6-2
うろうろと自室の中を歩き回る。その時、扉がノックされた。
ノラが返事をすると扉が開き、姿を現したのはイヴァンだった。
「ユリアナ」
「……イヴァン様?」
イヴァンはノラの姿を見つけると、笑顔を浮かべて彼女の元へと近付いていった。
マーガレットや専属侍女達は誰も入って来なかった。代わりに入ってきたのは……
「ユリアナ。俺を見ろ」
いつの間に目の前までやって来たのか……イヴァンの後に続いて入ってきた二人を見つめていると、イヴァンがノラの顎を掴んで自分の方へ向かせる。
「……どうして、ヴィンセントさんだけでなく、ルシオさんまで……?」
チラリと扉の方を目配せだけして、ノラは戸惑う様子でイヴァンに尋ねた。
イヴァンは笑ったまま、目を細めた。ノラの心臓はドキリとする。なぜなら、イヴァンの金色の瞳が……とても冷え切っていたから。
「俺から逃げられるとでも思ったか?」
嫌な予感。ノラの表情が段々と険しいものになっていく。
そして、ノラは気付く。イヴァンの手に、昼間に自分が書いたエレンへの手紙が握られていることに。
その瞬間、ノラはイヴァンの手から逃れようと彼の手を振り払い、身を翻して窓の方へ一直線に駆け出した。
ノラが窓の取っ手を掴んだ時、別の者の手が横から出てきて叩くように窓ガラスを押さえた。
「こんな嵐の中、どこに行くんですか。オクサマ?」
脱出経路を塞がれた。ノラはドレスの裾に隠し持っていた小型銃を素早く掴み、ルシオに銃口を向ける。
しかし、引き金を引く前に、背後からイヴァンに捕らえられてしまい、発砲することは叶わなかった。
ノラは肘を引き、身体を捻って拘束から逃れようとする。だが、イヴァンの腕はびくともしない。
(……嘘……!)
これまで何度も窮地を切り抜けてきたノラの身体能力をもってしても、まるで鉄の枷に嵌められたように身動きできなかった。それどころか、腕を捻られて銃を落としてしまう。
ノラは目を見開いて、すぐ後ろにあるイヴァンの顔を見上げた。目が合うとイヴァンは冷たい笑みを浮かべて、そっとノラの耳元に唇を寄せる。彼は低い声で囁いた。
「妻にこんな手荒な真似はしたくなかったんだが……お前が俺から逃げ出す計画を立てているのなら、仕方がない」
「な、にを……っ」
何度も腕を振り払おうと全身でもがいても、イヴァンの腕は緩まない。さらに、ノラの体を力強く拘束していく。
イヴァンは続けてノラの耳先に軽く口付ける。そして、恋に溺れる愚かな夫ではなく、冷徹総司令官の顔をして宣告した。
「ユリアナ。お前をスパイの容疑で逮捕する」
あの『軍神』に捕まった。ノラの脳裏に、エレンから聞いた話が思い出される。
『薬物を使用した尋問に、容赦のない拷問。情報を吐き出すだけ吐き出させられ、廃人となった者は、そのまま死刑執行を待ち——』
(……エレン、ごめん)
ノラは青褪めた顔で、目の前の死神と目を合わせていた。
(私、もう……助からない)
——彼女が覚えている一番古い記憶は、両親が敵国の兵士に殺される瞬間だった。
真っ暗なクローゼットの中で、必死に息を潜めてもう動かなくなった『両親』を見つめていた。彼らは自分達の娘の存在を知られないために、最期までクローゼットを振り返ることはなかった。
しかし、そんな両親の思いも簡単に裏切られ、家の中を捜索する兵士達の手によってクローゼットの扉は開かれる。
幼かった彼女は恐怖から涙をボロボロと流しながら、こちらへ伸びてくる大きな手を目を見開いて見つめていた。声は、出なかった。
兵士も幼子だと油断していたのか、一瞬の隙をついて逃げ出すことに成功した。彼女は当てもなく走り出して、追ってくる兵士の手から奇跡的に逃れたのだった。
数日間、瓦礫の町の中で身を潜めていた。彼女の両親と同じ、動かなくなった人々が転がる町の中で、彼女は孤独な夜をいくつ過ごしただろう。
あんなに恐ろしかった兵士達は引き上げていき、彼女のように生き延びた人々は失ったものを数えながら絶望を抱えてうずくまっていた。
それから彼女は、配給所を覚え、そこへ行ってはわずかな食料を手に入れて何とか生き延びる。
時には手に入れた食料を他の者に奪い取られたり、奴隷商らしき者に誘拐されそうになり必死に逃げたりした。
そんな生活を数ヶ月間も続けていると、幼子一人で生きていくには限界で、ついに彼女は空腹と疲労で身体を動かすことさえできなくなった。
「——ねぇ! 目を開けて!」
彼女が静かに目を閉じた時、一人の少年が彼女の肩を揺らしながら叫んだ。
「こっち! 小さな女の子が倒れてる……まだ息があるよ‼︎」
少年が後ろを振り返りそう言うと、すぐに背の高い女性が現れて彼女の小さな体を抱き上げた。彼女の意識は、そこで完全に途絶えたのだった。
目を覚ますと、狭くて小さな小屋の中だった。
「目を覚ましたか……」
隣で見守っていたのか、すぐに気付いた女性が身を乗り出して彼女の顔を覗き込む。燃えるような赤髪に、金色の瞳。とても綺麗な女性だった。
「外傷はないようだが、酷い栄養失調だ。まずは食べなさい」
その言葉のあとに、金髪の少年が食事を運んでくる。食べやすいように柔らかくミルクでふやかしたパンと、色の薄いスープ。
それでも彼女にとっては数日ぶりの食事で、パンを両手で掴み取ると一心不乱にかぶり付いた。
彼女の食事中、女性は自身のことを『エレノラ』だと名乗った。
エレノラの左袖は途中から何も入っておらず、袖がペラペラと揺れている。それでも明るい表情を浮かべており、その目に絶望はなかった。
たまに豪快な笑顔を浮かべて、片腕がなくとも問題がないとでもいうような……どこか、安心感を覚える人だった。
「両親は……殺されたか?」
彼女は小さく頷いた。
「名前は?」
彼女は答えられなかった。
「家の場所は分かるか? 両親が亡くなる前、お前はどこで過ごしていた?」
彼女は……何も思い出せなかった。
「……失語症だな。それに記憶も混乱している。心因的なものだろう」
エレノラはすぐに彼女の状態を正しく理解し、そして初めて顔を歪めるとその片腕で力強く彼女を抱きしめる。
「すまない……すまない……!」
どうしてこの人が謝っているのだろう。と、彼女は不思議だった。もっと早く見つけられず、すまないと謝っているのだろうか?
でも彼女は、両親が殺された日以来に初めて涙を流し、エレノラの胸の中でいつまでも泣き続けた事を覚えている。
その後、エレノラは名前がないと不便だと言い、彼女に『ノラ』、そしてもう一人の少年に『エレン』と名付けた。
自分の名前を分けてくれたエレノラが、ノラにとって『母』となるのに、そう時間は掛からなかった。




