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「……教えてくれて、ありがとうございました……」
ノラは俯きながら呟くように言った。
「でも……今はまだ上手く真実を飲み込めていません。少し、一人にしてください……」
ノラの気持ちは十分に理解できるので、マクシミリアンは小さく頷くと椅子から腰を上げた。
「前皇帝陛下……僕は、最後にユリアナ様へちゃんと挨拶をしたいです。先に出ていてくれませんか?」
六歳の少年の切実な願いだ。アルベルトがマクシミリアンを見上げながらそう頼み込むと、マクシミリアンはもう一度頷いてから部屋を後にしたのだった。
アルベルトとノラ、部屋に二人きりになる。
「……ノラさん、これ」
マクシミリアンの足音が小さくなっていったことを確認して、アルベルトはずっと服の中に隠し持っていた手紙をノラに渡した。
手紙を受け取ったノラは、紙の折り目を丁寧に広げていく。するとそこには、見慣れた暗号文だった。
「…………エレン……っ」
ノラの手紙を持つ手が震えていた。
「エレンさんが待ってる。大丈夫、ノラさんは助かるよ」
アルベルトは震えるノラの手をぎゅっと握りしめると、彼もまた覚悟を決めた表情を浮かべた。
「返事を書いて。僕が必ず、エレンさんに届けるから!」
ノラは頷いて、涙を拭った。
——まだ、終わりじゃない。
◆
夜、イヴァンが夕食のディナーが乗ったワゴンを引きながら、ノラの部屋に入ってきた。
イヴァンはノラが目を覚ました日から、彼女の自室で共に食事をとるようにしている。
ノラはまるでイヴァンを待っていたかのように、ベッドではなくテーブルの椅子に座ってこちらを見ていた。
「起きていたのか」
イヴァンは優しく笑って、ノラの目の前に料理を並べていく。
「えぇ。もう意地を張るのはやめて、ちゃんと食事をとることにしたの。このままだと餓死しちゃうし」
ノラの言い方は、少し素っ気なかったが、それよりもノラが食事をする気になってくれて、イヴァンはとても嬉しく思った。
「そうか、良かった」
イヴァンがノラの向かい側に着席すると、ノラがじっと見つめてくる。
「なんだ?」
「貴方が食べさせてくれるんじゃないの?」
この数日間、イヴァンがずっとノラにそうしてきたように。
急に甘えてくるノラの態度に警戒しながらも、イヴァンは笑顔のまま立ち上がり、そしてノラの隣に座る。
「急にどうしたんだ?」
「……私、認めようと思うの」
「?」
イヴァンは目を鋭くさせて、ノラの反応を注意深く観察していた。
「……認めるって?」
「私が貴方を、好きなこと」
ノラが顔を上げて隣のイヴァンを見上げる。イヴァンは予想外の答えだったのか、驚いた様子で目を大きくしていた。
「イヴァン・アルノルフォ。私、確かに貴方のことが好き……」
イヴァンは、ノラがここまで素直に認めるとは思っていなかった。少しずつ顔を近付けてくるノラから、イヴァンは目が離せなかった。
「貴方が私をどう思っていようと、どう扱うつもりなのかも、私にはどうでもいい。ただ、これまで通り貴方が『ユリアナ』に向けてきた愛情で、私のことも愛して欲しいの」
ノラの手が、そっとイヴァンの頬に触れた。その手はひやりと冷たかった。
「ねぇ、約束してくれる? 騙すなら、どうか最後まで騙し通して」
透き通るようなスミレ色の瞳に見つめられると、イヴァンは何も言えなくなる。いろいろと思う事はある。急に聞き分けが良くなり、急に態度を変えた。でも……
「ユリアナじゃなくて……今ここにいる私を愛して……」
イヴァンはノラの瞳に偽りを探す。
けれど、どれだけ見つめても、そのスミレ色の瞳に嘘は見つからなかった。
(……本心なのか)
その瞬間、イヴァンの中でこれまで感じたことのない感覚が駆け巡った。
(今の彼女の誘惑に、抗うことができない……)
ゴクリ。イヴァンは思わず、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
初めてだった。他に何も考えられなくなるほど、恋に溺れるという感覚を知るのは。
キスをしてこようとしているノラを受け入れるように、イヴァンは目を細めた。
ノラのその瞳には、確かに自分を求める欲が映し出されていた。
二人の唇が重なり合う。
イヴァンはもっとノラが欲しくて、彼女を抱き寄せようと手を伸ばした。その瞬間。
イヴァンの背後にエレンが現れて、イヴァンがノラのために皇宮から買い取ったあの高級な花瓶を振り上げていた。
陶器が砕ける甲高い音と共に、イヴァンの後頭部に激痛が走った。視界が大きく揺れ、そのまま床へ倒れる。
戦場では一度も背後を取られたことのない男が、この瞬間だけはノラしか見えていなかった。
霞む視界の中で、こちらを見下ろすノラを必死に見上げた。
「……さようなら。イヴァン・アルノルフォ」
そう別れを告げる、ノラの表情はとても……
(なんてことだ。自分で彼女自身の恋心を利用して誘惑し、俺を騙すとは……)
イヴァンはそのまま、意識を失ったのだった——。
——イヴァンが意識を取り戻した時、珍しく焦った表情を浮かべているヴィンセントが自分の肩を揺らしているところだった。
「……う……」
「旦那様‼︎」
イヴァンが呻き声をあげると、ヴィンセントは安堵した様子でイヴァンを呼んだ。
「大丈夫ですか⁉︎」
「彼女は……?」
後頭部がズキズキと痛む。それよりも、イヴァンにとってノラの今の状況を把握することのほうが優先だった。
「……申し訳ありません。逃げられました」
ヴィンセントの固くなる声に、イヴァンは静かに「そうか」と答えてゆっくりと立ち上がった。
「旦那様。すぐに傷の治療を……」
「その前に、兵を集めろ」
イヴァンは額に青筋を浮かべて、けれど楽しそうに目を細めながら笑っていた。
「……初めて、負けたよ」
「え?」
イヴァンはヴィンセントの聞き返した言葉には答えず、割れた花瓶、開かれた窓を順番に見つめる。
「ヴィンセント・ハリントン。すぐに準備を整えて、出発するぞ」
ヴィンセントは心配していた表情をすっと引き締めて、イヴァンに敬礼をとった。
「はっ、かしこまりました」
イヴァンは金色の瞳を輝かせながら、冷徹総司令官の顔で言ったのだった。
「ヘブリス王国へ……俺の妻を迎えに行く」
夜空の遠くの方で、小さな雷鳴の音が聞こえた気がした。




