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ノラは初め、自分の耳を疑った。
(お母さんが、イヴァン・アルノルフォの母親……?)
では、エレノラはノラと同じ王国人ではなく、帝国人だということ?
「俺の母親エレノラは、歴としたアルノルフォ公爵家の正統後継者であり、前アルノルフォ公爵だ」
ノラの疑問に答えるかのように、イヴァンはエレノラの正体を語る。
「……そして、十七年前のヘブリス王国との戦争に、軍を率いて参加した軍部総司令官でもある」
「…………うそ、嘘だ……そんな……」
ノラの瞳に、じわりと涙が浮き出てきた。
「お母さんが帝国人で、私達ヘブリス王国の人々を苦しめた敵国の総司令官……? そんなの、嘘だ! イヴァン・アルノルフォ! 真実を言いなさい!」
思わず逆上して叫んだノラだったが、すぐにハッとする。今、自分で王国人だと白状してしまったからだ。
「嘘ではない。俺は真実のみを述べている」
狼狽えるノラに、イヴァンは一歩前に出て距離を詰める。
「それに……俺はユリアナのお前と出会った日から、お前がヘブリス王国の諜報員だということを、知っていた」
「…………え?」
ノラの思考が、そこで完全に止まった。
この男は今、何と言った? ノラが諜報員だと初めから知っていた……?
では、初めから全てを分かった上で、ノラと結婚し、自身の手元に置いてノラを監視していたということなのか?
『俺達以外の他国の諜報員が、イヴァン・アルノルフォに捕まったらしい——あの男……泳がすだけ泳がして、芋蔓式にその組織全てを刈り取ってしまったんだと』
あの日、エレンが言っていた。
(……騙されていたのは、イヴァンではなく……私の方?)
イヴァンはノラを泳がし、その後ろにいるエレン諸共刈り取る気だったのだと、ノラはすぐに判断した。
見開いたノラの瞳が、赤らんでいく。
(くそ……くそっ……)
「イヴァン・アルノルフォ‼︎ このクソ野郎‼︎」
ノラは恨みのこもった表情でイヴァンに襲い掛かろうとした。しかし、すぐにルシオとヴィンセントが動いて、二人はノラに短剣と銃口を突き付ける。
確かにノラの喉元に、ルシオの剣先が押し当てられたはずだった。だがノラは素早く体を捻って、勢いよくルシオの顔に頭突きをすると短剣を奪い取る。
そのままヴィンセントの銃を構えた手元を狙って短剣を投げた。
ルシオとヴィンセントの体勢が大きく崩れた瞬間に隙をついて、ノラは唯一の脱出口である窓へと走り出した。
しかし、それでもノラはイヴァンから逃げられない。
イヴァンの大きな手が彼女の細い体をいとも簡単に捕らえ、懐から取り出した手錠でノラと自身の手を一瞬で繋いでしまった。
「いってぇ……こんな絶体絶命な状況で、あの行動を取るとは……」
「奥様は腐ってもスパイ、という事ですね。不利な状況をひっくり返すあの一手、お見事でした」
赤くなった鼻を押さえながら嘆くルシオと、銃身に刺さった短剣を引き抜きながら称賛するヴィンセント。
ノラは、今度こそ自分の敗北を悟り、荒く短い息を吐きながら静かに目を閉じた——。
初めて出会った日から、『ユリアナ』を愛する男がいた。男は『ユリアナ』が妻になってからも彼女を慈しみ、穏やかな優しさと大きすぎる愛情で『ユリアナ』を……いや、『ノラ』を包み込んでくれた。
——目を開くと、ノラは奥歯に仕込んでいた毒を噛み砕き、そのままイヴァンに口付ける。
ノラが最後に選んだのは、イヴァンを道連れにすること。
イヴァンは目を細めて、ノラのキスを拒絶することなく受け入れた。彼の手がノラの腰を引き寄せて、二人の体がぐっと密着する。
むしろイヴァンの方が、ノラを求めているかのようだった。
唇を離した時、イヴァンが申し訳なさそうに眉尻を下げながら言った。
「お前の健気さには感服するよ。俺が、敵国の諜報員を前に何の準備もせずにいると思ったか?」
即効性の毒が回り始めたため、ノラは朦朧としていく中でイヴァンの言葉を聞いていた。
「もちろん、あらかじめ解毒剤を飲んでいる」
「…………」
ノラは焼け付くような喉の痛みを感じながら、自身の完全敗北にもう言葉は何ひとつ出なかった。
何が悔しいって、イヴァンに騙されていたと分かって初めて、ノラは自分の中の恋心を、もう言い逃れのできないほどに自覚してしまったことだ。
「……本当に……このクソ野郎……」
自分がいつからイヴァンの前で『ユリアナ』から『ノラ』になってしまったのか分からないくらいに、彼の愛が……たとえ偽りだとしても、ノラを変えてしまっていたのだ。
ノラは大粒の涙をこぼしながら目を閉じ、そして全身の力が抜けて崩れ落ちるように倒れていった。
イヴァンは素早くノラの体を支えると、もう一つ準備していた解毒剤入りの小瓶を取り出す。
「……死んで俺から逃げる気か?」
イヴァンはその解毒剤を口に含み、意識を失ったノラに口付けて、解毒剤を流し込むように彼女に飲ませた。
「言ったはずだ。逃がさないって」
イヴァンはノラの体を大切そうに抱き締めながら続けた。
「まだ君の本当の名前も、教えてもらっていないのに……」
◆
ノラがゆっくりと目を開くと、見慣れた天井だった。アルノルフォ公爵家のユリアナの部屋だ。
「……奥様!」
ノラが目を覚ましたことにいち早く気付いたマーガレットが、赤くなった目に涙を浮かべて嬉しそうに叫んだ。
(なぜ……私、まだ生きてる……?)
確かに毒を飲んだはずなのに。自身の状況を理解できずにいるノラは、表情を歪めて信じられずにマーガレットを見つめ返した。
全身が重い。毒の影響か、声が出しづらい。
「お目覚めになられて、本当に良かったです!」
重たい体でぐったりと横たわったまま、虚ろな瞳でマーガレットを見つめる。マーガレットは慌てた様子で側に控えていたメイドに指示を出していた。
メイドもマーガレットと同じように目元を赤くして頷くと、急いで部屋から出て行った。
少しすると、ノラの前に温かなスープが用意された。
柔らかな湯気とともに、ふんわりと野菜の甘い匂いが立ち上っている。




