8-1
イヴァンはノラから唇を離すと、抱き上げていたノラの体を慎重に下へおろした。
ノラもまた、エレンや船員の前でイヴァンと口付けを交わしてしまったことに気が付いて、恥ずかしそうに顔を赤らめながら目を逸らしている。
そんなノラの様子を見下ろしていたイヴァンは、欲に負けたように目を細めて、再び顔を寄せてきた。
「……っ、ちょっと⁉︎」
すぐさま気付いたノラが、慌てながらイヴァンの顔に手のひらを押し付け、キスを回避した。
「人前でやめてよ!」
「……さっきは君も受け入れていたじゃないか」
「あ、あれは雰囲気に流されて……!」
ノラは真っ赤な顔でキスを拒絶する。イヴァンは納得いかない様子をみせていた。
「この際、はっきり言わせてもらうけど!」
しかし、ノラは引かない。もう清楚で慎ましい『ユリアナ』ではないのだ。言いたいことは、我慢せずに言ってやる。
「人前であんなにベタベタするの、やめてよね! ずっと思ってたの!」
唇にキスまではなかったけれど、これまでのイヴァンは『妻ユリアナ』を人前で横抱きにしたり、額や頬にキスをしたりとやりたい放題だった。ノラはその度に、羞恥心に耐えていたのだ。
ノラの指の隙間から、イヴァンの金色の瞳がこちらを見つめている。少し、ムッとしているようだ。
「……だったら、君も俺がキスしたくなるような可愛い顔をするな」
「え?」
イヴァンの小さな呟きを聞き逃したノラが、思わず聞き返すと、イヴァンは不機嫌そうな顔を一変させて、ニコリと微笑んだ。
「つまり、『人前』じゃなければいいんだな?」
そう言って、自分の顔に押し当てられていたノラの手を掴むと、わざとらしく音を鳴らして手のひらにキスをする。そして、挑戦的な目でノラを見下ろした。
ノラはイヴァンにその目で見られると、意思に反して心臓が高鳴ってしまう。つまり……ノラは初めて、惚れた弱みというものを実感している。
ノラが助けを求めるようにエレンを見た。
エレンは複雑そうな顔で二人のやり取りを見つめていたけれど……はぁ、と気持ちを切り替えるような息を吐く。そして、ノラを庇うように背にして、イヴァンの前に立った。
「この獣が。俺の妹を困らせるな」
エレンは遠慮なく私怨も込めて、イヴァンを睨み付ける。するとイヴァンは楽しそうに目を細めた。
「きちんと、妻の本当の家族に挨拶をしたいと思っていたんだ。妹を嫁に貰うぞ、義兄上」
「なにが『義兄上』だ!」
イヴァンの勝ち誇った目に腹が立つ。
あの軍神に『義兄上』などと呼ばれ、エレンはぞわりと鳥肌を立てた。
エレンはそれ以上イヴァンを相手にせず、協力者の船長に港へ戻るよう伝えた。
一連の流れを見守っていた船長は頷いて、エレンを慰めるように背中に手を添える。エレンはそれを振り払って、船長を睨み付けるのだった。
風向きが変わったことで、エレンは船が旋回しはじめたことを肌で感じとっていた。
王国に戻れば、憎いグランディエ公爵のこと、帝国軍が王城を攻め落としているらしいという情報のこと……そして何より、ノラが王族殺害の罪に問われていることなどの問題が降りかかってくる。
一旦は外国に逃亡するからと無視していたが、戻るからにはこの問題からもう目を逸らしてはいけない。
「……お前の軍が城を落としたと聞いた」
エレンがイヴァンを見ずに言うと、ノラは「え?」と驚いた顔でイヴァンを見上げた。
「ノラを連れ戻すためだ」
涼しい顔で当然のように答えるイヴァンに、エレンは鼻で笑って軽蔑する目を向けながら言った。
「お前の愛情の深さはよく分かったが……でも、お前、分かってるのか? 外から見れば、帝国軍がヘブリス王国を侵略したんだ。戦争の開幕と捉えられても仕方がない」
エレンは嘲るような笑みを浮かべて、イヴァンに噛み付くように畳み掛ける。
「ノラはな……戦争が大嫌いだ。その戦争を無くすために諜報員になった。それなのに、夫のお前が私欲のために戦争の火種を作ったんだ……お前なら、他にもやりようがあったはずだろ⁉︎」
何もこんな極端な手段をとる必要はなかった。エレンの鋭い指摘がイヴァンに突き刺さる。しかし……
「あぁ、このままいけば俺は侵略者だな」
イヴァンは焦った表情ひとつ見せずに淡々と答えた。そんなイヴァンの態度に、エレンは頭に血が上る。
「だったら……!」
「しかし」
怒号を放とうとしたエレンの言葉を遮って、イヴァンが言った。
「俺は侵略者にはならない。いや、させない。なぜなら俺が軍を《《派遣》》した真っ当な理由があるからだ」
「は? どういう意味だよ……」
自信に満ちた笑みを浮かべるイヴァンに、エレンは呆気に取られながらも聞き返した。すると、イヴァンがゆっくりとエレンを指差す。
「お前がいるから」
エレンは訳が分からず、目を大きくした。
「言っただろ? 俺が諜報員だと分かっていてもお前を捕らえなかったのは、お前に利用価値があるからだと」
イヴァンの金色の瞳が細まり、じっとエレンを観察するように見つめている。
「今夜の事は、帝国による侵略戦争じゃない。ヘブリス王国内で起こった、正統な王位を取り戻す物語だ」
イヴァンの言葉が聞こえた瞬間、エレンの顔は一瞬にして青褪めて言葉を失った。
「俺は、ただ妻の大切な兄のために……正統な王位継承者へ力を貸しただけ。そうだろ? ヘブリス王とフローラ妃の息子……」
「なん、で……お前がそれを知って……」
エレンは本気で怯えた様子だった。震える声で言った後、無意識に後ずさった。そんな彼を見つめたまま、イヴァンはエレンの正体を遠慮なく暴く。
「もう一人の王子、レックス王子殿下」




