7-4
「……月明かりが、明るすぎるな」
エレンは森の中を進みながら、小さく舌打ちして空を見上げていた。
今夜は満月で雲もなく、夜だというのに顔が確認できるほど明るい。こういう日は、闇夜に紛れて脱出……というのは難しそうだ。
「この森を抜けて、港に向かおう」
エレンは気を引き締めて、後ろを振り返る。
順調に脱出経路を進むエレンに、ノラは自嘲気味に笑いながら言った。
「エレンは……いつもすごいね。私なんて、エレンに助けられてばかりだわ……」
いつもエレンの手を煩わせてしまう自分が、申し訳ない。ノラが俯いてそう言うと、エレンがノラの手を取り繋いだ。
「俺はノラが表で動いてくれていたからこそ、裏で好きに動けたんだ。それに、ここは帝国と違って王国だ。俺の協力者も多くいる」
つまり、エレンはグランディエ公爵の目の届かない範囲で自分の勢力を広げていたようだ。
「これはノラがいるから成り立つことなんだ。俺からすれば、お前の存在の方が有難いよ」
エレンの励ます言葉に、ノラは照れくさそうに小さく笑った。
「グランディエ公爵と……一体、何があったんだ?」
エレンがそう尋ねた瞬間、ノラの顔は悲しそうに歪む。ヘブリスの夜は酷いやつだ。そんな表情を隠してはくれなくて、エレンの前に曝け出すのだから。
ノラは自身が見聞きした全てをエレンに伝えた。エレンはしばらく、何も言わなかった。
「フローラ妃とレックス王子の殺害、そして帝国への風評攻撃に利用されたのが、私が生まれた港町だったんだって……それに、お母さんのこともグランディエが……っ」
「…………本当に、救いようのないクズだな」
鼻を啜るノラを慰めるように、エレンはノラの手を握り締める。
「エレン……私、悔しいよ。こうして逃げることしかできない自分自身が。どうしてお母さん達が死んで、あいつが笑って生きてるの?」
ノラが泣きながら言うと、繋いでいたエレンの手にさらに力が入った。
「……負け、じゃない」
エレンは振り返らずに続ける。
「今、逃げることは負けじゃない。生きてさえいれば、必ずあの男に復讐するチャンスを作れる」
エレンの声は冷静だった。
「だから今は耐えろ、ノラ。俺も耐える」
ぎゅっと、繋いだ手に力が込められる。
「そしていつか、俺達で……」
エレンの声は冷静を装っていたけれど、ノラには繋いだ手からエレンの震えが伝わっていた。グランディエ公爵への怒りを、必死に抑えていることが分かる。
「俺達で、必ず死を超えるほどの地獄を見せよう」
復讐なんて忘れろ、とは言わなかった。欺瞞と裏切りのこの世界に飛び込んだ瞬間から、二人の人生にそんな綺麗事は必要ない。
ただ、目には目を、憎しみには憎しみを。復讐をするかどうかを選ぶ権利は、誰にでもある。だったら二人は、復讐を選ぶ。
だからノラも、返事をする代わりにエレンの手を強く握り返したのだった。
夜の海には、月明かりを揺らす穏やかな波が立っていた。港では、これから仕事に向かう船乗り達が乗船準備を進めている。
そんな船乗り達の脇を通り抜けて、ノラはエレンが準備した船の前に立つ。
船の船長はどうやらエレンの『協力者』のようだ。船の上で髭を蓄えた顔がひょっこりとこちらを覗き込み、歯を見せて笑っている。
船長が近付いてきて、何やらエレンに耳打ちをしていた。その瞬間、エレンの赤い目が大きく開いて、ノラを見る。
「……ノラ」
エレンは何の情報を手に入れたのか。彼は複雑そうな顔でノラを呼ぶと、少しの間、沈黙する。
「エレン? 船に乗らないの?」
ノラが不思議そうな顔でエレンを見上げながら尋ねる。エレンは「……あぁ」と、歯切れの悪い相槌を打った。
エレンが協力者から聞かされた情報は、ヘブリス王国の城が、今まさに帝国軍の手に落ちているというものだった。
(あいつが……イヴァン・アルノルフォがこの国に来ている……)
協力者の話にはなかったが、十中八九、イヴァンはいる。
エレンは、ノラがイヴァンへの恋心を否定した時のことを思い出していた。
(イヴァンがこの国にまでお前を追いかけて来ていると伝えたら、ノラはどんな反応をする……?)
喜ぶ、のかもしれない。そう思うと、エレンの開きかけた口が閉ざされる。
(あの男が来たから、なんだ。大事なのはノラの意志だ。イヴァン・アルノルフォが追いかけてきたからと言って、ノラはすでに俺と国外へ逃げると決めているんだ……)
黙っておくことは、フェアではないと分かっている。けれど、エレンにとって、この瞬間がノラとの未来を選択する最後のチャンスだと思ったのだ。
(だから、このままでいい……)
罪悪感の滲む心で、これまでノラと過ごしてきた日々を思い返す。
喧嘩したり、慰め合ったり、笑い合ってきたエレンにとっての大切な女の子。それと同時に、たった一人の妹だ。
(俺は、大事な妹の幸せを……)
「…………」
これで最後だ。と、船に乗り込む前に、エレンはノラを振り返った。
「この船に乗り込めば、もう俺達は王国には戻らないことになる」
エレンの、最後の賭けだった。
「王国だけじゃない。帝国も、だ。二度と戻らない」
どうか俺を選んでくれと、怯えた心で願いながら問う。
「ノラ。お前は帝国に……イヴァン・アルノルフォの元に戻りたいか?」




