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これ以上追及されないよう、そして珈琲の話題から意識を逸らすよう、ノラは早速本日の切り札を切る。
「私……」
「待ってください」
返事をしようとするノラに、イヴァンは慌てて待ったをかけた。
「ユリアナ嬢。貴女、意外とせっかちなのですね。来て早々に返事とは……俺にも心の準備をする時間をください」
そう言って困ったように笑うイヴァンは、胸を押さえてゆっくりと深呼吸しはじめた。
そんな緊張している様子の彼の姿を見て、ノラは思わずクスリと笑ってしまう。
(この男は本当に、心底『ユリアナ嬢』に惚れているのね)
ふと、自分が今自然と笑っていたことにノラは驚いて固まってしまった。イヴァン・アルノルフォは敵国の公爵で、自分に騙されるような恋に溺れた愚かな男、なのに……
(少しでも、そんな姿を可愛いと思ってしまうなんて……)
ノラが自分自身の感情に狼狽えていると、イヴァンから声を掛けられた。
「ユリアナ嬢、もう大丈夫です……貴女の返事を聞かせてください」
覚悟を決めたかのようなイヴァンの表情を見つめながら、ノラはユリアナらしくない、淡々とした声で言った。
「貴方の交際の申し出を受け入れます」
言った後でハッとする。違う、ユリアナはきっと恥ずかしそうにはにかみながらそう言うはずだ。
ノラが慌てて顔をあげると、さっきまで対面の席に座っていたはずのイヴァンが、なぜか目の前にいた。彼はノラが状況を理解する前に、彼女を抱き締めたのだった。
「嬉しい、です!」
イヴァンのウッド系の香水がノラの鼻を掠めた時、彼の抱擁から解放される。
イヴァンの金色の瞳がとろけるようにうっとりとして、ノラを真っ直ぐに見つめていた。
「ユリアナ嬢……いや、ユリアナ」
まるでこの世の全てが手に入ったかのような喜びが、彼の瞳から伝わってくる。ノラは言葉を失ったまま、自分の中に滲む僅かな嫉妬心に気付いてしまった。
——ユリアナはいいなぁ。こんなに愛されて。
何か言わないと、ユリアナらしい言葉を……そんな気持ちでノラが口を開いた瞬間。
パシャッ。と、カメラのシャッターを切る音がする。ノラは思わずそちらに目を向けた。
すると、今までどこに隠れていたのか……店の茂みや壁際から大量の記者が現れたかと思えば、抱き合うノラとイヴァンの姿をカメラに収めているではないか。
無数のシャッター音とフラッシュに、さすがのノラも言葉を失い呆然としていると、満足そうに笑うイヴァンが彼女の肩を優しく抱きながら言った。
「心配しなくていい。彼らは俺が呼んだんだ」
「え……どうして……?」
理解が追い付かないノラが反射的に尋ねると、イヴァンは笑顔を浮かべて答えた。
「それは君が俺から逃げられないように……いや、気が変わらない内に一刻も早く周りに周知し、俺達の関係を既成事実にするためだ」
しかしその笑顔の奥にある瞳は、今までノラが見てきた恋に溺れる愚かな熱い瞳ではなく、どこか侮れない、獲物を狙う肉食獣のような瞳に思えた。
「君を心から愛してる」
イヴァンはそう言ってノラの髪のひと房を手に取ると、愛しそうにそっとキスを落とす。
ノラは唖然としていた。
(もしかして……イヴァン・アルノルフォという男は、厄介だったりする……?)
◆
ヴァルキリアス帝国の社交界は賑わっていた。なぜならひと月前、あのイヴァン・アルノルフォ公爵の熱愛報道が世間を駆け巡ったからだ。それは、皆が嬉々として噂するほどの大スクープだった。
翌日にはいくつもの新聞社にて、ノラとイヴァンのツーショットが紙面を大きく飾り、気付けば二人をモデルにした恋愛小説も先日発売されたらしい。
「……どうしてこうなった……」
ノラはケリス伯爵邸の執務室で、頭を押さえていた。
その場にはエレンもおり、彼は不憫そうな目でノラを見つめていた。
「どこへ行っても『公爵の恋人』と注目を浴びる日々……諜報活動が進まない……」
そう、あの大スクープから今日まで、ヴァルキリアス帝国にはユリアナの顔を知らない者はいないのではないかと言うほど、新聞から始まり最近ではブロマイドまで国中を出回っていた。
ただでさえ『アルノルフォ公爵の熱愛』だけでも話題性は十分なのに、その相手が最近社交界を騒がせていた『彗星のごとく現れた美しきご令嬢ユリアナ・ケリス』だったから、その相乗効果は計り知れない。
ユリアナは、今や知らない者はいないほど、時の人となっていた。
イヴァン・アルノルフォを落とすという目的において、ノラの任務は順調そのものだ。ただ、展開が予想外すぎる。
そもそもスパイとして、いくら仮の姿『ユリアナ・ケリス』でも注目を浴びるのは遠慮願いたい気持ちだ。完全にイヴァンにペースを掴まれている。
「こうなったら、さっさと軍部情報を掴んで王国に帰還するしかないな」
エレンの言葉に、ノラは疲れた顔で頷く。
「せっかく恋人の名分が出来たんだ。恋人として、アルノルフォ公爵邸に堂々と潜入してやるわ!」
そして、空元気を振り絞ってノラは決意するように大きな声で言った。
「実際、俺も何度も公爵邸への潜入を試みたが無理だった。あそこの警備は堅すぎる」
エレンは複雑そうな顔をして、ノラを慰めるように彼女の肩に手を置く。
「お前に頼りっぱなしだな……悪い」
「謝らないで。私が『ユリアナ・ケリス』として不自由なく社交界を過ごせるのも、エレンの情報収集や工作のおかげじゃない」
ノラもまた、兄を慰めるように自分の肩に置かれたエレンの手を握り返した。




