ているが十分じゃないだろう。これからも、もっともっと由紀を護らないとダメだ。
由紀や颯希の母校という点に花梨は興味を引かれて受験することを決意した。新しい土地に行っても、知り合いに繋がる場所に行くのは安心する。由紀の母校に通うという目標が出来たことで落ち着いた花梨だが、過去の試験問題を見て今度は受験しても落ちると騒ぎ出した。
「無理、こんな難しい問題解けないよ。」
「だいじょうぶ、心配は要らないわよ、花梨。」
「どうしたらいいの。いまから塾に行くの、ママ。」
「行かなくて良いわよ、花梨。」
「行かなくて大丈夫なの。受験まで時間もないよ。」
「家で勉強すればいいから。」
「家で勉強するって言っても、わたし一人では出来ないよ。」
花梨は泣きべそをかいている。花梨は勉強が出来るほうではない。出来るのは運動であって体育であり水泳だ。本人の言い分として、机に前に座って勉強するのは不得意だ。木登りなら得意だと言っていた。そんなものが中学受験にあるはずないだろう。
「受験に落ちたら、ママと同じ学校に行けないよ。」
花梨は泣いて由紀に訴えた。
「心配は要らないわよ。ママが教えてあげるから。」
勧めた以上、予めこうなることが分かっていたのだろう。由紀は参考書を買い揃えて花梨の家庭教師をすることになった。
花梨の父親の転勤が発端となった一連の騒動で俺は独りで考え込んでいた。
花梨の行先は俺と由紀の故郷か。俺は友貴のはずなのになぜか望郷の念が沸く。勇人の影響か。花梨との別れに精神的に不安定になっているのか。
花梨は由紀と颯希が通った私立中学を受験することになった。俺はその学校のことを調べた。最初は花梨に何かアドバイスでも出来ればと思ったからだが、そのうちに由紀の母校を、由紀の歩いた道を知りたいと思うようになった。そして知ったことがある。
由紀が通った私立中学の系列大学は宇宙開発に関わる人材を育てていることで有名だった。卒業生は、宇宙飛行士を目指したり、衛星を打ち上げる技術者や、システムを開発する研究者になったりなど、多彩な分野で活躍している。
「ママに教えて貰うのは嬉しいけど、マンツーマンはちょっと大変だよ、パパ。」
花梨は由紀に家庭教師をしてもらうことになったが、一人では嫌らしい。確かにマンツーマンで授業をされると息が詰まるだろう。当てられるのは花梨一人、答えるのも花梨一人。誰かが当てられて答えている間に考えることもサボることも出来ない。
「だから一緒に勉強して、パパ。」
花梨の笑顔で助けてという願いに、俺も由紀の家で勉強をすることにした。花梨は由紀に甘えながら勉強を教えて貰えるので御機嫌だ。俺にも質問が出来るのでニコニコだ。でも俺達と別れ別れになるのは嫌だと時に泣き出すこともあった。そんな花梨を宥めて受験勉強を進めていった。
解いてみて分かったが、中学受験の問題は、俺にとって簡単だった。
「なんでそんなに出来るの、パパ。」
「なんでって、生きているというか、勉強した時間が花梨より長いからだよな。」
「ずるくない、そんなのって。」
「ずるいと言われてもなあ、時間があったからな。」
「花梨が九九をしているときに方程式を解いていたなんて卑怯じゃないの。」
俺は産まれたときから言葉の理解が出来て計算が出来た。出来なかったのは走ることであり話すことだった。だが、それも出来るようになれば知識を得て見聞を広げることが無限に出来るようになっていた。世界の全てが興味の対象だった。
逆に幼稚園や小学校低学年の遊びをするのは、恥ずかしくて心を無にしなければ難しかった。それより小説や参考書を読むほうが精神的負担は少なかった。
そのことが俺の両親をして出来のよい息子という評価を下す理由にもなっていた。考えてみれば子供らしからぬ可愛げのない子供だったろうな。いまもそうだろうが。
花梨と勉強をしたことで、中学受験には合格出来ると確信が出来た俺は、由紀にある考えを伝えた。花梨がいないときだ。
「俺も受験してもいいかな、由紀。」
「え、ゆうが受験するの。どこの中学を。」
「花梨と同じ中学を。俺も由紀の母校に通うという選択はどうだろうか。」
「どうして、いきなりそんなことを言い出したの、ゆう。」
「そうだな。切っ掛けは花梨だな。俺自身、花梨との別れが辛い。別れたくないっていうのは花梨だけの思いじゃない。俺も同じ思いだからな。」
「そうね、それは由紀も同じよね。出来たら花梨とは別れたくないわ。」
「それとは別にね、花梨が受験する由紀の母校のことを調べたんだ。そうしたら系列の大学が宇宙開発にたくさんの人材を送りこんでいることを知ったんだ。」
「そうね、割と有名なことよね。」
「だろう。俺は勇人のときには先生になりたかった。俺はなれなかったけど、その夢は由紀が叶えてくれた。叶えてくれたって言うのは少しおかしいかも知れないけど、勇人としては由紀が引き継いでくれたんだと純粋に嬉しいよ。その反面、友貴としては勇人の夢と同じ道をたどるのは何か違うような気がするんだ。」
由紀は黙って聞いていてくれる。
「なら何になるのか、と考えたけど、答えは出なかった。いまでもはっきりとは出ていない。ただ母さんや父さんに、勇人から友貴になったことを話したときに思ったんだけど、俺が友貴の器に入ったというのは、何かの意図が働いたんじゃないだろうか。言うなら宇宙の意思みたいなものかな。」
