7-5
ノラはエレンの様子がいつもと違うと感じていた。
「なんで……どうしてここでイヴァン・アルノルフォの名前が出てくるの?」
ノラは核心を突かれたからなのか、ムッとした表情を浮かべて反抗的な態度で誤魔化そうとした。しかし……
「真剣に答えてくれないか」
エレンがそれを許さなかった。
「俺にとっては、大事なことなんだ」
エレンが真っ直ぐノラを見つめると、ノラは途端に眉尻を下げて弱気な顔になる。
(この船に乗れば……本当にもう、会えなくなる……)
ノラがこの時思い浮かべたのは、何もイヴァンだけではなかった。
帝国で出会った、ノラが教育で学んできた『悪魔』ではなく、ノラの目で見てきた『本物』の人々のことを。
(いつの間に、私はあの人達のことも考えるようになったんだろう?)
ノラのこれまでの世界はいつだって、エレンとエレノラだけだった。それなのに、いつの間にこんなに多くの人が、ノラの心に棲みついてしまったんだ。
『ユリアナじゃなくて、今ここにいる私を愛して』
その言葉はノラの本心で、願いで、でもだからこそ難しいと思った。
(大切な人から騙されるのは、こんなに苦しいことだって……もう十分に分かったから)
だからノラは、帝国で心に棲みついた人々に、胸の内で別れを告げた。もう、大切な人達を騙したくなんてないから。
「私は……この船に乗る」
ノラが答えると、エレンはハッと息を呑んでいた。
「私にはまだ、やるべきことがある。グランディエ公爵への復讐が終わってないから」
エレンは目に薄く涙を浮かべ、力が抜けたように肩を落とした。
「あぁ、絶対に復讐を果たそう。そして、その後は……」
エレンは船と港を繋ぐ乗船板の中腹まで渡り、後ろに立つノラを振り返った。
「ノラ。これからは二人で静かに暮らそう」
その表情はとても幸せそうで、見ているノラまでなんだか嬉しく思った。
「改まってどうしたの? これまでも兄妹二人、私たちは力を合わせて生きてきたじゃない」
クスクスと笑うノラの答えに、エレンはイヴァンと過ごしていくうちに心境の変化を起こしていったノラの事を思い返していた。
(……兄妹としてではなく、二人の男女としてこれから共に生きていきたい)
だからエレンは、もう一歩踏み込む。
「ノラ、お前の事が世界で一番大切だ。どんな危険からも守り、絶対にお前を幸せにしてみせる……」
これまで心の中で幾度となく呟いてきた言葉を、今初めて口に出す。
「……愛してるよ」
するとノラは、驚いた顔で目を丸くしていた。そして、すぐに心から嬉しそうに笑った。
「うん。エレンは世界でたった一人の、大事な私の家族よ。私だってエレンを守る力くらいあるから」
エレンの瞳に、ノラの笑顔が残酷に映っていた。
「私も愛してる、お兄ちゃん!」
その笑顔が、エレンの希望を打ち砕いてしまった。
エレンは言葉を失い、思わず俯いてしまう。
(俺は……ノラにとって兄以外にはなれないのか……)
その時、船長からの出航の合図があり、ノラがエレンの横を通り抜けて船へと乗り込んだ。
「エレン、早く乗って! 出発するわよ」
失恋と無力感から言葉を失ったままのエレンは、船の上から手を振るノラを眩しそうに目を細めて見つめた。
立ち尽くしていたエレンだったが、再び足を踏み出す。
何も、拒絶されたわけじゃないんだ。たとえ兄妹としても、一番彼女の側にいるのが自分なら、エレンはそれで……
エレンが乗り込むと、船が動き出した。ゆっくりと港から離れていく中、エレンは港町の中からこちらに真っ直ぐ走ってくる一人の男の姿を見つけた。
(……悔しい……)
エレンは眉を顰めながら、下唇を噛み締めた。
「お、おい兄ちゃん! 無理に飛び乗る気か⁉︎ 危ないぞ!」
船乗り達が騒ぎ出す。エレンの隣では、ノラがその男を食い入るように見つめていた。
ノラを愛しているという点は、同じなのに。
(俺とお前の、何がそんなに違うんだよ……‼︎)
ダンッ‼︎ と、叩き付けるような激しい音とともに、一人の背の高い男が船に飛び乗ってきた。
「はぁ……間に合った」
しんと静まり返る船内で、イヴァンだけが声を上げる。
そしてすぐにノラの姿を見つけると、甘い笑顔を浮かべて手を差し伸べた。
「俺の奥さん、迎えに来たよ」
皆が手を差し伸べられたノラを見る。ノラは思わず、一歩後ずさった。
イヴァンは自分の手を掴まない妻の元へ歩を進め、そしてなりふり構わずにギュッとノラの体を抱きしめた。
「ど、どうしてここに……」
「逃がさないと言ったはずだが?」
イヴァンの匂い、温もり、そして自分を離さないと包み込む腕。ノラは戸惑いの中に、確かな喜びを感じていた。
「イヴァン・アルノルフォ‼︎ 彼女を離せ‼︎」
エレンはノラを助けようと、船員の腰に下げてあった剣を抜いた。それを見てイヴァンもノラから手を離すと、静かに自身の剣を抜く。
「お前、あの時の庭師の男だな?」
イヴァンはエレンの顔を覚えていたようで、冷たい瞳を輝かせながら笑っていた。
「……そして、エレノラのもう一人の息子」
イヴァンの言葉にノラとエレンはハッとする。イヴァンはちゃんと、ノラの後ろにいるエレンの存在にも気付いていた。
気付いていて、ずっと泳がせていたようだった。
「……知っていたのか」
「ユリアナ・ケリスと出会った日から、ケリス伯爵家には調査を入れていた。伯爵の売国逃亡計画も、そんな伯爵をお前達二人が利用していることも……」
エレンは悔しそうに奥歯を噛み締める。
「どうして俺を捕まえずに泳がせた?」
「お前には、利用価値があるからだ」
イヴァンは冷徹総司令官の顔でエレンを見据えた。
「だが、俺の妻を連れ去ろうとするのは、見過ごせないな……」
イヴァンが剣を構える。戦争の英雄『軍神』の刃が、エレンに襲い掛かったのだった。




