5-7
「ノラ!」
思わず足元がふらついたノラを、エレンが咄嗟に支えた。
「大丈夫か?」
今のノラは目に見えるほど顔色が悪い。エレンが心配そうに声を掛けると、ノラは焦点の合っていない目でエレンを見上げた。
「エレン……」
「ここに書かれていることが真実だと確定したわけじゃない」
気が動転しているノラを正気に戻すように、エレンはノラの背中を軽く叩いた。
「でも……」
エレンもこの報告書の内容が衝撃的だったのだろう。言葉を途切らせ、少しだけ目を伏せていた。
「この報告書だって、俺達諜報員を撹乱させるために、帝国が準備した偽造情報なのかもしれない……」
そう言いながらも、エレンの頭にはある可能性が浮かんでいた。
もしこの報告書の内容が本当だとして、自分たち諜報員そのものが、王国が戦争を起こすための駒として利用されている可能性。
エレンは伏せていた目を上げて、ノラを真っ直ぐに見つめる。
「ノラ。俺は王国も信用しすぎない方がいいと思う。本当に信じられるのは、俺達だけだ」
ノラのスミレ色の瞳が不安げに揺れている。エレンは安心させるように、ニコッと笑った。
「そして俺達はスパイだ。信じるべき真実は、自分達の手で暴けばいい」
その言葉を聞いたノラは、きゅっと口元を引き結んでこくりと頷く。
王国を信じたい気持ちと、しかし帝国に潜入してから自身の目で見てきたこれまでの光景を思い出して、ノラの感情は大きく揺れ動いていた。
真実を知りたい。そう思ったノラは、一度祖国へ戻り、直属の上司である宰相のグランディエ公爵に会う必要があると思った。
(このことを、グランディエ公爵にお伝えしなくちゃ……)
ただの孤児の少女だったノラの才能を見出し、諜報員として引き上げてくれたグランディエ公爵には恩がある。
彼は善人で、優しい人だとノラは信じている。この事を知れば、きっと心を痛めてしまうだろう……
(それに……)
ノラはイヴァンの秘密の部屋にあったエレノラの肖像画のことを思い浮かべる。
十七年前、ノラが両親と住んでいた港町には、突如としてヴァルキリアス帝国の大軍が攻め込んできた。帝国兵士達は町民達の命を次々と奪い……ノラも目の前で両親を殺された。
必死に何日も逃げた先で、ノラはエレノラと出会ったのだ。
(あの日、私を拾ってくれたお母さんがあの港町にいたのは……偶然じゃない気がする)
そして、なぜイヴァンが、国を越えてエレノラの肖像画を持っているのか……イヴァンは公爵位を継ぐ前にヘブリス王国へ渡航していたという過去がある。もしかしたらその時に、二人は出会ったことがあるのかもしれない。
不安だ。ノラはもう、一体何を信じて疑えばいいのか分からない。
ノラはエレンを見る。エレンの信頼に満ちた赤い瞳が、ノラの気持ちに応えるように見つめ返してきた。不安だけど、ノラにはエレンがいる。
「……エレン。一度祖国へ帰ろう。そして、私達の目で確認するのよ」
ノラは改めて決意を固めた表情で、目に強い意志を宿しながら言った。
「『ユリアナ』が帝国を出られるように裏工作をお願い。母方の家族のトラブルで、フランシール王国に向かわないといけない理由を作って」
エレンは頷きながら、またノラがアルノルフォ公爵家に戻るつもりがあることを悟り、少し寂しそうな顔をした。
その時、執務室の扉が勢いよく開いた。あらかじめ、この部屋に近付いてくる足音を察知していた二人は瞬時に身を隠す。しかし、入ってきたのはアルベルトだった。
「ノラさん……! お父様がもうすぐ帰ってくるって!」
アルベルトは、焦った顔で先ほど使用人達が廊下で話していた内容を叫ぶように言うと、ノラ達は物陰から姿を現し、互いを見合った。
「ここは任せて、お前は先に行け」
「分かった……!」
ノラはアルベルトの手を引きながら、扉の方へと小走りした。
「準備が整ったら、また知らせる」
そして、部屋を出るノラの背中に、エレンが続けて言った。
準備……ヘブリス王国へ帰還するための準備のことだ。ノラは出る間際にエレンへ頷いて見せると、そのまま部屋を後にしたのだった。
一人残されたエレンは、書類を片付けていき、元の部屋の状態へと戻していった。最後に手にした書類の束は、まだエレンが目を通せていないものだった。
(『容疑者リスト』……? もしかして、諜報員容疑のリストか⁉︎)
残された時間はない。しかし、確認するべき内容だ。エレンは素早くリストのページを捲っていった。
様々な国籍の人物達の名前が並んでいる。顔写真がある者もいれば、いない者……エレンは最後のページを捲った。
(…………どうやら、俺達の情報は載っていないみたいだな)
エレンは安堵の息を吐くと、その書類を元の位置に戻して、窓から飛び出すように姿を消した。
エレンと入れ替わるように執務室の扉が開く。入ってきたのはバスティアンとその補佐官だった。
「バスティアン様、こちら新たな情報です」
「ご苦労」
バスティアンは執務席に着くと、首元のタイを緩めながらその書類を補佐官から受け取る。
「……どうやらこの屋敷に客人が来ていたらしいな」
「はい。アルノルフォ公爵夫人とその屋敷の侍女長が来客されていたようです」
補佐官の言葉に、バスティアンは片眉を上げた。
「……アルノルフォ公爵夫人が?」
「バスティアン様がお屋敷に戻られる少し前に、すでにお帰りになったそうですが……」
バスティアンは目を細めた。そして、今しがた補佐官から受け取った書類に視線を落とす。
『追加容疑者リスト——ユリアナ・ケリス疑い』
彼の青い瞳が冷たく、そして鋭くなる。
「公爵は……」
「え?」
バスティアンの呟きをよく聞き取れなかった補佐官が聞き返してくる。
バスティアンは笑みだけを深めて、それ以上は言葉を続けなかった。彼は腰を上げると、窓際に立つ。すでに客人を乗せた車が出ていったであろう門を静かに見下ろした。
(もし自分の愛する妻がスパイだったなら、その時イヴァンは一体どうするかな。これまで通りに敵に容赦ない総司令官になるか? それとも……)
窓に映るバスティアンの口角が、上がった。




