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潜入や暗殺を得意とするエレンにとって、イヴァンの真っ向からの刃を受け止めるのは一苦労だった。
鈍い音を立てて刃が重なり合う。
やはりイヴァンの方が優勢で、エレンは悔しそうに顔を歪めた。
ノラはハラハラした気持ちで二人を見つめていた。どうすればいいのか……けれど、どちらにも傷付いて欲しくない!
エレンは剣技でイヴァンに敵わないと悟ったのか、鍔迫り合いの時にわざと力を抜いてイヴァンの体勢を崩すと、懐から毒を仕込んだ短剣を取り出す。そして、それをイヴァン目掛けて刃先を突き立てようと腕を振った。
しかし、イヴァンは剣の柄を持ち直し、刃を返すようにして、その短剣を剣で弾く。
船員の誰もその二人を止めようとはしなかった……いや、できなかった。あの二人の間に割って入れば、やられるのは自分の方だ。
しかし……
「二人ともやめて!」
ノラだけが前に出て、二人の間に割り込んだ。
イヴァンの剣先と、エレンの毒刃が振り下ろされている瞬間だった。突如目の前に飛び出してきたノラに、二人は目を見開いて、常人離れした反応で咄嗟に軌道を変える。
エレンの毒刃がノラの髪の毛先を掠め切り、イヴァンの剣が甲板へ突き刺さった。
「…………」
イヴァンは声も上げられないくらいに驚いているようだった。短い呼吸を何度も繰り返しながら、信じられないといった顔でノラを凝視していた。
「あ……危ないだろ⁉︎」
先に声を上げたのはエレンだ。
「もしお前が傷付いたら、俺はっ……!」
エレンの言葉を遮ったのは、イヴァンの剣が床に転がった音だった。
イヴァンは甲板から剣を引き抜くなり、そのまま放り投げると、すぐにノラを抱き締めた。その力はいつも以上に強い。
「……良かった……」
イヴァンの声は震えていた。
「君を、傷付けてしまうところだった……」
ノラの肩に顔を埋めながら、イヴァンは呟く。ノラはイヴァンの反応にとても驚いていたが、やがて自身の肩にしっとりとした温かさを感じた。
(え……な、泣いてる⁉︎)
イヴァンの震える背中の向こうでは、エレンもあんぐりと口を開けて固まっている。
エレンは初めて、イヴァンの愛を目の当たりにした。この男は最初から掴み所のない男だった。
何食わぬ顔でこちらを出し抜き、笑顔の下で計算し、そして愚かな溺愛夫と冷徹総司令官の顔を使い分ける。
そんな狡猾な男の感情が露わになってしまったところを、見てしまった……
そしてノラもまた、エレンと同様に気付いてしまったみたいだ。
彼女の宙に浮いていた手が、そっとイヴァンの大きな背中に添えられるところを、エレンは見た。
(あぁ、胸が痛い……)
もう二人を見たくない。でも、きっと、目を逸らしちゃいけない。
ノラは驚きながら、目をぱちくりと瞬かせた。
なぜ、この男は泣いているのか……これまでのイヴァンの溺愛は、ノラを騙すための計算されたものではなかったのか?
強引に推し進められた結婚も諜報員であるノラを監視するためで、イヴァンが見せてきた『恋に溺れた愚かな男』の姿もノラを欺くための姿で……
それなのに、ノラが傷付きそうだったとこんなにも取り乱して……そんなの、まるで……
「……イヴァン・アルノルフォ。もしかして、私のことが好きなの?」
ノラが問いかけると、イヴァンはそっと彼女から体を離した。
「……すまない。少し、取り乱した」
顔を上げたイヴァンは、いつも通り平然とした顔だった。ただ、目元と鼻先だけが少し赤い。
ノラはなぜか胸が高鳴っていた。
「俺に自分を愛してくれと言っておきながら、逃げる君に答えてやりたくない」
イヴァンには珍しい拗ねた表情で、目を伏せるようにノラから目を逸らす。
「……俺は、確かに出会った日から君が『ユリアナ・ケリス』でないことを知っていた。君が他国の諜報員だと知りながら君に近付いたし、君も俺に近付いてきたから受け入れた。確かに君を騙した。だが……」
イヴァンの伏せてあった瞼が上がり、彼の金色の瞳にノラの姿が映し出される。
「俺の初恋については、嘘なんてない。本物だ」
ノラは目を大きく開いて、自分の顔が熱くなっていくのを感じ取っていた。
「俺が愛したのは、『ユリアナ』じゃない。『君』が好きだ」
それはノラが聞きたかった言葉だ。しかし、いざ言われるとどう受け止めていいのか分からない。
なぜなら、ノラとイヴァンの最後の別れは、ノラが自分の恋心を使ってイヴァンを騙したものだからだ。
「……私は、全部嘘だらけで、私だって貴方や皆を騙してた!」
だから、簡単にイヴァンを受け入れてもいいのか? 帝国で築いた関係性も、全ては『ユリアナ』が築いたもの。今さら騙してたノラを受け入れてくれるのか?
「君は……また俺達を騙すのか?」
「もう騙せない……だから、去ったの!」
ノラの中では嬉しい感情と騙した人達への罪悪感が混じり合い、思わず泣いてしまった。必死に涙を拭いながら答えていると、突然自分の体がふわりと浮き上がった。
イヴァンがノラを抱き上げたのだ。
「君の名前を教えてくれ」
イヴァンは柔らかく笑っていて、これまで彼が見せてきた『溺愛夫』でも『冷徹総司令官』の表情でもない。
ただ真摯に、ノラを求める一人の男の顔だ。
(……信じても、いいの? また騙されない……?)
そんな警戒心からの疑問がノラの頭の中に過るが、答えを出す前に自然とノラは口にしていた。
「……ノラ、です」
理屈じゃなかった。ノラの心は、イヴァンを求めている。望んでしまっている。
ノラが緊張した様子で答えると、イヴァンは「ノラ……」と小さく繰り返すように呟く。そして、目を細めては、幸せそうに笑って見上げてくる。
「俺達は嘘つき同士だ」
イヴァンは愛おしそうにノラを見つめた。
「だから、全て『本物』にしよう」
イヴァンの言葉の意味が分からなくて、ノラはキョトンとした様子でイヴァンを見た。
「ノラ。俺と結婚してください」
騙し合ったなら、今度は愛し合おう。
ノラは思わず呼吸を止めて、イヴァンを見る。彼の瞳はどこまでも澄んでいて、ノラはその瞳を見ていると、今だけは信じたいと強く思った。
(……この人から逃げたくない。今度こそ本当の私自身で、貴方の隣にいたい……)
だから、ノラもやっと素直になることができた。
「……はい……!」
目に涙を浮かべてノラが身を屈めると、イヴァンは顔を寄せてきてキスをした。
ノラがイヴァンの首に腕を回すと、イヴァンもまたノラの腰を抱き寄せる。
二人は幸せそうに、唇を重ねたまま笑っていた。
静かな夜の月明かりが、今、二人の『愛』を暴いてしまったのだった。