空き家になった友貴の器、そこに俺は呼ばれて入ったんだ。
だれが呼んだのか、本当に呼ばれたのだろうか
神の采配なのか、自然の摂理なのか
「俺に何かをさせようとしたのか。それとも違うのか。分からないけど、俺はそれを探したい気持ちがある。探す場所も分からないけど、あるとしたら宇宙のなかにあるんじゃないかと漠然と思っている。何になるという具体的な職業は決められないけど、俺が求めている、やってみたいと思える仕事がそこにあるような気がしているんだ。」
「でもご両親と離れることになるわよ、ゆう。」
「由紀は故郷に帰りたいと思わないのか。」
由紀が花梨に勉強を教えているときにポツンと言った言葉が俺の耳に残っている。たぶん無意識だろう。花梨は計算に熱中していて聞こえていないようだった。由紀も自分の口から出た言葉に気が付いていなかったのかも知れない。
「故郷かあ。帰ってもいいのかな。」
言葉の響きに切なる思いが籠っているようだった。
由紀にとって今いるここは故郷から逃げて流れついた土地だ。偶然俺と出会うことが出来て、逃げた原因が解消された以上、拘らなくてもいい土地でもある。由紀にこそ望郷の念が強いんじゃないだろうか。
「え、帰るって。勇人と由紀の故郷にってこと。」
「そうだ。」
「え、でも。」
「由紀がここに来たのは、俺が原因だろ。」
「そうね。」
「なら、俺と故郷に帰らないか。」
由紀の顔に動揺が見える。由紀も故郷に帰ることを拒んではいない。俺の言葉に揺れ動かされている。
「でも・・・。」
「由紀にとって、この土地はどんな土地だ。」
「そうね、ゆうと出会えた場所だよ。だから好きな土地だよ。」
「そうか、それは良かった。嫌な土地じゃないのは良かったよ。」
「もちろんだよ。まあ最初は、ゆうに出会うまでは辛かったけどね。でもそれは土地のせいじゃないしね。」
由紀と俺は自然と口づけをする。
「俺もこの土地が好きだよ。花梨に出会えたし由紀に再会も出来た。俺にとっては第二の故郷だよ。だから故郷が俺には二つある。」
「ゆうにとって故郷なら由紀にとっても心の故郷になるよ。」
由紀が笑って言った。
「じゃあ、ひとつの故郷から、もう一つの故郷に旅してみないか、由紀。」
いつ何処へ何を目的に何を求めて人は行動するのか。それはよくわかっていない。だが俺には今、勇人の故郷へ帰ることが、友貴の定めのような気がしてきている。
「俺が勇人だったことを両親に話してから、両親は俺のことを子供扱いしなくなっている。由紀との仲も認めてくれた。」
実際、俺が由紀の家に泊まったりすることを両親は咎めることもない。身分としては子供で勝手は出来ないが、行動は自己責任で自由にさせてくれている。
「だから、二人にはきちんと話をして理解してもらうよ。別れとは違う、自立だと。」
「でも、加奈ちゃんはどうするの。」
「加奈にも言葉を尽くして理解してもらう。」
「大好きなお兄ちゃんと別れることになるのよ。加奈ちゃんが悲しむわ。」
「たしかにな。颯希に味あわせたことと同じことを、俺はすることになるかも知れない。だけど死ぬのとは決定的に違う。」
「矛盾することを言っているのは自分でも分かっているけど、生きてさえいれば何時でも会えるんだからな。」
「もちろん加奈は大切な妹で大好きな大事な妹だよ。だから加奈には納得してもらうまで説明するよ。俺のことを話す必要があるかも知れない。」
「必ずだよ。約束して。加奈ちゃんを悲しませるようなことはしないで。颯希は由紀に気持ちをぶつけることが出来たけど、加奈ちゃんにはぶつける相手もいないんだからね。」
「ありがとう。分かっている。俺にとって加奈は掛け替えのない妹だからな。」
俺の気持ちは固まってきていた。由紀と故郷へ帰ろう。そして友貴としての人生を歩みたい。もう一つの故郷にも度々帰ってこよう。こっちにも家族が居る。俺を可愛がってくれる望月の爺さんも居る。
「両親と加奈に俺の思いを理解してもらう。理解して貰えたら俺と一緒に故郷へ帰ろう、由紀。」
俺の決意を聞いた由紀の顔にはまだ迷いが残っていた。だが期待と喜びの色も見え隠れしていた。
「まあ、帰るとなったら、俺は由紀の家に居候させてもらうことになるだろうけどな。」
由紀の両親に、海外に居る父親も含めて、説明して認めてもらわなければならない。同居になるだろう美紀にも許しをもらう必要がある。
「うん、それはだいじょうぶよ。由紀もお母さん達にお願いするから。それと向こうに行ったら、由紀が養ってあげるね、ゆう。」
由紀がうれしそうに、俺の世話が出来ると声が弾んでいた。
「俺としてはヒモみたいで穴があったら入りたい気分だがな。」
「そんなことないわよ。ゆうは由紀の大事な旦那様なんだから。今は由紀が養ってあげるから、将来旦那様が立派になったら逆に由紀を養ってね。」
「もちろんだよ。いつまでも由紀の世話になるなんて情けないことは出来ないよ。」
「待っているからね。」
笑顔の由紀の口唇が俺の口脣をふさぐ。
両親と加奈に認めて貰えるかどうか次第だが、勇人と由紀の故郷に俺と由紀は帰ることに決めた。
ある夜、俺はリビングに降りていった。加奈はおやすみと言って部屋に戻ったあとだった。時刻は夜の10時頃だったが、まだ両親はテレビを見ながら話をしていた。
