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「どうやら旦那様は、休憩に入るまでもう少しお時間がかかるようです。それまで皇宮を散歩などしながら待っていて欲しいとのことですが……いかがなさいますか?」
ヴィンセントが尋ねてくる。帰るか、待つか……ノラの答えは決まっていた。
「そうですか。では、旦那様のおっしゃる通り、散歩でもしながらお待ちしますわ」
その瞬間、ルシオの瞳の奥が鋭くなり、ヴィンセントの口角が僅かに上がった。それに気付かなかったノラは、その場から立ち上がると目の前のヴィンセントを見つめる。
「では、さっそく庭園でも散歩してきます」
「はい。ご案内いたします、奥様」
ヴィンセントにエスコートされながら、ノラ達はルシオを取り残して執務室を後にした。
部屋を出る前にノラはチラリと後ろを振り返る。ルシオがぶつぶつと文句を呟き、頭を掻きながら茶器を片付けている後ろ姿が見えた。
「……彼が気になりますか?」
「え?」
ヴィンセントの突然の質問に、ノラの意識はルシオからヴィンセントへと移る。
「母さんからお聞きになりましたよね、私が元軍人だということ。ルシオが入隊したおかげで、私も隊を辞めて公爵家に尽くせるようになったのですよ」
「まぁ。ルシオさんはとても優秀なお方なんですね」
試すような目つきのヴィンセントに対して、ノラは何も気付かないふりをして明るく笑ってみせた。
(公爵家にはヴィンセントがいる。そして軍にはルシオがいる……まるで、私がどこにいても見張っているとでも言うような……)
もちろん、ヴィンセントにそんなつもりがあるのかは分からない。
けれどあの男の言葉が、ノラにはどうしても牽制のように聞こえた。
そう思うと、ヴィンセントがやけに簡単に自分を軍部へ連れて行くと申し出た事が、とても皮肉に聞こえた。
皇宮の庭園へはすぐに到着した。
「……ここで結構です。あとは一人で近くを散策しておりますので、イヴァン様がお戻りになったらまた迎えに来てください」
今、ノラはちゃんと笑えているだろうか? 目の前のこの男に、腹が立って仕方がない。
(私を馬鹿にしやがって!)
ヴィンセントはじっとノラの偽りの笑顔を見つめた後、何も言わず静かに頭を下げた。
「かしこまりました、奥様。また後ほどお迎えにあがります」
ノラは返事をすることなくヴィンセントに背を向けると、一刻も早く彼から離れたい気持ちで庭園へと足を踏み入れたのだった。
(あー、腹が立つ)
ヴィンセントのあの余裕のある態度が気に食わない。ノラは気を鎮めるために、ひたすら庭園の奥へと歩いていった。
元々人通りの多くない庭園だった。むしゃくしゃした気持ちのまま歩いていると、いつの間にかノラの周りには全く人けがないことに気付く。
(……ちょっと皇宮の中でも覗いてみようかしら)
イヴァンが迎えに来るまでという時間の制約があるから大したことはできないだろうが、『道に迷った』範囲内で動けばそう疑われることもないだろう。
ノラは気を取り直して庭園の道順から大きく逸れていった。木々の間を通り抜けて再び開けた場所に出た時、ノラは目を開いて固まってしまった。
なぜなら、そこには木の根元にしがみつく老齢の貴族らしき男がいたからだ。
人目に付かないよう行動した途端に誰かと出会ってしまったと後悔していたノラだったが、どうやらその老人はノラに気付いていないようだ。両手両足を大きく広げて幹にしがみ付き、少しよじ登ってはズリズリと下に落ちていた。
(え……なにしてるの、あのじいさん……)
咄嗟に木陰に身を隠したノラは、少しの間、老人の様子を観察していた。
何度も無理を押して木登りに挑戦する姿を見つめていたノラだったが……それ以上見ていられなくなり、老人を止めるために近付いていった。
「おじいさん」
ノラは優しい笑顔と声色で、その老人に声を掛けた。
「何かお困りごとですか?」
老人は驚いた表情で後ろにいるノラを振り返り、その紫色に輝く瞳を丸くしていた。
「あ、いや……実は……」
まさか誰かに見られていたとは思ってもいなかったようで、老人は恥ずかしそうに笑いながら衣服の乱れを簡単に整える。
そして老人は、ノラの前で自身の手のひらを開いて見せた。するとそこには、生まれたばかりの一羽の雛鳥がピーピーと鳴いていた。
「どうやらあの木の上にある巣から落ちてしまったみたいでね。巣に戻してやりたいが、この体では中々難しいみたいだ」
老人は悲しそうに眉尻を下げて、目元の皺を深くさせた。ノラは老人が何度も木登りに挑戦していた理由を知り、心が温まり、ふっと笑った。
「おじいさん。今から見ることは、他言無用ですよ?」
雛鳥を老人から受け取ったノラは、ドレスの裾を軽く持ち上げる。そして、躊躇うことなく木の幹へ手を掛けた。
「えっ」
老人が声を上げるより早く、ノラはするすると幹を登っていく。その姿は、到底、公爵夫人には見えなかった。
老人はまたもや驚いた様子で、ノラが雛鳥を巣の中に返している姿をあんぐりと口を開けたまま見上げていた。
「お嬢さん、どこか怪我などは……」
高い木の枝から降りて地面に着地するノラに、老人が慌てた様子で声を掛けてきた。
「平気です。木登りは得意なので」
ノラは笑顔で答えながら、ドレスの裾を軽く手で叩きながら整える。
(本当は木どころか、外壁、天井、どこでもよじ登っていますので)
これまでの諜報活動を思い出しながら、ノラが心の中で皮肉を込めて笑っていると、ずっと驚いて目を丸くしていた老人が、突然大笑いしだした。
「すごいなぁ! こんなご令嬢は初めて見る!」




