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「奥様。そちらは旦那様の執務室ですよ」
ノラが執務室の前に到着して早々、何かをする前に背後からそう声を掛けられる。その声を聞いた瞬間、ノラは悔しそうに奥歯を噛み締めた。
「ご機嫌よう、ヴィンセントさん」
ノラは愛想よく笑顔を浮かべて、背後に立つ男を振り返った。
「イヴァン様にお会いしたくて来たの」
可愛らしい奥様にぴったりの理由を述べて、無害そうな無邪気な顔で笑ってみせると、笑顔を向けられたヴィンセントは相変わらず冷ややかな無表情で立っていた。
「旦那様は今朝から軍法会議に出席しており、本日は一日中不在です。今朝、朝食時に確かにお伝えさせていただいたはずですが」
その上、棘のある物言いでこちらを探るように見つめてくる。母親であるマーガレットと同じ瞳の色をしているくせに、どうしてこんなにも違うのか。
ノラはヴィンセントに見つめられると、無意識に緊張感を覚えてしまう。
(本当にこの男、いつもいつも私の邪魔をして……うざったいわね! 公爵家の執事長というより、まるで番犬だわ!)
これまで、ノラの潜入調査をこうしてヴィンセントに邪魔されたのは何度目だろうか? 思い出すだけで、腹立たしくてたまらない。
ウィンガード侯爵家のパーティーでエレンと再会した事で、二人の連絡手段は既に確立させてある。だからこそノラは、より多くの情報を流す為に、潜入調査に力を入れたいと考えていた。
「……あら、そうだったかしら?」
気を引き締めたノラは、可愛らしく小首を傾げながらとぼけてみせた。余計な事を尋ねられる前に、一刻も早くヴィンセントの視線から逃れたい。
「えぇ。ですので……」
ヴィンセントは静かに眼鏡の位置を指先で整えると、真っ直ぐノラを見つめながら言った。
「奥様が旦那様へお会いしたいと仰るなら、旦那様の職場……皇宮の軍施設へお連れいたしましょう」
「へ?」
ヴィンセントの思いがけない提案に、ノラは呆気にとられて素の表情で言葉をこぼした。
「え……軍施設?」
ノラは戸惑いながらも改めてヴィンセントを見る。彼はいつも通り落ち着いた様子で、ピシリと背を伸ばしたままそこに立っている。
「旦那様より仰せつかっておりますので。奥様の希望は全て叶えるように……と」
ヴィンセントの眼鏡が窓から差し込む光を受けて光っていた。
「ですから、奥様が旦那様にお会いしたいと仰るなら、その希望を叶えるのは私の仕事です」
表情ひとつ変えず淡々と締め括った後、、ヴィンセントはちょうど近くを通りかかったメイドを呼び止めて、ノラの外出準備をするようにと言伝ていた。
「奥様が旦那様へ差し入れに皇宮へ向かわれます。その準備を」
「はい!」
事情を聞いたメイドは、目を輝かせてハキハキと頷く。
側から見れば、新婚の妻が夫に会いに行くために職場へ差し入れをしようなんて、とても健気だ。メイドはノラの心境に反して、都合の良いように解釈し、明らかに期待に満ちた目でノラを見つめた後、その場からすぐさま駆け出した。
「皆、聞いて! 奥様が外出されるわ! 旦那様の元へ差し入れを理由に会いに行くのよ!」
「まぁ! 私達の敬愛する旦那様と奥様はお似合いの上、仲がとってもよろしいのね!」
「早くマーガレット様にお伝えしなくちゃ!」
メイドが角を曲がり姿を消した瞬間、そんな会話が聞こえてくる。
勘違いも甚だしいとノラはうんざりしながら心の中で大きなため息を吐く。しかし、今さら否定することも面倒に思い、その後の彼女は期待するメイド達に囲まれながら素直に外出準備に応じたのだった。
外出準備の最後に鏡の前で髪型を整えてもらいながら、ノラは考えていた。
(最初はヴィンセントの唐突な提案に驚きはしたけれど……よく考えれば、皇宮に忍び込めるということよね?)
鏡越しに映るマーガレットが、にこにこと微笑みながら、ノラの髪をハーフアップにして編み込んでいた。
(それも、軍部の心臓……イヴァン・アルノルフォの皇宮軍部執務室に……皇宮公式行事が行われるまでは、皇宮に訪れる機会なんて無いと思っていたのに)
いつかは皇宮に入り込むつもりだった。そのチャンスが、まさかこんなにも早く訪れるなんて。
そう考えると、この状況はノラにとってますます都合の良い状況に思えた。本来なら、軍部情報を掴む為に、まずはイヴァンから攻略しようと考えていたからだ。
(まさかヴィンセントからそのチャンスが転がってくるなんてね。私から言い出したわけではなく、ヴィンセントからの提案なのだから、流れもとても自然だわ。ふふ……なぁんだ。軍部に忍び込むなんて、簡単な事だったのね)
もしかしたら今日は一気に彼女が求めていた情報を掴めるかもしれない。そう、戦争を止めるために。戦争で周辺国を脅かす戦犯悪国家ヴァルキリアス帝国を打ち負かす為の情報が。
(帝国の戦争準備……新兵器の情報……絶対、戦争を止めるんだ)
ノラの上司であるヘブリス王国宰相のグランディエ公爵の指令を思い出しながら、ノラはつい難しい表情を浮かべていた。