「どうしたんだ、友貴。」
自分の部屋に居た俺が降りてきたことに気が付いた父さんが声を掛けてきた。
「ちょっと、父さんと、母さんに話したいことがあってね。」
「そうなの。じゃあこっちに座って。コーヒーでも入れようか。」
「ありがとう、母さん。父さんも飲むのなら入れてくれるかな。」
父さんが頷いたのを確認した母親がコーヒーを用意してくれる。コーヒーを入れる母さんを、俺は何も言わず、じっと見ていた。俺が中学で自立するのなら、現世の両親と過ごす時間もあまり残っていないことになる。俺が纏う少し変わった雰囲気に両親は何かを感じたのかコーヒーが出来上がるまで何も言わなかった。
俺と父さんの前に淹れたての薫りたつコーヒーが置かれた。めずらしく母さんのカップにもコーヒーが入っている。
「めずらしいね。母さんがコーヒーを飲むなんて。」
「そうね。今日は友貴と父さんと一緒にコーヒーを飲むのも悪くないと思ってね。別に嫌いなわけじゃないしね。」
いつも紅茶を飲んでいる母さんは、コーヒーはあまり好きじゃないのだと思っていた。本当は両親のことを俺は詳しく知らないのかも知れない。俺は母さんを見る。
「ねえ、父さんと母さんって何処で知り合ったの。」
「突然ねえ、どうしてそんなことをいきなり聞いてくるのよ。」
母さんが少しびっくりしたように聞いてきた。
「なんでかな。なんか俺は父さんと母さんのことをあまり知らないような気がして、二人の出会いってどんなんだったんだろうとふと思ったんだ。」
「お前と桂木先生みたいなものじゃないよ。そんなドラマを期待しているのなら、がっかりするぞ。」
「がっかりなんかしないよ。でも父さんと母さんの結婚に至る道のりって、なんか興味が沸いて知りたくなったんだよね。」
俺の思いがけない問いかけに両親は対応に困っていたようだった。だが特に変わった出来事があったわけじゃない。父さんが話をしてくれた。
「母さんとは、職場が同じでな。仕事を手伝って貰ったりして、御礼に食事に行ったりしているうちに仲良くなったんだよ。」
両親は職場結婚だった。仕事を一緒にしているうちに仲良くなるという典型的なパターン。だが、それでもお互いがお互いを好いた結果が今現在だろう。
「どっちから告白したの。」
「お前は親にそんな話をさせるのかよ。」
父さんは少し渋っている。
「食事に行った帰りに二人で歩いていたときにね。」
話そうとしない父さんの代わりに母さんが話をし始めてくれた。
「会社の人にばったり会って、付き合っているのかって聞かれてね。」
母さんが少し笑っている。父さんは苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「軽い聞き方だったし、その人は別に冷かしているとかじゃなかったと思うのよね。なのに父さんは不意に、私に向かって、付き合ってください、って言ったのよ。」
「だって、付き合っているのかって聞かれて、付き合っていないと言ったら、母さんに関心がないのかと思われるかも知れないじゃないか。」
「私もびっくりしたけど、お父さんのことが気にはなっていたし、勢いで、はい、って答えたら、父さんが会社の人に胸を張って、付き合っています、って答えたのよ。」
俺はちょっと何それって思った。だけど父さんって不器用なところがあったんだな。子供視点ではちょっとあれだけど、父さんが微笑ましく思えてしまった。
「じゃあ、その人が恋のキューピッドってことになるのかな。」
「まあそういう見方もあるかも知れないわね。」
人生って何がどうなるか分からないもんだな。コーヒーを飲みながらの笑い話になった。
俺たちの笑い声が大きかったのか、寝ていたはずの加奈が二階からリビングに降りてきた。
「みんな、加奈抜きで笑い話をしているなんで酷くない。」
加奈が口を尖らせて文句を言ってきた。母さんが加奈のために紅茶の準備をしてくれた。
「ごめん、ごめん。」
俺は加奈に謝った。
「何の話をしていたの。」
「父さんが母さんへ告白したときの話だよ。」
「なにそれ、加奈も聞きたい。」
「それがさ。」
俺は聞いたばかりの話を加奈に脚色して面白おかしく伝えた。父さんは恥ずかしそうに顔を反らせていたが、加奈は顔を輝かして聞いていた。
「母さんと父さんて、愉快な付き合い始めだったんだね。」
加奈は笑って、両親を穏やかに見つめている。
そんな家族の雰囲気の中で、俺は今なら加奈に話をして良い気がした。
「俺の話も聞いてくれるかな、加奈。」
「なにお兄ちゃん。」
「実は、俺も好きな人がいるんだよ。」
「え、誰が好きなの。ひょっとして花梨さんのこと。」
加奈は花梨とは普通に会話する顔見知りだ。俺と仲が良いことも知っている。特に最近は俺と花梨の登下校が常に一緒なのを目の前にしている。
「そうだな、花梨も好きだな。かわいいしな。だけど俺が言っている好きな人ってのは花梨のことじゃない。」
「じゃあ、誰なの、お兄ちゃん。」
両親は俺と加奈の会話を温かく見守っている。俺は加奈の眼を正面から見つめた。
「俺が好きなのは由紀だ。」
「由紀さん・・・」
加奈には思い当たる人がいないようで思い悩んでいるようだった。
「加奈が知っている人なの。」
