8-3
ノラがイヴァンとともに船を降りると、先に降りていたエレンが立ち止まり、夜空を見上げていた。
「エレン」
ノラが呼ぶと、エレンはすぐに振り返る。
「……行くか」
そのエレンの表情は、とても寂しそうで……
ノラはすぐさまエレンの元へ駆け寄ると、兄の手をぎゅっと握った。
「エレン。行きたくないなら、行かなくていいよ」
「え?」
ノラはさらに強く握りしめて、言葉を続ける。
「エレンが王子として行かなくても、戦争は……きっとイヴァンとバスティアン様がなんとか後始末を付けるはずよ!」
エレンは静かにノラを見つめていた。
「エレン、本当は……王子に戻りたくないんでしょう?」
ノラにはエレンの表情なんて、全てお見通しだ。
「だったら、エレンが犠牲になる必要なんてない!」
追いついたイヴァンが、少し眉を顰めていた。
「グランディエ公爵の簒奪とか、帝国軍との戦争とか、エレンが王子として前に立てば全てが丸く収まるんでしょうけど……でも私は、国なんかよりも、エレンの方が大事なの! だから……」
「ノラ」
目元を赤くしながら興奮するノラを落ち着かせるように、エレンはノラの頭に優しく手を置いた。
「俺は、確かに王族になんて戻りたくなかった。それよりも、母さんの息子で、ノラの兄でいる方が俺にとって大事だったからだ」
「エレン……」
ノラがエレンを見上げると、エレンが優しく笑う。
「俺だって、ノラが大事だ」
家族として、男として……
「俺は、王国の犠牲になるために行くんじゃない。ノラ、お前という俺の大事な、たった一人の妹を守るために行くんだ」
兄として。
「……私が今、王族殺害の罪人だから? それなら私、別に……」
「犯罪者のまま、アルノルフォ公爵家に戻る気か?」
ノラは言葉を詰まらせた。エレンは真剣な表情でノラを見つめていた。
「そんなの、俺が許さない。お前は幸せになるべきだ」
「エレン……どうしてそこまで……」
ノラの目から、ひと粒の涙が落ちた。エレンはそれを、そっと優しく指先で拭ってやった。
「母さんが最期に言っていただろ。『兄として、しっかり妹を守りなさい』って!」
そして、エレンは何もかも吹っ切れたようにニカッと笑ってみせた。
「俺は利用されるんじゃない、自分で選択したんだ。だから心配するな、ノラ」
本当は、苦しい。レックス王子として生きることを選べば、もうこれまでのようにノラの側にはいられない。エレノラの息子エレンとして、ノラの兄を名乗ることさえできなくなる。
それでもエレンは、妹のため、好きな人のためにこの選択をとることに後悔はない。
(側にいられなくても、俺の全てを使ってノラを守りたいんだ)
「俺はグランディエを倒し、この国の王になるよ」
そして、妹が望む戦争のない世界を、自分の手で作ってみせる——。
◆
もう何時間、こうして拘束されているのだろう。
「バスティアン・シンクレア。いつまでこうしている気だ⁉︎」
乱れた髪を振り乱して、目の前で椅子に優雅に腰掛ける男を、グランディエ公爵は睨み付けた。
すると横から、鋭い短剣の刃先が突き付けられる。
「サイショーさん。こいつ、煩いんでいい加減やっちゃいますか?」
赤髪の若い軍人が、ケラケラと笑いながら刃先でグランディエ公爵の喉元を撫でていた。
「ルシオ、やめろ。悪ふざけがすぎるぞ」
眉を顰めながら諌める銀縁眼鏡の執事服の男が、バスティアンのカップに紅茶を注ぐ。
「副長、本当に執事になったんですね」
「今さら、何を言ってる」
ヴィンセントとルシオの間に挟まれながら、二人の会話を聞いていたバスティアンは、少し疲れた表情で息をついた。
「……お前達の主人は、いつ戻ってくるのやら」
グランディエ公爵は、目の前の帝国人三名を睨み付けながら、なぜ自分が今、こんな状況に陥ったのか思い返していた。
手を組みたいと近付いてきた帝国の宰相バスティアン・シンクレア。グランディエ公爵も初めから、彼を信じていたわけじゃない。
ただ、お互いの利害は一致しているように思えたし、手を組むことによって得られる莫大な利益を目の前に、バスティアンが自分を裏切るとは夢にも思わなかったのだ。
グランディエ公爵という男は、これまで周りの者達を駒として動かし、自身の立場を盤石なものにしてきた知略者だ。
彼が信じるものは人じゃない。利益こそ全て。人は裏切るが、金は裏切らない。
だから、バスティアンの裏切りがどうしても理解できなかった。
「……分からないな」
グランディエ公爵の呟きに、三人は口を止めて彼を見る。
「目の前の利益を見逃す理由が分からない……どうしてだ? 王族は全ていなくなった、その罪も私の駒が引き受けてくれた。この国を導くのは私になる……私と手を組めば、更なる利益を手にすることができるんだぞ⁉︎」
だから考え直して、今からでも手を組もう。グランディエ公爵はそう言葉を続けようとしたが、その前に顔を蹴飛ばされて言葉を続けることができなかった。
「よくもまあ……」
グランディエ公爵の顔を蹴ったのは、ヴィンセントだった。
「うちの奥様を捨て駒にしてくれたな。本当は今すぐにでも殺してやりたいくらいなんだ。これ以上、私を苛つかせないために黙っててくれないか?」
「副長、この人すでに気絶してますよ」
ピクピクと痙攣するグランディエ公爵の顔を覗き込んで、ルシオが言った。ヴィンセントは静かに眼鏡を掛け直すと、すっとバスティアンの後ろに下がる。
「……驚いたな。ハリントン君はそこまで怒るほど、公爵夫人に思い入れがあったんだな」
バスティアンが意外そうに言うと、先ほど人を蹴り飛ばしたとは思えないほど落ち着いた様子でヴィンセントは答える。
「えぇ。もちろん、奥様のことは警戒していましたが……ずっと彼女を監視し続けていたから分かったんです。奥様が来てから、公爵家の雰囲気もすっかり変わって……いえ、喋りすぎましたね」
ヴィンセントはすでに軍を退役し、軍籍を離れた身。しかし、今回のこの作戦を知り、ヴィンセントは初めて自らイヴァンに自分も参加したいと申し出た。
(奥様が戻らないと、母さんや城の者達も悲しむしな)
ヴィンセントは感情の読み取れない瞳で、短い間だが仕えた夫人の姿を、思い浮かべていたのだった。




