28.転勤
「離れ離れになっちゃう。」
受話器の向こうから花梨の泣き声が聞こえる。由紀の家でのんびり寛いていたら電話が掛かってきた。たまたま電話を取ったのは俺だった。
両親に由紀との仲を認められて以来、由紀の家に行っても、特に何も言われることはなくなっている。なので時間があれば俺は由紀の家に入り浸っている。そんな土曜日の午後のことだ。
「どうしたんだ。落ち着け、花梨。深呼吸だ。」
突然の花梨の泣き声に俺は驚いた。俺の言葉を聴いた由紀の顔も、何があったの、と言っている。由紀は昼ごはんの洗いものをしている。俺は、まだ分からない、と首をかしげた
「無理、落ち着いてなんかいられないよ、パパ。パパじゃなくて、パパ。だから、花梨のパパが遠くに転勤になるかも知れないって。離れ離れになっちゃう。」
花梨の話は知らない人が聞いたら意味がよく分からないが、俺には分かった。ようするに花梨の父親が遠くに転勤になるかも知れないってことだ。だから遠くに行って俺達と離れ離れになってしまうと言って泣いているんだろう。
俺は花梨に確認する。
「花梨のお父さんが転勤になるのか?」
「そう。遠くに行くから。引っ越さないとダメだって。」
花梨の泣き声が続く。
「うーん、そうか。それは大変だなあ。」
「そうだよ。ねえ、いまからそっちに行ってもいい。」
「分かった。こっちにおいで。ゆっくり話を聞こう。俺が途中まで迎えに行くから、いつもの道を辿ってこいよ。」
俺は支度をして花梨を迎えに由紀の家を出た。由紀には簡単に事情を説明した。由紀は家で留守番だ。万一すれ違ったときに、家に誰もいないと問題だ。花梨の家と由紀の家の間には何通りかの道があるが、いつも通る道は決まっている。その道を俺は辿っていった。
「パパ。」
花梨はいつもの道を泣きながら走ってきた。俺を見つけると俺に抱きついて声を上げて泣き始めた。泣き続ける花梨を、俺は抱きしめてじっとしていた。どのくらい泣いていたのか。声が聞こえなくなったので覗き込むと、花梨は黙って泣いていた。涙が頬を伝っている。再びしっかり抱きしめて髪をゆっくりと撫でる。
「由紀が待っているから家まで行こうか。」
花梨は啜りあげながら頷いた。俺は花梨を抱き抱えたまま由紀の家まで連れて帰った。
「花梨。」
「ママ。」
家に着くと花梨は待ち構えていた由紀に抱きついて、再び声を上げて泣き出した。泣きながら俺と由紀に話をする。
今日ね。花梨のパパがお昼で帰ってきたの。帰ってきたパパは、ちょっと興奮しながらママと花梨に大事な話があるって言ったの。何の話かなと思って聞いていたの。お昼ごはんを食べながら聞いた話はね、花梨のパパが遠くの支店の店長になるかも知れないって話。ママは栄転ね、と言ってパパと話をして喜んでいたわ。でもわたしは嬉しくなかった。そんな遠くに行くのなら、引っ越さないとダメでしょ。パパもママも、中学からは花梨も別の土地で心機一転頑張りましょうって。簡単に言っていたけど、花梨にはそんな簡単に済むことじゃない。仲のいい友達とも別れないとダメだし、何より大好きなパパとママとも離れ離れになっちゃう。
花梨は泣きながら話をしていたので、こんなに要領よく話が出来たわけじゃない。だけど纏めるとそういうことだった。
花梨は泣きながら俺と由紀に離れたくないと訴えていた。いくら小学6年生でも、別れはキツイ。むしろ6年生だからキツイか。突然言われて、はいそうですか、とはいかないだろう。
俺も花梨と別れるのは辛い。花梨とは6年間の記憶がある。特に最近の記憶は充実している。いつかは別れが来るとは分かっていても、目の前にその日が突きつけられると動揺する。花梨が愛しくなっているから。
由紀は誰よりも身に染みて理解しているだろう。別れの辛さを。ソファに座って膝の上に花梨を抱っこしている。花梨は由紀の胸に顔を埋めている。
