9-2
ルシオが真剣な表情で敬礼した瞬間……
スタッ。真上から何かが降ってきた。
「お待たせ!」
ノラだった。少し乱れた花嫁衣装を整えながら、ノラはにっこりとイヴァンに笑いかける。
司教は思わず上を見上げた。
(この花嫁、今……上から……?)
「ヴィンセントさんの運転で、ウェディングカーに乗ってここに向かっていたんだけど……途中で、ひったくり事件を見かけちゃって。犯人捕まえていたら、予定より遅れちゃった……」
ノラは事情を説明しながら、申し訳なさそうにイヴァンを見上げる。
「もう自動車だと間に合わないし、急いで屋根を伝って近道して来たんだけど……ごめんね、待った?」
すると、イヴァンは上げていた腕を下ろして、甘い表情で笑った。
ノラに手を伸ばして、妻の頭のレースを整えて、ティアラの位置を正してやる。
「いいや。時間ぴったりだ」
最後に、ノラの頬にかかった髪を耳に掛けてやった。
どうやら、作戦は中止らしい。ルシオは再び姿を消したのだった。
イヴァンはノラに腕を差し出すと、ノラは自然にイヴァンの腕に手を絡める。
イヴァンは司教へと向き直った。
「司教。始めてくれ」
「え⁉︎ あ、はい、かしこまりました」
ずっと訝しげに上を見上げていた司教は、イヴァンに話しかけられて慌てて自身の役目に戻る。
少し、ざわつく一幕もあったが、ノラとイヴァンの二度目の結婚式は無事に開始された。
「——生涯の愛を誓いますか?」
ノラはそう司教に尋ねられた時、ふと、イヴァンとの一回目の結婚式の時のことを思い出していた。
あの時のノラは、まだ帝国やイヴァンのことを憎んでいて、偽装結婚だと心に誓って、そして敗北感でいっぱいだった。
(たくさんのことが変わったな……)
今のノラは、心からイヴァンを愛していて、帝国の人達のことが大切だ。
だから、自信を持って答えられる。
「はい、誓います!」
ノラは幸せそうに笑って、隣のイヴァンを見上げた。イヴァンも嬉しそうに笑っている。
「では、新郎新婦は誓いのキスを」
ノラとイヴァンはゆっくりと互いに向き合った。イヴァンの大きな手がそっとノラの頬に触れて、彼の顔が近付いてくる。
ノラはイヴァンと出会って、大変なことや苦労すること、傷付いたこともあったけれど、今、こうして愛し合えていることが幸せだ。
(ふふ、恋に溺れた愚か者は……一体どちらでしょうね?)
ノラはスミレ色の瞳を細めて、まるで誘惑するような笑みを浮かべてイヴァンに囁いた。
「……ねぇ。私のこと、いつから好きなの?」
するとイヴァンは動きを止めて、小声で答える。
「多分……初めからかな」
「多分?」
イヴァンの曖昧な答えに、ノラはユリアナとして出会った時のことだろうかと考えていると、イヴァンがノラの額に軽くキスをした。
「君が考えている時よりも、ずっと前だよ」
唇を離すと、イヴァンは幸せそうに笑った。
「君だけが、ずっと俺の心に住み着いていたんだ」
父の遺言に従い、母と再会した日のことを思い出す。
『——そう、あの人、死んだの……』
その時イヴァンは、初めて母の涙を見た。
『私達はただの政略結婚だったのに……馬鹿な人。私なんて見捨てて、新たな人生を歩めばいいのに……全ての罪を背負う選択をするなんて……』
当時のイヴァンも母と同じことを思ったが、今なら父の気持ちが分かる。理屈じゃないのだ、愛とは……
母との再会の帰り道に出会った、スミレ色の瞳をした小さな少女から花を買った。理由はないけれど、ただなんとなく。
『買ってくれてありがとう、お兄ちゃん!』
少女はそう言って笑って、イヴァンの母を『お母さん』と呼びながら走り去っていった。
(なんで俺、花を買ったんだろう……)
不思議なもので、帝国に帰国してからもイヴァンの頭の中から花売り少女の姿が消えない。
恋をしたのかと言われたら、そうではないし、じゃあ気になるのかと言われても違う。ただ、忘れられず、ずっとイヴァンの頭の中に少女の姿がこびり付いている。
だから時間があれば彼女の絵を描き続けた。いつか飽きるだろうと描き続けること十五年。
しかし、いつまでも消えてくれない思い出に、イヴァンはもう、これは呪いの類かもしれないと思っていた。
『はじめまして。ケリス伯爵家の娘ユリアナ・ケリスです』
彼女が再び、イヴァンの前に現れる時までは。
(『花売りの少女』が再び目の前に現れた時、俺は運命だと思った)
イヴァンはユリアナとして現れたノラの姿を、思い返していた。
(その瞬間、俺の執着と思い出は、全て愛に変わったんだ)
そう。恋を知らなかった冷徹総司令官は、生まれて初めて恋に落ちたのだ。
「俺の可愛い、『花売り少女』さん」
「え?」
イヴァンは金色の瞳に、愛おしい妻を映しながら笑う。
「もう一生離さないし、君がまたどこへ逃げようと、俺が必ず迎えに行くよ」
イヴァンはノラに、自分の最大の愛を伝えて、そして、皆に祝福されながら誓いのキスをした。
公爵家に嫁いだ愛され奥様は、今日も溺愛夫の愛に囲い込まれて逃げられません。
完