「ああ加奈も知っている。」
両親は何も言わない。
「パパとママは知っているの。」
誰のことか分からない加奈は両親に尋ねた。
「知っている。友貴から話を聞いたからな。逢ったこともある。」
父さんは静かに答えてくれた。
「ええパパ、逢ったことがあるんだ。すごいね、お兄ちゃん。彼女さん、だよね、を両親に紹介したなんて。」
俺が彼女を両親に紹介したことを知った、加奈は俺を憧れの眼で見るのだった。
「ああ、由紀を幸せにしたいからな。」
俺の言葉に違和感を覚えたのか、加奈が少し俺を真剣に見ている。
「なんか、もう結婚する前提みたいな話ね。」
「そうだな。遠くない未来に結婚するつもりだ。だから俺はちゃんと自立しないとダメだと思っている。」
俺の言葉に加奈が息を呑んだ。小学生である兄から聞くセリフとは思えないだろう。加奈は両親に眼を向けた。両親はわずかに頷いている。両親が認めていることを理解した加奈は今日一番の驚きの表情をしていた。
「お兄ちゃんが結婚して自立するなんて、まだまだ先のことだと思っていたよ。そこまで由紀さんが好きなんだね。でも、どんな人なんだろう。加奈が知っている人なんだよね。」
悩む加奈に、俺はクリスマスには彼女を紹介することを約束した。だが結局受験のことは話が出来なかった。
花梨が受験をすることを決めたことについて、花梨の両親は大変驚いていた。
「まさか自分から勉強して受験すると言ってくるとは想像もしませんでした。」
家庭教師を買ってでた由紀に対して、挨拶に由紀の家まで来た花梨の母親が由紀に向かって言ったことだ。花梨の母親は花梨を普通に向こうの公立中学に入れようと考えていたそうだ。
「由紀先生、本当にありがとうございます。夏休み以来、お世話になりっぱなしですみません。」
「今回のことも、私どもは主人の栄転と単純に喜んでいました。花梨も喜んでくれると疑ってもいませんでした。」
「子供の頃の自分達に経験がなかったのもので、生まれ育った土地を離れ、友達と別れることが嫌だ、という娘の花梨の気持ちを汲んでやることが出来ていませんでした。」
「それも花梨は由紀先生に話を聞いて貰ってずいぶん落ち着いてくれました。いまは主人の転勤も納得して受け入れてくれています。」
「あと行く先が先生の故郷だというのは偶然ですが、とても助かります。夏休みにお世話になって、結婚式にも呼んで頂いた先生のお姉さまもいらっしゃるということで、花梨はずいぶん元気を取り戻しました。」
「それと先生の母校を受験するという目標が出来て前向きになってくれたのも嬉しいです。」
花梨の母親は、娘の花梨が由紀にべったりなのに対して、特に思うところはないようだ。由紀を信頼しているということ、由紀の先生としての評価だろう。ひょっとすると花梨と由紀の精神的なつながりを理解しているのかも知れない。ともあれ由紀に感謝しているのは間違いない。
「望月くんも、花梨のことをお願いね。」
「ええ、俺に出来ることを頑張らせて頂きます。」
一緒に由紀に勉強を教えて貰っていることになっている俺にも花梨の母親は声を掛けてきた。それにしても俺の返答は小学生ではないな。だが花梨の母親は特に変だと思っていないようだった。
「ところで、受験勉強をしているってことは、望月くんもどこかの中学を受験するのかしら。」
「ええ受験する予定です。ただ、いまのところは花梨には内緒なので、言わないで頂けますでしょうか。」
「ええ、分かったわ。花梨をびっくりさせるのね。頑張ってね。」
花梨の母親の口調からは、俺の受験先が花梨と同じだとは思っていないようだった。同じだと分かったらどういう反応を示すのだろうか。なんかその時が少し楽しみだ。花梨の母親はケーキの箱を置いて帰っていった。俺たちが話しをしている間、花梨は由紀の机で問題集を必死で解いていた。
12月。望月家では、クリスマスは家族揃ってチキンとケーキを食べて祝うという定番のイベントになっている。クリスマスツリーの飾りつけは俺と加奈の役目だ。ツリーを飾ったあとに俺は加奈を誘って買い物に出掛けた。
「お兄ちゃんと出掛けるのは久しぶりだね。」
「そうだな。受験勉強するようになって、余計に家にいないからな。」
夏休みの埋め合わせに加奈と映画に行ったのはずいぶん前のことだ。思えば加奈と過ごすことが少なくなっている。体育祭の準備で忙しかった。由紀と親公認の仲になってからは、由紀の家に入り浸っている。最近は休みの日は一日中花梨と勉強をしている。
「加奈には悪いと思っているよ。だから、今日は妹孝行をするよ。」
俺の言葉を聞いた加奈の反応は何かを感じたのか微妙な感じだった。
「どうしたの。うれしいけど、何かあるの、お兄ちゃん。」
「いや、何もないよ。それより何か欲しいものはあるか、加奈。」
俺は加奈に記念になる物を送るつもりだった。出来たら加奈の気に入ったものか欲しいものを。
「加奈のクリスマスプレゼントはママにお願いしたしね。お兄ちゃんがプレゼントをくれるのなら、お兄ちゃんが選んでくれたものがいいな。」
望月家では、クリスマスプレゼントは枕元に置かれるのではなく、クリスマスパーティーで両親から渡される。事前に希望は聞いてくれるので、よっぽど無茶なものでなければ叶えて貰える。
