8-6
エレンとバスティアンの、諸々の話し合いが終わったところで、バスティアンは最後にノラを見た。
「公爵夫人」
呼ばれたノラは、バスティアンに顔を向ける。
「いや……ノラさん。君には今後、私の下で働いてもらいたい」
ノラは目を丸くした。すると、バスティアンの笑顔が悪どいものへと変化していく。
「君のその高い能力は、ただの公爵夫人で終わらせるには実に惜しい……今後は、ヴァルキリアス帝国のためにその能力を発揮してもらえないだろうか?」
「て、帝国のため……?」
まさかバスティアンに能力を買われるとは思わず、ノラは驚いて少しだけ身を引いた。
「そうだ。これまで通り、君はアルノルフォ公爵夫人として、しかしその実、凄腕スパイとして。私と共に、帝国に住み着いた害虫達の駆除作業に勤しもうじゃないか」
機嫌が良さそうなバスティアンは、愉快そうに笑った。ノラも愛想笑いを浮かべたが、それは引き攣っていた。
ノラの隣では、イヴァンが不満そうにバスティアンを見ていた。
「アルノルフォ公爵、なんだその目は。これは私が貴方に協力する条件だったはずだが。夫人を私の部下として引き抜きたいと提案することは認める……そういう話だったはずだ。忘れたとは言わせないぞ」
イヴァンはすぐにノラに向き直ると、「嫌なら遠慮なく言っていいんだ。それでもしバスティアンが何かしてきたら、俺がどうにかしてやる」と、真剣な顔で言った。
「どうにかって……?」
ノラがおそるおそる尋ねると、イヴァンは不敵な笑みを浮かべて、自身の腰にぶら下がっている剣の柄に軽く触れた。ノラはそれを見ないふりした。
「……バスティアン様。やるかどうかは私が決めていいんですよね?」
「もちろんだ」
ノラはニコッと笑って、すぐに答える。
「やります! 害虫駆除!」
するとイヴァンが悲しそうな顔を浮かべて、反対にバスティアンは嬉しそうな顔を浮かべた。
「俺は君に、公爵家で何不自由なく過ごしていてほしい……」
イヴァンはノラがバスティアンの元で働くのは嫌なようだ。しかし、ノラの意思は固かった。
「私はこれまで、王国の諜報員として帝国の情報を王国に流してきた。だから、せめてこれからは帝国のために働いて、これまでのことの免罪符にしたいと思ってるの」
ノラはそこで言葉を区切って、照れ臭そうに微笑んだ。
「胸を張って、イヴァンの奥さんでいたいから!」
ノラが心からの笑顔を浮かべると、イヴァンは驚いた様子で少し目を丸くする。
「君はずるいな。そう言われると、俺はもう何も言えないよ」
そして、甘い笑みを浮かべた。
「……本当の君に会えて、俺は幸せだ」
呟くようにそう言ったイヴァンの声はとても優しくて、ノラは心をくすぐられている気分になった。
「イヴァン・アルノルフォ」
ずっとノラの様子を見守っていたエレンが、改めてイヴァンを呼ぶ。
「ノラは、俺がこれまで命がけで守ってきた大切な妹なんだ……」
エレンは兄としてイヴァンに伝えるべき言葉は分かっているのに、なぜか言葉に詰まった。
「…………」
エレンの目の前では、ノラがイヴァンの隣で笑っている。安心したような、屈託のない心からの笑顔を浮かべているノラを見るのは、いつぶりだろうか?
『エレン、おかえり。お使いをありがとう』
『お兄ちゃん、今日の晩ご飯は何?』
(そうだ……母さんがまだ生きていた頃だ)
あの頃は三人でよく笑っていた。生活は貧しくても、温かくて、本当に幸せだったから……
(……ノラ。今、幸せなんだな)
エレンは少しだけ目に涙を浮かべて、イヴァンに改めて深く頭を下げる。
「妹を、どうかよろしくお願いします」
その拍子に、エレンの瞳からひと粒の涙がこぼれ落ちる。けれど、その涙は誰にも気付かれることなく、消えていった。
「絶対に幸せにしてやってください」
兄としての心からの願いを受けて、イヴァンはエレンの肩に手を乗せて、頭を上げさせた。
「俺の、これからの全ての人生を賭けて、約束します」
イヴァンの瞳は真剣だった。
「だからどうか、ノラをください。エレン・ヘブリス王陛下」
エレンは少し赤くなった目元で、イヴァンを見つめると、いつもの調子の無愛想な表情を浮かべた。
「もしノラを不幸にしたら、俺が直々にお前の首を取りに行くからな」
するとイヴァンも、愉快そうに目を細めて薄く笑いながら、言葉を返すのだった。
「そんな未来は起こるはずもないから、無駄な心配はやめろ」




