2-1
ノラがアルノルフォ公爵家へ向かった数時間後、ケリス伯爵家に帰還したエレンを待っていたのは、皇宮からの書簡を握りしめて複雑そうな表情を浮かべるケリス伯爵の姿だった。
「とんでもないことになりました……」
ケリス伯爵は気まずそうに目を伏せて、「こちらを……」とまだインクの香りが漂う書簡をエレンに献上する。
エレンは眉を顰めつつもその書簡を受け取ると、ゆっくりとその内容に視線を落とす。なぜか、言葉では言い表せない焦りと不安感が、じわじわと彼の心に広がっていった。
「…………は?」
それは、皇帝の認可印が押された婚姻許可証だった。
公爵家当主イヴァン・アルノルフォと、伯爵家の令嬢ユリアナ・ケリスの名がしっかりと記載されているではないか。
エレンは思わず固まってしまい、その婚姻許可証に穴でも開いてしまいそうなほどに凝視する。
理解が追い付かなかった。だって、恋人関係になったのもつい最近のことで、そもそも貴族の婚姻がこんなにも迅速にまとめられるはずがないのだ。
このスピード感は、どう考えてもおかしかった。エレンは、どこかノラに仕掛けられた罠のように感じてしまった。
(ノラ。イヴァン・アルノルフォは恋に溺れる愚かな男……本当に、それだけの男なのか?)
エレンの心配と疑念をよそに、その晩、ノラはケリス伯爵邸に帰ってくることはなかった……
◆
ノラとイヴァンの結婚式が行われた夜……つまり、初夜。ノラは、公爵家メイド達の手により、風呂に入れられ、香油で身体中を整えられて、薄く化粧を施され、色気たっぷりのレース・ランジェリーに着替えさせられた状態で、イヴァンの寝室に押し込まれていた。
「………………」
青い顔でベッドに腰掛けるノラは、焦りからなのかソワソワとした様子で全く落ち着きがない。
なぜ自分は今、こんな格好で標的者の寝室にいるのだろうか。その疑問の答えは、二人が婚姻したから、なのだが……ノラが知りたいのはそこではない。
(私の身に、一体何が起きたのか訳が分からない……突然、どうしてこんな事になったの?)
イヴァンを飼い慣らしてやろうと、わざと彼を焦らして恋人になったまでは良かった。それは作戦通りだったから。でも……
(恋人まではいいとして、さすがに夫婦は……)
イヴァンと誓いのキスをした時、ノラは確かに彼から情報を盗んで祖国に持ち帰ってやると自身に誓った。
しかし、そう意気込んだのも束の間、改めて今のこの自分の状況に結婚してしまったという実感が湧き起こる。
ノラの頭の中は次第に、ターゲットと婚姻するのは危ない橋を渡る行為なのではないかという考えで埋め尽くされていった。
この公爵家にはエレンも潜入出来ない。孤立無援の状況であり、これからは頼る人もおらずノラ一人で乗り越えるしかない。途端に彼女は弱気になっていく。
(に……逃げたい……)
もう、何もかもを放り出して、この場から逃げ出したい。
今から公爵家を抜け出し、真っ直ぐにケリス邸へ向かって、そこで待機しているエレンと合流する。それさえ出来れば、その後は二人の力を合わせて、例え帝国の国境を封鎖されたとしても、なんとか帝国から脱出できるのではないか……そんな都合の良い考えがノラの頭の中を埋め尽くしていく。
コンコン。
ふいに鳴った扉のノック音に、ノラはすぐさま思考するのを止め、怯えた表情で顔を上げた。
ついにあの男が来てしまった……
(イヴァン・アルノルフォだ……‼︎)
ノラはぐるりと部屋の中を見渡して、洗面所の扉前に掛けてあるガウンがふと目に入る。
彼女は飛び付くようにそのガウンの元へ駆けていった。この下着としての役割をまるで果たしていない透けたランジェリーを隠すように、大慌てでガウンを羽織った。
「ユリアナ、待たせたな」
それと同時に、イヴァンが部屋に入ってくる。
「いい子で待っていたか?」
どこか機嫌が良さそうなイヴァンに、ノラは思わず睨み付けるような視線を送った。しかし、ノラはイヴァンの姿を見た瞬間、目を丸くして固まってしまう。
美の男神……ノラは真っ白な頭でそんな事を思ってしまった。
彼の鍛え上げられた肢体を真っ白なバスローブが包んでいて、はだけた襟元からは、厚い胸板が覗いている。長い手足は滑らかな肌の下に筋肉が浮き出ていて、一目見ただけでイヴァンの抜群のプロポーションを悟る。
ゴクリ……ノラは無意識に喉を鳴らして唾を飲み込んでいた。
イヴァンはすぐにノラの姿を見つけると、ゆっくりと近付いていった。
するとノラも思わず後退してしまい……彼女の背に壁が立ちはだかり、二人の距離が縮まっていくしかない間、ノラはまるで今の自分は皿の上に乗せられたステーキみたいだなと思い自嘲する笑みを小さく浮かべた。
ナイフとフォークで切り分けられて、口の中へと運ばれる運命をじっと皿の上で待つしかないような……そんな気分になった。
「ユリアナ……俺の可愛い奥さん」
ついにノラの目の前に立ったイヴァンの大きな手が伸ばされて、そっと彼女の頬に触れる。その瞬間、ノラの体はびくりと小さく跳ねた。
彼女のその様子を見て、イヴァンは可笑しそうに笑う。
「緊張してる?」
そして、ゆっくりと腰を屈めてノラの顔を覗き込む。その表情は誘惑的で、目が合ったノラは真っ赤な顔で狼狽えていた。
普段はしっかりとセットされている彼の黒髪も、風呂上がりの今では僅かな湿気を含んで彼の目元に影を落としている。
その姿は、もう……冷酷な軍神ではなく、惑わす美の男神のよう。
(色気の……破壊力がありすぎる‼︎)
イヴァンの手によって上を向かせられたノラは、彼の甘ったるい笑顔を見つめながら、声にならない叫びを心の中で力いっぱいに叫んだのだった。




