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イヴァンはすぐにエレンに背を向けると、まるで攫っていくかのようにノラを連れて小屋を後にしたのだった。
その場に取り残されたエレンは、イヴァンに対して漠然とした不安と警戒心を抱いていた。
(もしかして、俺とノラの正体に気付いている……?)
ノラから、イヴァンは恋に溺れる愚かな男だと聞かされている。
様々な懸念はあるが、今のイヴァンの態度だけで決め付ける事も出来ない。エレンは考えを改めた。
「……いや、もしかしたらただの、夫として妻に近付く男を警戒しただけ、かもな……」
そうであって欲しいと願いながら、エレンは静かに呟いたのだった。
庭師小屋から十分離れたというのに、イヴァンは抱き上げたまま、ノラを下ろしてはくれなかった。
イヴァンは一言も口を開かず、彼の腕は優しいはずなのに、その沈黙だけが恐ろしかった。
「……どうして私がいると分かったのですか?」
ノラはそわそわする気持ちを抑えられず、気付いたらそんな質問をしていた。
「皆さんと話し込んでいらっしゃったのに……」
ノラはそこまで言ってから、まるで浮気現場を見られたような気分になり、すぐに口を閉じる。どうして自分が気まずさを感じなくてはならないのだ。
そんな彼女にイヴァンは優しく笑いかけ、しかし侮れない目で見つめながら答えた。
「妻がどこにいても迎えに行くのが夫の役目だろう?」
イヴァンはノラを抱いたまま歩き続けるので、使用人達とすれ違うたび、驚いたような視線がノラへ向けられる。ノラは恥ずかしくなり、顔を伏せるように俯いた。
「あの……そろそろ皆さんがいる会場に着くので、下ろしてください」
「駄目だ」
イヴァンは即答した。ノラは信じられないといった表情で伏せていた顔を上げる。イヴァンを見上げれば、彼は余裕のある笑みを浮かべていた。
「妻が眩暈まで起こしたんだ。今さっき、君がそう言った……そうなんだろう? それとも、嘘だった?」
ノラの吐いた嘘が、彼女の首を絞める。
「…………嘘じゃ、ありません……」
ノラは本当の事を知られるわけにもいかず、大人しくイヴァンに抱かれるままとなった。
二人が会場に姿を現すと、やはり貴族達の注目を浴びてしまった。
イヴァンはノラを横抱きにする姿を大々的に周りに見せつけた後、ガーデン・パーティーの主催であるウィンガード侯爵夫妻の元へ訪れた。
先ほど、ノラと少しやり合ったウィンガード侯爵夫人も驚いた様子で、目を丸くしノラを見ていた。
「俺のか弱い妻が倒れてしまってね。彼女が心配だから、我々はそろそろお暇する」
イヴァンは侯爵夫妻にそう告げて、別れの挨拶をすると、彼らに背を向けて出口まで颯爽と歩き出した。
アルノルフォ公爵夫妻の早すぎる帰宅に、周りから残念がる声が上がっていたが、イヴァンは気にした様子もない。
それどころか、彼の関心は妻へと一心に注がれていた。
「ユリアナ。すぐに公爵家に戻って主治医に見せた後、最高級の滋養スープを俺が作ってやるからな」
と、イヴァンは愛おしそうにノラに笑いかけた後、抱いていたノラを持ち上げて、彼女の唇に口付けを落とすのだった。
「きゃああ!」
その瞬間、イヴァンの背中の向こうで、黄色い叫び声が上がる。二人のキスを目撃した若い令嬢が興奮した叫びだった。
ノラはイヴァンの不意打ちのキスに、顔を真っ赤にさせて目を見開いたまま固まっていた。
(なっ……⁉ 全く反応できなかった……)
スパイとして厳しい訓練に耐え抜き、同期の訓練生の中でも一番の成績だったノラなのに。今、不意打ちをくらい唖然とする事しか出来ないなんて。
「ひ、人前で……っ」
言葉は最後まで続かなかったが、ノラは真っ赤な顔のまま責める目でイヴァンを見上げる。イヴァンは涼しい顔で笑っていた。
「さっき、他の男と一緒にいた罰だ」
そう小声で囁かれたノラは、イヴァンがやって来たことでエレンと大した情報交換ができないままだったことを思い出してしまう。
(侮れない男だわ……イヴァン・アルノルフォ‼)
ノラはこの悔しさから今にも暴れ出したい気持ちをぐっと抑えて、しかし彼の腕の中で静かな闘志を燃やしていた。
そんな彼女を抱いたまま満足げな表情をしたイヴァンは、周りの色めき立つ声を背中にその場を去って行ったのだった。
◆
ガーデン・パーティーの夜、シンクレア侯爵家では家族三人が仲良く晩餐を楽しんでいた。
「それでですね、お父様。ユリアナ様は蛇に怯む事なく平然と掴んでしまい——」
息子が興奮して話す言葉に静かに耳を傾けながら、バスティアンはワインを一口飲んだ。
「公爵夫人は本当に素敵な女性だったの。今日は体調不良で早くに帰宅してしまったけど……また、お会いしたいわ」
妻までもが『ユリアナ・アルノルフォ』に夢中のようだ。
バスティアンはワイングラスをゆっくりと置いて、メイベルとアルベルトに優しい目を向けながら微笑む。
「そこまで君達が気に入った女性なら、またお会い出来るよう私の方で公爵に取り計らってみるよ」
バスティアンの言葉に喜ぶ二人。彼はその目を細めたまま笑顔を浮かべ、瞳の奥にある鋭さを隠してしまうのだった。




