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「恋人と夫婦は違う。お前は確かに公爵家へ潜入できたけど、俺が援護してやれない領域だ。今の状況はあまりにも危険すぎる」
ノラの単独潜入の危険性を案じているのか、エレンは真剣な目で彼女を見つめた。ノラは少しだけ、ムッとする。
「私だけじゃ、任務を遂行できないと思ってる?」
「いや、そうじゃなくて……」
真っ直ぐに見つめ返してくるノラから、エレンは目を逸らす。
「俺はただ、ノラが心配なんだ」
エレンはそう呟きながら、今ノラにひとつ嘘をついたことを自覚した。
心配なのは本心。でも、それだけじゃない。
(たとえ任務であろうと、お前が他の男の妻になるのは……)
エレンはずっとノラの側にいた。まるで兄妹のように、子供の頃から二人で力を合わせて生き抜いてきた。
エレンにとって、ノラを失うことは耐え難い絶望だ。彼女が死ぬくらいなら、自分が代わりに死ぬ。
これまで、兄として妹を守り続けてきた。でも、エレンの本心は……
(兄としてではなく、俺は、お前のことを……)
「——エレン、私は大丈夫」
ノラの明るい声が、エレンの思考を遮る。
「これまでだって、私が潜入任務に失敗した事はないでしょ? それに私は、エレンが育てた凄腕スパイなのよ!」
ノラはエレンの腕の中から顔を上げると、信頼に満ちた目でこちらを見つめた。そして、まるで雛鳥が巣立つかのように、ノラはそっとエレンの胸を押し返す。
「だから心配しないで、お兄ちゃん!」
ニコッと笑うノラに、エレンは言葉に詰まった。
(『兄』、か……)
エレンは言葉を飲み込んで笑った。
「妹が優秀で、俺は鼻が高いよ」
その笑顔はどこか寂しげだった。エレンは押し返されてしまった腕で、今度は兄としてノラの頭を優しく撫でてやった。
「ノラ。今後の事だけど、公爵家の屋敷に潜入は難しいから定期的に外で情報交換をしよう」
エレンは気持ちを切り替えて、ノラに今後の事について提案する。
「これからは、俺が定期的に蛇をお前の元に送るから、その翌日に外で落ち合うことにしよう。場所と時間は、蛇の体に暗号を残しておく」
「分かったわ」
ノラも真剣な顔で頷いた後、少し照れくさそうな表情で言葉を続けた。
「本当にもう、エレンは心配症ね」
いくら兄のような気心の知れた相手とはいえ、こうやってすぐに頭を撫でてきて……自分はもう立派な大人だというのに。
「いつまでも小さな妹扱いしてくるんだから……」
ノラの言葉に、エレンは揶揄うように笑った。
「なんだ、嬉しいのか?」
「うるさい、エレン!」
いつもの調子が戻ってくる二人。ノラがわざとらしく口先を尖らせながら怒ってみせて、エレンがそれを見て笑っていると、小屋の扉が静かに開いた。
「……っ!」
『彼』は、いつからそこにいたのか……二人が気付いた時には、もう遅かった。
(そんな……全く足音も気配も感じなかった……)
エレンが冷や汗を流す中、ノラもまた顔色を悪くしている。
二人は物陰に隠れていたままだったが、男は迷いのない声で呼びかけた。
「ユリアナ」
それと同時に、扉が静かに閉まる音がする。
イヴァンは優しい声で言葉を続けた。
「迎えに来たよ」
ノラがここにいると確信した様子のイヴァンに、彼女は観念して素直に彼の前に姿を現した。
「イヴァン様」
ノラに続き、エレンも物陰から姿を現した。
「そこにいたのか」
イヴァンは二人の姿を認めると、革靴を鳴らしながら近付いてきてノラをエレンの側から引き離すように彼女を抱き締める。
「……こんな小屋の中で、二人は何をしていたんだ?」
すぐにイヴァンの腕から解放されて安堵するノラだったが、続いて問いかけられた鋭い質問に、再びノラは肝を冷やす。
狭い小屋の中で、さらに二人で物陰に隠れていた。自分の妻が他の男とこんな密室で過ごしていたと知れば……
(不貞を疑われても、仕方がない……)
ノラは別の意味で青褪めながら、イヴァンの自分を真っ直ぐ見つめる金色の瞳を見つめ返した。
「じ……実は、夫人が庭に迷い込まれていたのでこちらで保護していました」
緊張感が張り詰める中、エレンが庭師のふりをしてイヴァンに言った。
「そ、そうなの! それで疲れて眩暈がしたから少し休ませてもらっていました」
ノラもすぐにその話に乗り、話を合わせる。
「そうか……君、俺の妻が世話になった」
イヴァンはノラを自身の後ろに追いやると、エレンに一歩近付いて、笑いながら礼を述べる。
しかし、すぐにその瞳が鋭く細められたかと思えば、不機嫌さを隠そうともせず、エレンの元へ更に近付いた。
「俺から『あの子』を奪えると、思わないことだ」
イヴァンの忠告を含んだ言葉が、エレンの耳元で囁かれる。
その瞬間、エレンの心にざらりとした感情が湧き起こった。
「では、俺達『夫婦』はここで失礼する」
イヴァンはそう言って、突然ノラを横抱きにする。
「イ、イヴァン様……!」
ノラは思わず焦った声を上げるのだが、イヴァンは構わずに彼女を軽々と抱き上げた。
イヴァンがチラリとエレンを見る。二人は目が合い、一瞬の無言が流れた。




