2-9
(いつの間に私の後ろに……⁉︎)
いくらピッキングに集中していたとはいえ、ノラなら誰か来たら後ろに立たれる前に気付く。それなのに、気配も物音も全く何も分からなかった。
この危機的状況を抜け出すため、ノラは必死に頭を動かして、何とか誤魔化そうと言葉を並べた。
「旦那様、申し訳ありません! まだ新人でして、この部屋の中にも洗濯物があると思い……!」
言い訳にしては、少し無理やりすぎるかと不安になるが、もうこれで通すしかない。変装しているとはいえ、ノラは少しでもイヴァンに顔を見られないように頭を下げるふりをして俯いた。
しかし、イヴァンの指がノラの顎に添えられて、クイと上を向かせられる。
イヴァンは余裕のある笑顔で、ノラを見下ろしていた。
「新人?」
「は、はい……」
ノラがゴクリと緊張から喉を鳴らして答えると、やっとイヴァンの手が離れていった。
「なるほど。確かに見ない顔だな」
そう言って、イヴァンは一歩下がった。それだけでノラの気持ちは幾分楽になる。
(よ、良かった……バレてない……)
ホッと息を吐いた瞬間、再びイヴァンの手が伸びてきて、ノラの瞼を親指でなぞるように何かを拭った。
「え⁉︎」
「ここ、汚れが付いてる」
イヴァンの予想外の行動に驚愕するノラだったが、理由が分かりすぐに取り繕うように笑顔を浮かべた。
「あ、ありがとうございます……」
さっき窓の枠にぶら下がった時にでも、汚れてしまったのだろうか。ノラは礼を述べながらも、ドキドキと緊張で早る鼓動が気になって仕方なかった。
「その部屋は俺のプライベートルームなんだ」
イヴァンは外出用の上着を脱いで、脇の棚の上に適当に投げ置きながら続けた。
「屋敷の一切の者達が立ち入り禁止の部屋……新人の君に、誰も教えてくれなかったのか?」
そして、シャツの袖、首元と順番にボタンをいくつか外しながら、イヴァンはこちらに視線を寄越した。緩んだ袖口や襟元から、腕の血管や首筋が覗いている。
何気ない仕草なのに、ついノラの目がそこへ向かってしまう。ノラは自身を律するように、慌てて小さく首を横に振った。
ノラは緊張した面持ちのまま改めてイヴァンを見上げると、小さく「私が先輩の話をちゃんと聞いていませんでした……」と、答えた。
イヴァンの金色の瞳に、青褪めるノラの表情が映っていた。
「入りたい?」
「……え?」
すっかりラフな格好になったイヴァンが、再びノラの目の前に立つ。そして、ノラの逃げ道を塞ぐように、彼女の後ろの扉に片手を付いた。
「その部屋に、俺の秘密がある」
イヴァンはこちらを試すような目つきのまま笑顔を浮かべて、腰を折るとノラと視線の高さを合わせた。
「新人メイドさん。君に俺の秘密を暴く勇気があるならば、どうぞ」
イヴァンの予想外の言葉にノラは目を大きく開いたまま、目の前のイヴァンを固まるように見つめる。
「覚悟を決めて。さぁ、入って」
イヴァンはノラの手へ腕を伸ばし、指を絡めるように彼女の手を掴んで持ち上げると、再びノラにドアノブを握らせたのだった。
目の前には、喉から手が出るほど欲しかった『絶好の好機』が転がっている。しかし、今ここでこの扉を開けてしまったら、本当にもう逃げられなくなるような気がした。
今の彼女に、イヴァンの秘密が眠るプライベートルームに足を踏み入れる勇気はなかった。
「だ、旦那様‼︎」
ノラは絡められた指を慌てて引き抜くと、叫ぶように続けた。
「本当に申し訳ありませんでした!」
そして、脱兎のごとくイヴァンの腕の中から抜け出し、そのまま部屋から飛び出して行ったのだった。
(残念。『君』になら俺の秘密を暴かれても良かったが……)
そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、イヴァンは可笑しそうにクスッと小さく笑う。
「……逃げ出す、か。どう足掻いたって、君は俺から逃げられないのに……」
イヴァンは親指に残った化粧の色を静かに見下ろし、熱をはらんだ瞳を細めたのだった。
ノラはそのまま、人目に付かないよう自室まで戻ると、メイド服を脱いでクローゼットの一番奥へと隠すように仕舞い込んだ。
まだ緊張で胸が高鳴っている。
ノラは洗濯メイドから奥様ユリアナに戻らねばと思い、メイクを施そうとして鏡の前に座った。
そして目を瞑り、大きく深呼吸をしてから、改めて鏡の中に映る自身を見る。すると、すぐに気付いた。ノラの片目だけ、メイクがすっかり取れてしまっていた。
「……ここって……」
ノラは青褪めた表情で、暫く自分の顔を凝視していた。
『ここ、汚れが付いてる』
先ほど、イヴァンが拭ってきた場所だ。
「も、もしかして……」
気付いたの? ノラの心臓が冷えていく中、同時に疑問も浮かぶ。
もし気付いたなら、どうして最後まで気付かない振りをしたのだろう?
「……大丈夫、だよね……?」
ノラは何度も鏡の中を見返した。
どこまで見抜かれていたのか、分からない。
「いや、落ち着け。まだ正体がバレたと決まったわけじゃない……」
鏡の中に映るぎこちない笑顔を見つめながら、自分にそう言い聞かせたのだった。
何はともあれ、ノラの当初の目的だった公爵家の見取図は、半分以上は埋められそうだ。
この調子で、ノラはこれからもこの魔窟のような公爵家で潜入任務を……
「…………エレーン……」
あまりの大変さにノラは少しだけ泣きべそをかきながら、兄の名前を呼んだのだった。




