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5-4

 ノラがくらりと眩暈を覚える中、エレンはアルベルトの元へ向かい、彼の細い腕を掴んだ。そして、引き上げるようにその小さな体を軽々と持ち上げる。

 アルベルトの足は床から離れ、腕一本で吊られながらブラブラと揺れていた。足に絡み付いていた蛇が、ぼとりと床に落ち、エレンの元へと帰っていく。


「う、うぅ……痛い……ユリアナ様っ……!」


 目に溜めていた涙をぽろぽろと零し、痛みに苦しむアルベルトの姿を見ると、ノラは堪らなくなった。気付いたらエレンからアルベルトを庇っていた。


「エレン! アルはまだ小さな子供よ!」

「それでもこいつは俺達の話を聞いた」


 エレンが冷酷な目でアルベルトを見下ろす姿を見て、ノラは「エレン‼︎」と更に大きな声で呼んだ。


「子供に手を出すのは……嫌よ。エレンもそうでしょ?」


 ノラが悲しそうにそう言うと、エレンは暫く黙っていた。そして、苛立たしそうに舌打ちし、アルベルトの腕を離す。


 尻もちをつくように解放されたアルベルトは、一目散にノラの元へと走った。


「アル……痛い思いさせて、ごめんなさい」

「どうしてユリアナ様が謝るの……?」


 ノラの足に抱き付いて、アルベルトは一生懸命に涙を拭いながら言った。


「痛いことしたのは、あいつなのに!」


 そして、キッと睨み付けながらエレンを指差す。


 エレンはそんなアルベルトを真っ向から見つめ返した。その目には怒りや戸惑いが一切なく、無感情だ。それがアルベルトには恐ろしく感じられて、びくりと肩を揺らしてはノラのドレスのスカートの陰に隠れた。


「エレン……威嚇しないで」

「してない」


 ノラの言葉で、エレンはやっとアルベルトから視線を外す。すると、アルベルトは隠れていたスカートの影からおそるおそる顔を覗かせた。


 そんなアルベルトを刺激しないように、ノラはしゃがみ込んで彼の目線に合わせると、優しい声色で尋ねた。


「アル、どうしてここに?」


 アルベルトは涙に濡れた紫色の目で、じっとノラを見つめる。


「……ユリアナ様、スパイなの?」


 再び、じわりと涙を目に浮かべながらアルベルトはさらに質問した。


「この国からいなくなっちゃうの?」


 以前は大人びて敬語を崩さなかったアルベルトも、今ではノラの前でだけ年相応の顔を見せるようになっていた。

 だからアルベルトは、ノラがスパイだと知っても、彼女が悪人だと恐れなかった。彼が恐れたのは、スパイであることよりも、ノラがいなくなることだ。


 その事実が、アルベルトには何より悲しかった。


「……そうよ、任務が終われば私はこの国を去るわ」


 ノラの言葉に、アルベルトの希望は打ち砕かれた。


「でも正体を知られたからには、もう『ユリアナ』の身分は使えない……」


 ノラは悲しそうにそう言ってアルベルトの頭を優しく撫でると、スッと立ち上がる。


「アル、元気でね。貴方のお母さんを、これからもしっかり守るのよ」


 そして最後の別れの言葉を言ったノラは、エレンの方へと歩いていった。


(……ユリアナ様が、行っちゃう……!)


 もうノラとは会えなくなる。本能的にそう悟ったアルベルトは、ノラの背中を追いかけて、彼女に抱き付きながら訴えるように言ったのだった。


「僕、ユリアナ様達の仲間になるっ」


 ノラが驚いてアルベルトを振り返った。


「二人は僕の家に入って調べものをしたいんだよね? 僕が協力するから……だから、まだどこにも行かないで!」


 ノラはアルベルトを巻き込みたくなかった。驚きのあまり、咄嗟に言葉が詰まってしまったが、すぐに断ろうと口を開く。しかし、その一瞬の隙をついて、エレンが言った。


「協力と言ったが、そんな小さな体のお前に一体何ができるんだ」


 エレンもノラと同じ気持ちのようで、アルベルトに現実を突き付けて追い払おうとしているようだった。


「人が情報のために死に、そしてその情報が時には国すらも滅ぼすことがある。そんな残酷な世界に、自分の家族を差し出せるのか?」


 諜報に協力するというのは、そういう意味だ。


「そんなことも分かっていないくせに、協力などと……これだから、無能な子供は嫌いだ。いいか、今日は見逃してやるから、これを機に俺達に関わるなよ」


 すると、アルベルトは少し怯えながらもエレンに立ち向かうようにその小さな足で踏ん張った。エレンを睨み付けながら、アルベルトは言う。


「僕が今ここで大声を出してもいいの⁉︎」

「……このガキ……俺達を脅すとは……」


 エレンの赤い目が、ぞっとするほど冷たく細められた。


「ぼ、僕をそこら辺の子供と一緒にするな! 僕は役に立つよ。今からユリアナ様を屋敷に連れて行って、貴方が屋敷の中に入れるように僕の部屋の窓の鍵を開けておく!」


 アルベルトは恐怖に震える手を握り締めて、必死になって自分の有用性を語った。


「使用人達の行動パターン、お父様の毎日の習慣……僕は全部知ってる」


 相変わらずエレンの鋭い視線がアルベルトに突き刺さっていた。アルベルトはまだこれでも足りないのかと不安な表情を浮かべている。


「……屋敷の配置図もだ」

「エレン!」


 今、エレンがアルベルトの小さな手を取ったことを察知して、ノラが責めるようにエレンを呼ぶ。


「この子供は、お前のために自分の家族を裏切る覚悟を決めた。そういう奴は、何があっても引かない」


 それならば願い通りに利用してやるだけだと、冷たい言葉を吐くエレンに、ノラは悲しい気持ちになった。


「分かった……でも、アルの身が危険になったら、エレン。必ず守ってあげて」


 切実に兄へお願いする。エレンは黙ったまま目を逸らしたが、長年の付き合いであるノラは、それが肯定する意だということは分かっていた。

 改めて、アルベルトへ向き直った。


「アル、どうして……他国のスパイが帝国にとってどんな存在なのか、賢い貴方が知らないわけないでしょ?」


 アルベルトは賢い。自分の今の行動が、家族を危険に晒しかねない裏切りだと、ちゃんと分かっているはずだ。


「……うん、お父様とお母様を傷付けることは絶対にしたくない……でも僕、スパイの貴女じゃなくて、これまで一緒に過ごしてきたユリアナ様を信じてるから」

「……え?」


 自分の罪を自覚しているからこそ、アルベルトは体を震わせて顔色を悪くしていた。それでもアルベルトは、ノラにニコッと笑いかけた。


「僕の知ってるユリアナ様は、絶対に悪い人じゃない、人を傷付けたりしないって。きっと誰かを救うために、僕の家に入って調べものをしたいんだよね?」


 初めて出会った時に、ノラがメイベルとアルベルトを助けてくれたように。アルベルトは信頼の目を向けていた。

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