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「奥様は何日も意識不明でした。食欲はないかもしれませんが、せめてひと口だけでも召し上がってください……」
公爵家のシェフが腕によりをかけて作ったスープです、とマーガレットはノラが上体を起こすのを手伝いながら優しく言った。
ノラは静かにスープ皿とその隣に並べられたスプーンとフォークを見つめていた。
(……そうか。私は、死ねなかったのね……)
あの日から何日が経っているのだろう? エレンはどうしてる? きっと、連絡の付かないノラを心配しているはずだ。
「……奥様?」
反応の薄いノラに、マーガレットが心配そうな表情を浮かべて小首を傾げる。
ノラはゆっくりとスープの方へ手を伸ばし……そして、フォークを握りしめた。
「私をこの屋敷から逃しなさい」
フォークの先をマーガレットの喉元に突き付けて、ノラは鋭い目で睨み付けながら脅した。
「お、奥様……」
戸惑うマーガレットに、ノラは黙ってグッとフォークを強く押し当てる。周りで控えていたメイド達も動揺していた。
「貴女達も騒がないで! マーガレットさんを殺されたくなければ……大人しくしていなさい」
ノラはマーガレットを人質に取り、この屋敷から抜け出そうと考えていた。皇宮の牢屋に送られる前に、逃げ出せればノラの勝ちだ。
ノラの思惑通り、メイド達は騒ぐことなく大人しく彼女の指示に従おうとした。しかし、その空気を破る第三者が部屋に入ってくる。
その者の姿を見て、ノラはより一層表情を険しくさせた。
「イヴァン・アルノルフォ……」
奥歯を噛み締めながらその名を呼ぶと、イヴァンは微笑みを浮かべながら近付いてくる。
「目が覚めて良かった」
ノラがマーガレットの首にフォークを突き付けて人質にとっている状況だというのに、イヴァンにはまるでその光景が見えていないかのような振る舞いだった。
「ねぇ! これが見えないの⁉︎」
「今の君は毒を飲んで体力が落ちてる。もう少し、安静にしておいた方がいい」
ノラが凄んで脅しても、イヴァンは余裕のある態度だ。ノラは更にフォークを持つ手に力を入れて、マーガレットの首に強く押し当てた。
「どいて! じゃないと、この女を殺すわ!」
すると、笑顔だったイヴァンの表情がすっと真顔になる。
「やってみろ」
「…………本気よ……」
「どうせ君にはできない」
自分を見透かすようなイヴァンの瞳。ノラはイヴァンを睨み付けたまましばらく歯を食いしばり……ついに、フォークを落とした。
「……ふぅ、うっ……うぅ……っ」
そして、崩れるようにその場にうずくまり、声を押し殺しながら泣いた。
「奥様……」
「マーガレット。使用人を連れて、お前達は全員部屋から出ていろ」
ノラに手を差し伸べようとしたマーガレットを引き止めて、イヴァンは命じる。
「彼女の世話は俺が受け持とう」
「はい……旦那様……」
後ろ髪を引かれる思いで他のメイド達と共に部屋を出るマーガレットは、扉から出る前にもう一度振り返った。
そこには、泣き崩れるノラの肩を優しく抱き寄せているイヴァンの後ろ姿が見えたのだった。
イヴァンは温かなスープをスプーンで掬い、慎重にノラの口元へと運んだ。
「……口を開けてくれ」
ノラは拒絶するように顔を背ける。イヴァンは困ったように息を吐いていた。
「何か少しでも食べておかないと、本当に死んでしまうぞ?」
再びベッドの上に運ばれたノラは、背中のクッションに体を預けながら、イヴァンの姿を見たくないかのように目を伏せていた。
「……一体、どういうつもり?」
「どういうつもりとは?」
この男は本気で分かっていないのか……ノラは腹立たしい気持ちになる。
「天下の公爵様が甲斐甲斐しく世話をするなんて、とんだ笑い話ね!」
ノラはイヴァンから目を逸らしたまま、少し感情的に嫌味を言った。するとイヴァンは笑って、スプーンをスープ皿の中へ戻す。
「当たり前だろう。君は俺の妻なんだから」
その瞬間、ノラは顔を上げずにはいられなかった。
「妻?」
ハッと鼻で笑いながら、イヴァンを睨み付ける。
「誰が? ここにあんたが結婚したユリアナなんていない!」
イヴァンの金色の瞳と真っ直ぐに目を合わせて、ノラは続ける。
「私はあんたの妻じゃない」
すっかり本性を現し悪態をつくノラを見つめた後、イヴァンはゆっくりとスープ皿をテーブルに置いた。
「いいや。それは許されない」
イヴァンの返答に、我慢できなくなったノラは、ベッドから身を乗り出して、彼の襟首に掴み掛かった。
「いい加減にして! 殺すなら、早く殺しなさいよ!」
今さら夫婦ごっこをして何になる。ノラはこれ以上、イヴァンの偽りの愛情に振り回されたくない。
「ずっとうんざりだったのよ! あんたの優しさも、気遣いも、その全てが! 本当、すっかり騙されちゃった。どうして、私……あんたはユリアナを愛してるって、騙されちゃったんだろう……」
心を……掻き乱されたくない。
「それが君の本心か?」
イヴァンの淡々とした声。ノラが強気に「えぇ、そうよ」と言うと、イヴァンは柔らかな表情でふっと笑みをこぼした。
襟首を掴むノラの手に、イヴァンの大きな手がそっと重なる。
「そうか。俺はやっと、本当の君に出会えたんだな」
その笑顔を見た瞬間、ノラの顔が一気に熱くなった。
ノラはイヴァンの手を振り払うように襟首から手を離して、身を引いた。
(この男……何を言ってるの……?)
ノラはひとつも理解できなかった。
(まだ、私を騙し足りないって……?)
何度、ノラはこの男に敗北させられたらいいのか。これ以上、何も言えなくなったノラは、布団の中に潜り込み、イヴァンに背を向けて丸まることしかできなかった。
「寝るのか?」
ノラはイヴァンを無視した。
「……まぁ、それもいいだろう。君がまた起きた時に、温かい食事を準備させよう」
ノラの背中で、イヴァンが立ち上がっている気配がする。
「おやすみ」
イヴァンは後ろからノラのこめかみに軽く口付けを落とすと、そのまま部屋から出て行った。
ノラは……更に深く布団を被り、ぎゅっと目を閉じる。
(これ以上、騙されるな……!)
そんなことを念じている間に、体力が低下していたこともありノラはいつの間にか眠ってしまったのだった。