「別れたくない。花梨はパパとママと一緒にいる。」
「ママも花梨と一緒に居たいな。」
由紀は花梨をゆっくり軽く揺り動かしながら花梨をあやしている。花梨は幼子のように駄々を捏ねている。花梨と由紀の繋がりはかなり強くなっている。
一期一会。明日も今日と同じことが当然のことのように来るわけじゃない。明日があることが約束されているわけじゃない。今日が最期。これが最期。人は常に人生の分水嶺に立っているんだ。理解していないだけで。
ついさっき言葉を交わした人が、1時間もしないうちに言葉を話さない骸になる。世の中は無情だ。だからこそ今この瞬間が大事なんだ。そのことを俺は嫌というほど分かっている。由紀も分かっている。だから俺たちは今を大事に生きる。
それでも辛いものは辛い。死別じゃなくても、別れは別れだ。それが今生の別れにならない保証はどこにもない。また簡単に会えなくなるということに変わりはない。
由紀は泣き続ける花梨を抱きしめて背中をさすっている。何も言わない。言っても心には届かないし響かない。そばに居る。ただそばに居て寄り添うことを態度で示すのが救いになる。血涙の砂漠を越えてきた由紀にこそ分かることだ。
俺は俺に出来ることをする。黙って花梨のためにココアを用意する。季節は秋になって暖かい飲み物が美味しい時期にもなってきている。由紀の胸でひとしきり泣いた花梨は、漂い始めたココアの香りに顔を上げた。
「ココア飲む?花梨。」
由紀のやさしい笑顔に引き込まれた花梨はコックリと頷いた。眼には涙が残っているが、泣きやんでいる。
俺は、ココアを入れたマグカップを花梨に手渡す。マグカップは花梨専用だ。由紀と一緒に自分専用にと買ってきて、由紀の家においてあるものだ。花梨の好きなキャラクターものだ。
マグカップだけじゃない、他にもバスタオルやいろいろなものが花梨専用のものとして由紀の家にはある。いつの間にか花梨は由紀に買い揃えてもらっている。花梨は由紀の家に溶け込んできている。
由紀に抱っこされたまま花梨はココアを飲んでいる。がんぜない子供のような顔をして一心に飲んでいる。
ココアを飲んで、すこし落ち着いたような花梨に俺は聞いた。
「いつ転勤になるんだ?」
「来年の4月からだって。」
小学校卒業後、中学になるときからか。俺は花梨と別の中学になるのか。俺の胸に寂寥感が広がる。別れたくないな。俺自身が精神的に幼いのか。花梨のことをとやかく言うことが出来ないな。
俺は自分の人生をどうするのがいいだろう。以前にも悩んだし今も考え続けてもいる。いまだに結論は出ていないが。勇人の夢だった教師になるというのは、友貴となった俺にはいまひとつしっくりこなくなっている。将来の仕事を中学時代から明確に決める必要はないだろうが、ひとつの方向性を出すのは必要だろう。
「ところで、遠くに行くと言っていたが、何処にいくんだ?」
「知らない。パパから聞いたような気もするけど覚えていない。お別れになるって思ったら何も分からなくなってた。ママとパパに何か言われたと思うけど飛び出してきた。」
「そうか。」
俺は由紀の隣に座って横から花梨の髪をなでる。
「ショックだったのね、花梨。」
由紀は花梨を抱き寄せて頬ずりをしている。花梨は由紀のなすがままになっている。
花梨は行き先を知らないと言っている。引っ越しが必要だと言われたのだから、それなりに離れた土地なんだろう。だが容易に会える距離なのかどうかは知りたいところだ。
「今日はうちに泊まる?花梨。」
由紀が顔をのぞき込みながら花梨に問う。俺と由紀に挟まれて花梨は安心した顔をしている。
「うん、泊まる。パパも居てね。」
「そうね、パパはずっと居るわよ。」
花梨の一言で俺のお泊まりが決定する。由紀が既成事実化する。当事者の意思は関係ない。
