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「さぁ、奥様。お召し物を脱がれましたら、こちらへおいでください」
「マ……マーガレットさん……一体何を……?」
日が昇り始めた早朝、いつもより早い時間に起こされたノラは、不敵な笑みを浮かべて両手の指を怪しげにわきわきと動かすマーガレットと相対していた。
「お時間はそうございません。これから湯浴みしてお肌のお手入れが済みましたら、薔薇の香油で髪のケアをして、それに爪のお手入れも必要です……」
そう呪文のように唱えながらにじり寄ってくるマーガレットに、ノラは思わず顔色を悪くして後ずさる。しかし、マーガレットだけではなく数人のメイドもノラを包囲するように近付いてくるので、彼女にはどこにも逃げ場がなかった。
「その後は、足、手、それに全身マッサージまでしなくてはならないのですから!」
青褪めた表情で見つめるノラが何かを言う前に、マーガレットは目をギラギラと輝かせて合図を送るように両手を二回叩く。
「さぁ皆さん、素早く作業に取り掛かって! 私達の奥様を、帝国一の貴婦人に仕上げますよ!」
「はい、マーガレット様‼︎」
なぜ、朝からノラがこのような危機に陥っているかというと……
「——ユリアナ? 疲れた顔をしているが、大丈夫か?」
今日も青空が広がる温かく過ごしやすい昼下がりのこと。
ノラはイヴァンと共に、ウィンガード侯爵家の屋敷で開催されるガーデン・パーティーに参加していた。
「えぇ、朝から少し……いえ、大丈夫です」
ノラは早朝からの事を思い出して、優しい顔で微笑むイヴァンから目を逸らしながら苦笑いを浮かべた。
このパーティーに参加する為、ノラの支度はなんと五時間もかかった。凄腕スパイのノラでさえ、変装にここまで時間はかけない。
(……貴族の奥様って、思った以上に大変ね)
心の中で諦めに近いため息を吐いた後、ノラは隣に並ぶイヴァンへと目を向けた。
彼の金色の瞳はすぐにノラの視線を捉える。目が合った瞬間、イヴァンはノラの顔を覗き込むように少し屈んだ。
「庭園でのパーティーだし、体調が優れなければ無理しなくてもいい。帰るか?」
そんな気遣う言葉をかけてくれるイヴァンに、ノラは少しだけバツが悪い気持ちになる。イヴァンから目を逸らして、慌てながら否定した。
「いいえ、大丈夫です」
ノラは今日、このパーティーに目的を持って参加している。誤魔化すように、言葉を付け加えた。
「ただ、初めて夫と参加する社交なので緊張しているだけです」
ノラの『夫』発言に、イヴァンは見るからに気分を良くしたようだった。
嬉しそうに目を細めて「分かった。無理するなよ」と、ノラの頬にかかっていた髪をそっと優しく耳にかけてやった。
その瞬間、二人の周りが小さく色めき立つ。ノラが目を向ければ、若いご令嬢達が自分達を見つめながら頬を赤く染めて笑っていた。
今社交界で話題のアルノルフォ公爵夫妻の仲睦まじさに、ご令嬢達は憧れるような視線を送ってきていた。
ノラは周囲の勘違いぶりに苦笑を飲み込み、彼女達に微笑みながら軽く会釈をして、イヴァンと共にパーティー会場内を進んでいった。
夫婦でしばらく回っていると、イヴァンの元には仕事関係者の貴族達が自然と集まってきていた。その顔ぶれは豪華で、軍上層部の者、政治家、ヴァルキリアス帝国宰相までいる。
ウィンガード侯爵家も皇帝派に属する政治家の家門であるため、この顔ぶれが揃う事はここではそう珍しい事でもないのだろう。
「夫人、お噂はかねがね。私はバスティアン・シンクレアです」
帝国宰相のバスティアンが、イヴァンの紹介を通してノラに挨拶をしてきた。ノラは良き妻の慎ましい態度でバスティアンに挨拶を返し、純粋そうな笑顔を浮かべてみせた。
バスティアン・シンクレア。この帝国の侯爵であり、切れ者の宰相。エレンからは、イヴァンと同様に十分に注意を払うべき人物だと聞かされている。
「お会いできて光栄です、シンクレア侯爵様。私の噂とは……どんなものか気になりますね」
ノラは物腰柔らかな口調で笑いながら、少し軽口を交えつつ友好的な態度を示した。
バスティアンは銀髪に碧眼というイヴァンとはまた違った繊細そうな美丈夫なのだ。彼は楽しそうに笑ったが、しかしノラを見つめるその青い瞳は、どこか侮れないものを感じた。
「皆、悪いのだが。今日は妻と過ごすから、仕事の話は……」
眉を顰めたイヴァンが周りの者達を追い払おうと口を開いた時、ノラがそれを止めた。
「イヴァン様。せっかくですから皆様とお過ごしください」
正直、スパイの身からすれば、国の重鎮である彼らの会話に興味がある。
(本当なら、この場ほど価値のある情報源はない。でも、今日は欲張らない)
後ろ髪を引かれる思いだが、しかしノラの今日のミッションは別にある。
「私も他の夫人達へご挨拶してきます」
早まって王手をかける前に、周りから堅実に固めていくべきだ。ノラは今日、このガーデン・パーティーに参加する重鎮達の奥様達から攻略していくつもりだった。
そして、最優先人物こそ……
「あちらにちょうど、シンクレア侯爵様の奥様がいらっしゃいますわ。私もぜひ侯爵様の奥様へご挨拶して参ります」
ノラの視線の先にはバスティアンの妻、メイベル・シンクレアの姿があった。
バスティアンはニコッと明るく笑って「妻も喜びます」と、快くノラを送り出したのだった。
ノラがメイベルの元へ近付いていくと、彼女の側に小さな男の子がいる事に気付いた。バスティアンに似た顔立ちと銀髪。ノラはすぐにシンクレア夫妻の息子だと理解した。
ノラがメイベルに話し掛ける前に、彼女と少年はお互いに目を合わせた。
「初めまして」
声を掛けると、メイベルがこちらを振り返る。彼女のまん丸な紫の瞳に、ノラの姿が映った。
「突然お声がけしてすみません。私はユリアナ・アルノルフォです」
ノラは清楚な表情で穏やかに微笑みながら名乗る。その心は下心でいっぱいだ。
メイベル・シンクレアは驚いた様子でノラを見つめていた。
(さて。夫人の方は、夫と比べてどんな人物なのかしら?)
あの切れ者宰相が選んだ奥方なのだ。きっと、一筋縄にいかない人物だろう。ノラは挑むような気持ちで、メイベルの次の言葉を待つ。