加奈と買い物に出掛けた俺は、加奈の好みを確認してからマグカップを買った。取っ手がリングになっていて薬指を入れてそのままカップを握るとまるで本物の指輪をつけているかのようになる。幸せな気持ちになれるマグカップだ。
ついでにハートのネックレスも買った。シルバーリングにクリスタルのストーンを乗せたリングが付いている。シルバーのカラーは洗練された印象を与えるが、どこかに温かみを感じる。加奈は俺の行動に面食らっていたが素直にありがとうと言って受け取ってくれた。
加奈と一緒に一度家に帰った俺は、由紀を迎えるために再び独りで家を出た。由紀と合流してから注文していたクリスマスケーキを受け取って家に向かう。
「緊張するわね。」
「ああ俺も緊張しているよ。」
「加奈ちゃんには何も言ってないんでしょ。」
「クリスマスに彼女の由紀を紹介すると言ってあるだけだ。」
「加奈ちゃんは、由紀のことだってわかってないんだよね。」
「そうだな。まさか由紀先生のことだとは思わないさ。」
俺たちは家に到着した。俺が玄関のドアを開ける。決心して由紀を連れてリビングに入る。緊張の瞬間だ。だがリビングには両親しかいなかった。加奈は二階にいるらしい。
テーブルに並ぶ料理が去年とは違う。母さんの意気込みが違うみたいだ。七面鳥の丸焼き・上等のシャンパンとワインなどがところ狭しと並んでいる。持ってきたケーキも一緒に置く。
クリスマスティーもある。紅茶にスパイスと柑橘系フルーツのドライピールを入れたものだ。美味しいだけでなく、体の保温効果や風の予防効果も期待できる実用的な飲み物だ。
使われているスパイスは、東方賢者がキリストの誕生の際にお祝いとして贈った乳香、没薬、黄金の3つの品を象徴するシナモン、クローブ、ナツメグが使われている。
これからが勝負どころだ。間違えれば加奈を泣かせ不幸にする。
「由紀は座って待っていてくれ。俺が加奈を呼んでくる。」
「こっちに座ってね。」
母さんが由紀をリビングのソファ-に案内してくれる。
「加奈、降りて来いよ。クリスマスの御馳走を食べよう。」
俺は加奈を連れて下に降りた。
リビングのソファーに座っていた由紀が立ち上がった。加奈は眼の前にいる由紀を見たが、俺の由紀とは思わなかったようだ。不思議そうな声を上げる。
「由紀先生どうして、うちに居るの。」
だが加奈は自分が言った言葉を自分で聞いて光の速さで理解したようだった。
「まさか、由紀先生が由紀さんなの、お兄ちゃん。」
眼を見開く加奈に俺は肯定する。
「そうだ。由紀先生が、俺の由紀のことだ。」
混乱する加奈は両親を見た。けれども両親が動じていないことを見て、加奈は俺が言ったことは真実だと悟った。しかしそれでも加奈は俺と由紀の仲を信じきれないようだった。加奈が落ち着くまで時間が少し必要だった。
加奈が落ち着いてから、俺は由紀との出会いを前世から順序立てて説明していった。加奈には奇想天外の話としか思えなかったようだ。だが、俺の誕生秘話を母さんが話してくれたことで、全てが結びつく話と理解してくれた。
「兄さんと由紀先生って、本当にロマンチックな星の下に愛を育んだんだね。」
花梨と同じ感想を加奈も持ったようだ。
俺は、由紀との将来、自分の将来の仕事の夢も語り、それに繋がる中学受験のことを両親と加奈に話した。両親と加奈は俺と離れるのは早いと思ったようだが、俺と由紀を見て最終的には祝福し賛成してくれた。
加奈は俺と過ごす時間が短くなることを受け入れてはくれたが、出来る限り加奈との時間も大事にしてほしいと言った。
「ピアノの発表会は絶対に見に来てね、お兄ちゃん。」
「必ず行く。約束するよ。」
発表会は中学の試験日前日だ。それも夕方から開幕だ。時間的な余裕はない。試験には当日飛行機で飛んでいくしかないな。
中学受験まで、あと残すところ10日程になった1月中旬、由紀に言われた。
「お父さんが帰ってくるわ、ゆう。」
由紀の父親が一時帰国するという知らせが美紀から由紀にあった。俺は出来るなら中学を受験する前に、由紀の父親の了解を取り付けたいと思っていた。だが由紀の父親は忙しくなかなか日本に戻ってくることがない。受験前に許しを得ることを半ば諦めかけていたが、天は見放さなかったようだ。実際には由紀の母親が夫を呼び寄せてくれただけだったが。ただ、このときを除いては、中学受験までに由紀の父親に俺と由紀の関係を説明して認めて貰うチャンスはない。花梨の勉強の追い込み段階でもあったが、俺と由紀はとんぼ返りの予定で由紀の実家に向かった。今回は飛行機で移動だ。試験日の予行演習だと思えば気もまぎれる。
「君が友貴くんか。」
「初めまして。望月友貴と申します。」
俺は丁寧に御辞儀をして挨拶をした。由紀の実家のリビングだ。由紀の母親と美紀もいる。もちろん俺の右には由紀が居る。
「うん、わたしが由紀の父親だ、よろしく。」
由紀の父親は穏やかな表情で俺に返事を返してくれた。俺の記憶にある昔の父親に比べると年を取っている。だが貫禄は増したと言えるだろう。責任ある地位につき、沢山の部下を従え、精力的に仕事をこなしている商社マンだ。穏やかな顔つきとは裏腹に鋭い眼光が俺を射抜いている。
「君のことは、妻や美紀から聞いている。由紀からも電話で簡単に話を聞いた。愛する恋人だと。だがそれで君のことを全部理解出来たとは思ってはいない。だから、わたしは君と直接話をして、君のことをもっと知りたいと思ったんだよ。」