由紀に抱きしめられ、ココアを飲んだ花梨はすこし元気を取り戻した。もう泣いてはいない。
「じゃあ、晩ごはんの買い物に行こうか、花梨。」
由紀が花梨に声を掛ける。
「何が食べたい?」
「グラタンがいい、ママ。」
由紀と花梨の三人で晩ごはんの買い物に出かけた。近くのスーパーで花梨は由紀とはしゃぎながら買い物をしていた。似たもの母娘は特にお菓子売り場で盛り上がっていた。その結果、とうてい一食分とは思えない大量の荷物を持つのは当然俺だ。
家に帰ると、母娘料理教室が開かれた。花梨はかなり活気を取り戻してきている。由紀は落ち込んだ花梨をうまく支えている。経験のなせる技だな。俺にはまだまだ無理だ。
「パパはお皿をだして、コップも並べるの。」
花梨が俺に指示を出してくる。
「了解、花梨。」
娘の指示に従って、俺は素直に食器を並べていく。俺と由紀は夫婦揃いを使っている。美紀が買ってくれたのとは別だ。あれは由紀の実家に置いてある。ここにあるのは最近になって新しく購入した。陶器で銀彩が映える蒼と朱の組だ。箸は塗りで金箔があしらわれている。
「パパとママの食器って、揃いできれいだよね。」
花梨がうらやましそうに見ている。
「そうだろ。気に入っているんだよ。花梨も陶器で揃えるか。デパートとかに行かないと売ってないから、また時間があるときに買いにいくか。」
「うん。買いに行く。わたしもパパとママと揃いがいい。」
俺が花梨に声を掛けると、花梨は二つ返事で欲しいと返事をした。デパートじゃなくて産地に行けば、もっと多彩な器が揃えられるが今すぐには難しいだろう。
だが俺はすこし考えてしまった。買い揃えて、花梨との別れが来たときはどうするんだ。それも左程遠くない将来だ。それまでに答えを見つけることが出来るのか。花梨との別れを俺は受け入れることが出来るだろうか。
夕食後の洗いものは俺の仕事だ。俺が後片付けをしている間に、花梨と由紀はお風呂にはいった。風呂場から二人の笑い声が聞こえてくる。良かったな。笑い声が上がるくらいになった花梨に、俺はほっとした。俺は洗いものが終わったあとで一人でゆっくり風呂につかった。
風呂から上がったら、由紀と花梨はドライヤーでお互いの髪を乾かしあっていた。
「ママの髪って綺麗だよね。」
「ありがとう。毎日手入れしているからね。ゆうも気に入ってくれているのよ。」
由紀が俺に話を振ってくる。
「そうだな。由紀は髪も綺麗だよな。」
「ママが綺麗で良かったね、パパ。でも、わたしもちゃんと手入れしないといけないなあ。」
「花梨の髪も綺麗よ。」
「ありがとう、ママ。」
ヘアオイルを振ってドライすると、香りがその場の支配者になった。
お風呂のあとは3人でリビングでテレビを見ていた。花梨は由紀の膝の上に座っている。時間はあっという間に夜の11時を回った。部屋の温度は少し下がって肌寒いくらいになってきていた。
「そろそろ寝る時間よ、花梨。」
由紀に言われた花梨は、すなおに洗面に向かう。歯磨きが終わって、寝る準備が出来た花梨は、俺と由紀を引っ張る。
「寝ようよ、パパ、ママ。」
「それじゃ寝ましょうか、花梨。」
「分かった、寝よう。」
由紀と俺に挟まれ、由紀に抱きついて抱きしめられて花梨は眠る。由紀の実家での夏休みの出来事の再現だ。
次の日曜日、由紀の家で俺たち三人は一日ゴロゴロしていた。由紀と俺と過ごした時間が元気な花梨を復活させていた。夕方、花梨を家まで送って行ったのは俺だ。俺は花梨を家に送ったあと自分の家に帰った。
次の日、花梨から聞いて判明したことがある。
花梨一家が引っ越す先は、勇人と由紀の故郷だった。
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