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真っ赤な顔をしてふるふると震える妻を捕まえるように横抱きにしたイヴァンは、さっそくベッドの方へ……ではなく、ワインと軽食が準備されていたテーブル席へと運んでいった。
イヴァンの腕の中で緊張から固まるノラだったが、椅子に優しく丁寧に下ろされたことで、彼女はキョトンと目を丸くした。
「そんなすぐに取って食おうなんて思ってない」
イヴァンは愉快そうに笑いながら、ノラの対面席に腰を下ろす。
「まずは酒でも飲んで、リラックスしよう」
イヴァンはそう言って、赤ワインボトルを手に取ると、二つのワイングラスへと注ぐ。
つまりイヴァンは、ノラとの時間をゆっくり楽しみたいようだ。
ノラはすぐに頭の中で切り替えて、初夜という危機を乗り切る活路を見出した。
「いいお考えですね。では、お酒のお供にチェスでもいかがですか?」
予め確認していた、ガラス棚の中に仕舞われていたチェスボードを指差しながら、ノラは言う。
イヴァンは「もちろん」と頷いて、席を立つとそのガラス棚の方へと向かった。
ノラはそんなイヴァンの姿を横目で追い、彼がこちらに背を向けたタイミングを見計らって、彼女が懐に隠し持っていた物を取り出す。
それは、小さな紙に包まれた粉薬だった。
(これは猛獣すらも一瞬で眠らせるほどの強力な睡眠薬……イヴァン・アルノルフォ。どうやら貴方とはチェスを楽しむ機会はないようね)
心の中でイヴァンに悪態をつきながら、ワイングラスのひとつにサラサラと粉薬を入れていく。
これはエレンが万一のためにとノラに持たせていた無味無臭の薬だ。その出所はノラにも知らされていない。エレンが独自に築き上げた裏社会との繋がりを通して手に入れたものだ。つまり、違法薬。
粉薬が真っ赤なワインの中に溶けていく様を見つめながら、ノラはこっそりと黒い笑顔を浮かべる。
「君はチェスも出来るんだな」
チェスボードを持って、イヴァンが席に戻ってきた。
「……はい。嗜む程度の実力ですが」
ノラはユリアナらしく穏やかな笑顔を浮かべて微笑むと、薬が入っていない方のワイングラスを手に取った。
「まずは乾杯しませんか?」
「そうだな」
ノラはイヴァンにグラスを持つよう促す。そして、互いのグラスを軽く当てると、それぞれ自身の口元へと運ぶ。
ノラはワインを飲むふりをしながら、イヴァンの喉仏が上下に動く様子をしっかり確認した。
(……飲んだ!)
これでもう、イヴァンはすぐに意識を保てなくなるだろう。
「さて、ではゲームを始めようか。先攻は君に譲るよ」
薬を盛られているなんて知る由もないイヴァンは、楽しそうに笑いながらノラにそう言ったのだった。
「——チェックメイト。俺の勝ちだ」
イヴァンがノラの駒である白いキングを手に取りながら言った。その顔は、酒が入り少し赤らんでいる。
ノラは無言でチェス盤の上を凝視していた。
(…………おかしい)
「ユリアナ?」
イヴァンに呼ばれ、ハッとして顔を上げる。
「少し疲れたか?」
心配そうにこちらを見つめるイヴァンに、ノラは取り繕うように笑みを浮かべて、可愛らしくいじけてみせた。
「もう、イヴァン様。そんなにお強いのなら、少しは手加減してください」
顔に穏やかな笑顔を貼り付けてはいるが、ノラの心の中は大荒れだった。
(確かに睡眠薬を盛ったのに……どうして意識を失わないの?)
入れた量が少なかった? いいや、そんな事はない。この薬の確かな効果は、これまでの男達で実証済みだ。
それなのに、一向に眠る気配のないイヴァンに、ノラは焦っていた。だって、彼が眠ってくれないと、ノラの身を彼に捧げなくてはならなくなるじゃないか。
イヴァンがグラスに残った赤ワインを一気に煽る。その一杯でボトル一本分を飲み干したということ。それなのにイヴァンは酩酊どころか、酔った様子もない。
(薬が効かないにしろ、せめて酔ってくれたら……‼︎)
ノラは悔しさから歯軋りしたい気持ちを抑えて、この後の自分の立ち回りについて必死に考えていた。
(ボトル一本では酔わせられなかっただけ……そう考えよう)
このままゲームを続けて、イヴァンにワインボトルの二本目を開けさせる。二本目でも酔わなければ三本目……それを続けていけば、いくらイヴァンでもいつかは泥酔する筈だ。
ノラは思考し終えると、イヴァンを真っ直ぐに見つめて言った。
「イヴァン様とのゲームはとても楽しいです。もう一ゲームしませんか? あら、ワインもありませんので、メイドにボトルをもう一本持ってこさせましょう」
そして席から立ち上がると、メイドを呼ぼうと部屋の出入り口の扉へと向かう。
ノラが扉を開けるためにドアノブを掴んだ時、急に後ろから大きな手が出てきて彼女の手の上に重なった。
「いや、酒はもういい」
ノラが驚く間もなく、耳元のすぐ後ろの方で低く掠れた甘い声が聞こえてくる。
彼女が気付いた頃にはもう遅かった。ノラの体は、すでにイヴァンの大きな身体で覆われるように扉との間に閉じ込められていたから。
「そろそろ……俺は、君に触れたいんだが」
動けずにいたノラは、イヴァンの手により後ろを振り向かせられる。すると、すぐに彼の金色の瞳と目が合った。
その瞳には、これまで見てきた恋に溺れる熱ではなく、ノラに対する明らかな情欲が見てとれる。
ノラの心臓が痛いくらいにドクドクと鼓動を打った。
「い、イヴァン様……私……」
ノラが言いかけても、イヴァンは聞き返すことなく彼女の細い身体を抱き上げる。
そして、今度こそベッドへと向かった。
「ユリアナ……」
優しい手つきでベッドの上に寝かせられたノラ。
青褪めていく彼女には気付かない様子で、イヴァンもまたベッドの上に膝立ちになると、自身のバスローブの紐を緩めていった。