由紀の父親は俺と会うことにした理由を説明してくれた。俺にとって正念場だ。ここでの出来次第で俺と由紀の未来も変わってくる。
俺の右手と合わさっている由紀の左手に軽く力が入る。心なしか汗ばんでもいる。緊張しているようだ。うん、俺も緊張しているよ。由紀が友貴の両親に挨拶したときの気持ちが分かる。
だが俺は由紀の父親に対して懐かしいという気持ちがある。本当に久しぶりに逢うんだからな。昔に出会ったことがあるというのは、かなりの大きなアドバンテージだ。
「そうですか、ありがとうございます。わたしも御会いして直接お話をしたいと思っておりました。」
俺は父親と正面から視線を合わして答えた。俺の口調は小学生ではない。成人した大人のセリフだ。そして今日の俺は見た目も大人だ。由紀の父親は俺をどう見て、どう思っているだろうか。
「ふむ。君の年齢は聞いているよ。だがとても聞いている年齢とは思えない物言いだね。」
「ときどき言われます。丁寧にと心掛けると、どうもわたしは子供らしからぬ言葉つかいをするようです。」
「それこそ、その通りだね。」
父親は探るような目つきで俺との会話を続ける。どうもあまり友好的とは言えない雰囲気を作ってしまったようだ。子供らしさを前面に出せば好意は得られるかも知れないが由紀の恋人としては失格だ。こういう時は味方を頼るのが手っ取り早い。
俺はさり気なく美紀に視線を走らせた。美紀はすっと視線を俺と交差させると、父親に向かって言ってくれた。
「お父さん、友くんは緊張しているのよ。ただでさえ恋人の父親に会うのは大変なのに、そんな威圧感のあるオーラが出ていたら余計に萎縮しちゃうわよ。」
美紀の言葉に父親は少し顔を緩めた。
「そんなつもりはないよ、美紀。」
「あなたにそんなつもりはなくても、会社で部下に向かって話をするのと同じ態度じゃないのかしら。」
由紀の母親の援護も入る。やはり持つべき味方は恋人の妹と母親だ。
「いや、本当にそんなつもりはないよ。」
父親は少し劣勢になったようだった。
挨拶も終わったことだし、お昼ごはんを食べながらリラックスして続きをしましょう、と母親が言ってくれたので、昼ごはんを食べながら話をすることになった。
「はい、どうぞ。」
由紀がお茶を汲んで父親に渡す。
「ああ、ありがとう、由紀。」
父親は由紀の顔を見て御礼を言った。
「久しぶりだが、余裕のある落ち着いた顔になっているな、由紀。」
「そんな風に見えるのかしら、お父さん。」
由紀は少し首を傾げて答えた。
「うん、以前の由紀は思い詰めた顔をしていたけど、今はゆったりとした幸せそうな顔をしているよ。」
「そうね。それは自分でも分かるわ。だって、ゆうと出会えたから。」
由紀は自分の変化が俺との出会いによるものだと父親に伝えていた。それで父親の視線が再び俺に向かってきた。
母親が、昼間だけど御祝いだし良いでしょう、と言って片口をテーブルの上に置いた。御祝いということに父親は少し異論があるようだったが言葉には出さなかった。
盃が二つ。これは俺と父親で呑めということだろうな。母親の無言の提案に俺は同意した。俺が父親の盃に酒を注ぎ、注がれた酒を父親が呑む。呑みながら父親が言った。
「わたしは息子が欲しかった。」
由紀と美紀の顔色が変わり場の雰囲気が冷める。その雰囲気を敏感に感じ取った父親は即座に言い直す。
「いや、違う。すまない。そういう意味じゃない。由紀と美紀はわたしの娘、眼に入れても痛くない可愛い娘だ。二人はもちろんわたしにとって居なくてはならない存在だ。だが出来れば息子も欲しかった、という意味だ。」
場の雰囲気が少し緩む。由紀と美紀の顔色も元に戻ってきている。
「だから、由紀や美紀と結婚する相手が、わたしの息子になってくれたら嬉しいと、常々思っていた。」
俺は黙って聞いていた。父親の手が動き、俺の盃に酒が注がれた。俺は盃を持ち上げ、軽く父親の盃と打ち合わしてから、ゆっくりと口を寄せて日本酒を呑んだ。日本酒を呑むのは瑞希姉さんの神前式以来だ。
「むかし、由紀が好きになった男の子、そして由紀を好いてくれた男の子が居た。」
何を考えているのか父親は勇人の話をし始めた。視線は手に持つ盃に向いている。由紀は複雑そうな顔をしている。普通なら昔の恋人の話を自分の父親がしようものなら、即座に止めようとするだろう。だが由紀は何も言わない。
「わたしは彼と親しくして貰っていた。彼が将来もし息子になってくれるのなら、それもいいなと思っていた。」
父親は勇人を評価していてくれたようだ。ありがたい。
「その彼は由紀を命掛けで護ってくれた。感謝している。失われた命に対して、そんな言葉だけでは済まされない話だが、わたしには感謝するしかない。」
父親の口調は少し重いものになっている。
「彼のおかげで由紀は生きている。」
父親が一度言葉を切った。そして顔を上げて言った。
「君は由紀を護ってくれるかな。」
静かな声だった。だが父親は俺を試してきている。昔の恋人の話、昔の恋人が成し遂げたことの話、それを乗り越えて由紀を愛せるか護れるか、父親として確かめたいのだろう。俺の本気度と覚悟を測る、年齢は関係ない。
