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イヴァンとの時間を過ごした後、ノラは屋敷へと戻ってきていた。
使用人達には疲れたから部屋で休むと言ってある。今、ノラは室内に一人だった。
『ユリアナ、この国はどうだい?』
マクシミリアンの別れ際の言葉が、何度も思い返されていた。
ノラは鏡の前に座り、自身の顔を静かに見つめる。
正直に言うと、今のノラはマクシミリアンのその質問に何と答えればいいか分からなかった。
(祖国の訓練学校では、ヴァルキリアス帝国の前皇帝は悪魔だと習った……彼こそが戦争を引き起こした張本人のはずなのに、本当に……マクシミリアン前皇帝は悪魔なのだろうか?)
巣から落ちた雛鳥を思いやり、見知らぬ者にも気さくに接する好々爺な姿をノラに見せたマクシミリアン。ノラの目に、そんな彼の姿は、戦争を引き起こした『悪魔』だとは映らなかった。
マクシミリアンだけじゃない。マーガレットやヴィンセントのようなアルノルフォ公爵家の使用人達も、シンクレア侯爵夫妻とその息子も……そして、イヴァン・アルノルフォも。
この国で知り合った帝国人は、当初ノラが想像していた人物像とは違っていた。彼らもまた、戦争で大切な者を亡くしたのだということを、知ってしまった……
「…………」
ノラは祖国の教育で、ヴァルキリアス帝国がどれほど悪辣で、そして残酷かを教えられてきた。
でももし、それが間違いだとしたら?
ノラが見てきたものこそが、真実なのだとしたら……?
(祖国を裏切るわけじゃない……)
でも、帝国の彼らを信じたい気持ちもある。
ノラは苦悩に歪んだ顔で、奥歯を噛み締める。ノラは諜報員だ。真実が分からないのであれば、自分の手で真実を暴く。
ノラは覚悟を決めて、メイド服に身を包んだ自分を鏡で見つめながらモブキャップを深く被った。
やることはこれまで通り。イヴァン・アルノルフォを探り、真実に繋がる情報を掴むこと。
そのために、ノラはあの日入ることのできなかったイヴァンのプライベートルームに向かった。
慎重に自室から抜け出し、何食わぬ顔で使用人達に紛れて、イヴァンの執務室に到着する。ここまで誰にも疑われることなく、やって来れた。
ノラは執務室に入ると、すぐに息を潜めた。
(イヴァン・アルノルフォが屋敷の大半の時間を過ごしている場所……)
主人が不在の部屋はとても静かで、でもかすかに彼と同じ匂いが漂っていた。まるでそこに、イヴァンがいるかのように……ノラは思わず、大きく息を吸い込んで目を閉じる。
(……あぁ、もう。私ったら……)
そして悔しそうな顔で再び目を開けると、ノラは真っ直ぐにイヴァンのプライベートルームへと向かった。
前回は鍵が掛かっていた。また同じようにピッキングをしようと針金を鍵穴に差し込むのだが、すぐに異変に気付く。
ノラは針金を引き抜くと、試しにドアノブを捻ってみた。
(……鍵が掛かってない……)
前は確かに鍵が掛けられていたのに。
『君に俺の秘密を暴く勇気があるならば、どうぞ』
あの時のイヴァンの顔をどうしても思い出してしまう。
『覚悟を決めて、さぁ、入って』
(なるほど。これは、イヴァン・アルノルフォから私への挑戦なんだわ)
真実を知る覚悟があるなら入ってみろという、イヴァンからの挑戦状なのだ。
ノラは躊躇うことなく扉を開く。覚悟なんて、とうの昔にできている。
開かれた扉の先……ノラはまず、自身の鼻腔を刺激するツンとした刺激臭と香ばしく甘い匂いが混ざった独特な香りに気が付いた。
室内を見て、その香りの正体はすぐに分かる。そこには幾つものイーゼルが立ち並び、そのどれにもキャンバスが立てかけられていた。
(これ全部……あの男が描いたの……?)
デッサンが描きかけのキャンバスや、乾いた絵の具がこびり付いたパレットが置いてあるところを見るに、ノラは冷徹総司令官として名を馳せているイヴァンの意外な趣味を目の当たりにした。
(これがイヴァン・アルノルフォの言う、秘密?)
もしそうだとしたら拍子抜けだ。確かに軍人らしくない趣味だが、別に恥ずべき趣味でもない。
「……もし公爵家に生まれてなければ、彼は画家になっていたかもしれないわね」
ノラはイヴァンの絵を見て、素直にそんな感想を呟いた。それほど、彼の絵は繊細で美しく、思わず目が引き寄せられてしまう。
「でも、どの絵にも同じ少女が描かれているわ……」
そう、イヴァンは同じ少女を何枚も描き続けているらしい。それどころか、完成品だけでなく、同じ少女の横顔・笑顔・手元だけを描いた習作まである。
その光景に、あの男の執着心が絵の裏で見え隠れしているようだ。
「……十歳にも満たない小さな女の子……これは……花売りの少女?」
花カゴを持ち、路上に立つ少女のその絵を見つめていると、ノラはなぜか既視感を覚えるのだった。
(……どこかで、この絵を見たことがある……?)
けれどノラは今の今までイヴァンが絵を描くなんて知らなかったし、こんな絵を見た記憶はない。
不思議に思いながらも、他に何かないかと改めて部屋の中を見渡した。すると、立ち並ぶイーゼルの一番奥に、布を被せられたキャンバスがひっそりと置いてあった。
ノラは近付いて、緊張で高鳴り始めた心臓を押さえながらその布を取り払う。
すると、そこから現れたのは……
「…………え?」
『おいで、ノラ』
戦争で片腕を失った身体で、残された腕を大きく広げて、自分を慈愛の瞳で見つめながら優しく、そして力強く微笑む女性の姿を思い出す。
「……お母さん……?」
戦争孤児のノラを拾い、育ててくれた母がそこにいた。
彼女の記憶の中で優しく微笑む母とは違い、無表情で厳かな表情をしているが……確かにそれは、ノラの育ての母エレノラの肖像画だ。
(どうしてここにお母さんの絵が……? イヴァン・アルノルフォ……貴方はお母さんとどんな関係なの?)
イヴァン・アルノルフォの秘密とは一体……
その時、窓の外から微かに自動車の音が聞こえた。ノラはさっと身を隠しながら窓の外を見ると、どうやらイヴァンが帰ってきたらしい。
真実を暴くどころか、新たな謎が深まるばかり。ノラは後ろ髪を引かれる気持ちだが……最後にもう一度エレノラの肖像画に目を向けて布を被せる。そして、そのままイヴァンの秘密の部屋から出て行ったのだった。