それに反応して、俺の顔には笑みが浮ぶ。何度も死線を越えたことが俺に自信を与えていた。俺は護れる。そして逆に斬り込む。
「ええ、骨折はしましたが、由紀を護りぬきましたよ。」
父親の顔が疑問に包まれる。由紀は交通事故の話はしていなかったようだ。俺は更に斬り込む。
「息が止まった由紀を、死の運命のくびきから、解き放つことも出来ました。」
俺の言葉が理解できず父親の思考は停止しているようだ。美紀や母親は海水浴場の出来事については話していなかったようだ。俺が話せるように残しておいてくれたのかな。
父親は横に座る母親に眼を向けた。母親は交通事故のことから海水浴場までのことを順番に話をしていった。ただ俺が勇人であることについては触れなかった。母親の説明を聞いて、父親は理解が追い付いたようだ。
「そんなことがあったのか。」
父親の声に驚きの色が乗っている。
「それで由紀は、友貴くんを好きになったのか。」
父親は由紀に確かめている。由紀は父親の確認を肯定する。
「そうよ。ただ、それだけじゃないけどね。」
しばらく考えを静かに巡らせ、落ち着いた父親は俺に向かって言葉を送ってきた。
「友貴くん、失礼した。君はわたしが思う以上に頼もしいようだ。由紀は君のことが好きだと言っている。君も由紀を愛してくれているのだろう。ならば父親として由紀のことを頼みたい。そして出来るのなら俺の息子にもなってくれたら嬉しい。」
父親は俺のことを認め受け入れてくれた。
「失礼いたしました。いささか興奮してしまったようです。言葉が過ぎたことを御詫び申し上げます。そしてこちらこそ宜しくお願い申し上げます。」
俺は斬り返したことを、増長したことを、恋人の父親に対する、自分の父親となる人に対する、態度ではなかったと詫びた。だが由紀を護ることが出来ることは理解して貰えた。
再び父親の手が動き、俺の盃に酒が注がれた。俺は盃を持ち上げ、軽く父親の盃と打ち合わしてから、ゆっくりと口を寄せて日本酒を呑んだ。
「日本酒はお好きですか。」
世間話に移る。
「そうだな。水のような酒が好きだな。いわゆる男酒と言うか強い酒は好みではないな。すっと呑める酒が好きだ。」
さっきとは打って変わって穏やかな会話が進む。だが酒が入った俺の口から秘密が滑り出てしまった。小学生の身体に酒は影響が大きいんだよ。まあ友貴として受け入れられた以上、勇人を秘密にする必要もなかったかも知れないが。
「そう言えば、由紀が産まれたときに、可愛い女の子ですよって言われて、頭が真っ白になってパニックになったって、むかし言ってましたよね。」
「生まれてくる赤ちゃんの性別は聞かないって奥さんと約束していたけど、こっそり先生に聞いてしまったと。そしたらたぶん男の子じゃないかと言われて、その気になっていたと。」
酔った俺は自分が勇人のつもりだったようだ。
「なんでそんなことを知っているんだ、君は。それは彼に、勇人にしか言ったことはないんだが。」
赤い顔をしながらも酔いが一瞬にして冷めた顔をした父親は、口調も元に戻って俺を詰問してきた。だが、それよりも母親が父親を問い詰めた。
「あなた、それは本当のことなの。初耳なのだけど。あなたは赤ちゃんの性別は聞かないという、わたしとの約束を破っていたの。」
「いや、それは。」
父親は古い悪事がばれ、妻に首を絞められている。
俺も酔いが冷めた。やらかしたか。だが隣の由紀は笑っている。
「ああ無理ね、勇人兄ちゃん。お姉ちゃんも美紀も知らなかったことだしね。友くんが勇人兄ちゃんでなきゃ説明できないことよね。」
美紀がばらす。こういうときに美紀が居てくれるのは、ある意味助かる。怒る母親に責められながら父親は美紀から話を聞いて俺の正体を知った。
結局日帰り予定が1泊することになった。父親は俺が勇人だと知って、何度も御礼を言ってきたが、俺としては由紀との仲を認めて貰えただけで十分だった。そして4月からは由紀の実家で自由にしたら良いとも言ってくれた。
ちなみに受験直前で先生がいなくなった花梨からは悲鳴の電話が掛かってきた。由紀は遅くまで受話器を握って花梨を教えていた。
中学の入学試験は1月末の土曜日と日曜日。土曜日は筆記試験で日曜日は面接だった。面接が終わったら飛行機で帰ってこなければならない。だが花梨の出発は余裕を持って試験の前々日、勇人と由紀の故郷に向かって出発した。向こうでは由紀の実家に泊めてもらう。
俺達は新幹線の駅のホームで花梨を見送る。
「ぎゅっとして、パパ。」
心細そうな花梨が俺に頼んでくる。可愛い娘の頼みを俺が断るわけもない。しっかりと抱きしめてやった。
「向こうに行ったら瑞希姉さんと美紀が駅まで迎えにきてくれているから。由紀の家には由紀の母親もいるから、何も心配することはないからな。」
「うん、わかっている。でもパパもママもいない。」
花梨は弱気だ。夏休みに故郷に来たときは独りで大丈夫だと偉そうに言っていたのにな。仕方ない、花梨を元気づけておこう。
「良い子にしていたら、いいことがあるよ、花梨。」
「本当、何があるの、パパ。」
「内緒。向こうでのお楽しみ。」
俺は花梨に少しだけ秘密を漏らす。何のことか分からなくても期待することがあれば元気が出るだろう。花梨はしばらく考えていたが答えは見つからなかったようだ。
「わかった。向こうでの楽しみにしておくね、パパ。」
「気を付けていくのよ、花梨。」
花梨は由紀に抱きしめられて耳元で囁かれている。
「うん、気を付けていってくる、ママ。」
花梨は由紀に抱きついて由紀の成分を補充しているようだった。
花梨は実の両親には元気よく挨拶をして出発していった。
「ちょっと下見に寄って行こうか、花梨。」
ターミナル駅で瑞希姉さんと美紀と合流した花梨は、家に行く前に受験する中学を下見した。由紀の実家では由紀の母親に歓迎され、美紀と一緒のベッドで寝たそうだ。由紀と瓜二つの美紀のおかげで受験前の一日も落ち着いて過ごせたと聞いた。
受験の一日目、土曜日。この日も俺は瑞希姉さんに花梨を受験校まで送ってくれるように頼んでいた。瑞希姉さんは、喜んで送るわよ、と言ってくれた。颯希からは、颯希が案内するから心配しないでね、兄さんも気をつけてきてね、と連絡がきた。
美紀も学校まで付き添ってくれる。由紀の母親は玄関で見送りだ。
「落ち着いてね、花梨。」
「うん、頑張ってくる、おばあちゃん。」
瑞希姉さんの車に乗った花梨は、左右を美紀と颯希に挟まれて受験会場に向かった。
学校の中の案内は颯希がしてくれる。自分の母校のことだ。知らないことはないだろう。美紀は父兄役になる。瑞希姉さんは家庭があるので花梨たちを学校まで送ったあとは自宅に戻った。
「ちょっと時間が早かったか。もうちょっとここに居ようか。」
颯希が美紀に言っている。花梨は理由が分からなかったが、コートを着た美紀と颯希に挟まれてぬくぬくとしていた。花梨は由紀にそっくりの美紀に抱き着いてじゃれていた。美紀も花梨を抱き締めて可愛がっていた。
約束の時間に、中学の正門前で俺は花梨と出会った。
「よう、花梨。調子はどうだ。」
「ええええ、パパ。どうしてここにいるの。」
花梨は俺が居ることに驚愕している。理由を知っている美紀と颯希は笑っている。理解出来ない花梨は美紀と颯希を交互に見ている。花梨に対して俺は一枚の受験票を取り出した。その受験票には俺の名前と写真が貼っている。
それを確認した花梨は涙目で俺をぽこぽこ叩いてきた。ひとしきり叩いて満足した花梨は俺に抱き着いて胸に顔を埋めていた。顔は安堵と喜びに満ちている。
「いいこと、ってこのこと、パパ。」
「そうだよ。良い子にしていたからな、花梨は。」
俺は花梨の髪を撫でる。
受付の時間があるからと颯希に促された花梨は、少し残念そうだったが、後で話を聴かせてよね、と言って俺を解放した。俺は、了解、と言いながら花梨の手を引いて受験に赴いた。颯希と美紀は案内が終わると、頑張ってね、と言って帰っていった。
午前の試験が終わって、昼ごはんを俺は花梨と学食で食べた。これから世話になるだろう学食はメニューも豊富で味も良かった。俺が居ることですっかり元気になっていた花梨は、げっぷが出るほど食べていた。昼からの試験大丈夫かよ。
午後の試験が終わると、帰りは由紀の母親が迎えにきてくれていた。由紀の母親が運転する車で、俺は花梨と一緒に由紀の実家まで戻った。車の中でおばあちゃんに試験の出来を聞かれた花梨は、ばっちりだよ、と胸を張って答えていた。
「昨日は何処に泊まっていたの?」
「家にいたよ。」
「え、じゃあどうやって来たの?」
新幹線では絶対に間に合わない
「飛行機だよ。朝一の飛行機なら間に合うからな。」
空港からは地下鉄で乗り換えなしでターミナル駅まで来られる。俺が今日になって突然現れることが出来たからくりだ。
「ひどい、パパ。」
「花梨に何も教えてくれてなかった。」
「もう絶対パパから離れないから。」
花梨が俺のそばから離れない。俺と風呂に入ると言って抵抗している。笑いながら美紀が花梨と入ってくれた。花梨も美紀となら大人しくなる。美紀の言うことは良くきいてくれる。花梨と二人で風呂に入ったなんて由紀に言ったらどうなるかわからんだろうが。
夜には由紀から電話が掛かってきた。俺に受験の出来を尋ねてくる。花梨が受話器を奪って、由紀に文句を言っている
「ママも知っていたんでしょ。酷い、花梨だけ仲間外れなんて。」
「ごめんね、花梨。でも、いろんな準備をするのに大変だったのよ。うまくいかなかったら、花梨をがっかりさせることになるでしょ。花梨の勉強に支障があっても困るしね。」
「一番には加奈だな。昨日の夕方は加奈のピアノ発表会があって、俺は必ず見に行く約束があった。だから今日来たんだ。」
「そうか、そうだよね。でも、パパはどうするの。パパのパパとかママとか、加奈ちゃんは。」
「ゆうは独り立ち。独り立ちと言ってもママが一緒だけどね。花梨も一緒だよ。」
「え、ママも帰って来るのこっちに。」
「花梨が離れたくないように、ママとパパも花梨と別れたくなかったってこと。ママとパパが一緒って嫌だった、花梨。」
「そんな、嫌なわけ、ないじゃない。うれしいよ。これからも一緒に居られるんだね。」
花梨は泣き声だ。
「中学校ではパパがそばにいるからね。パパが護ってくれるわよ。」
「うん、ありがとう、ママ、パパ。」
俺は由紀と故郷に戻る。由紀は故郷で教師を続ける。俺は由紀と颯希が通った中学に花梨と通う。
誤字脱字、文脈不整合があれば御指摘下さい。次の30話で、小学時代は終わります。その次は中学時代に変わります。




