第7話 煙の中の契約
扉が開いた瞬間、空気が動いた。
部屋の中に溜まっていた煙が、薄く波を打って流れる。煤の匂いが一段と濃くなり、奥に潜んでいた甘い腐臭が、遅れて顔を出した。
コンラッドは一歩で足を止めた。
表情は変わらない。だが、肺に入った最初の呼吸で、何かを悟ったようだった。喉仏がわずかに上下する。吐き出す息が、長い。
「‥‥火事ですか」
平坦な声だった。
問いではなく、状況の確認。
アメリアは振り向かずに答えた。
「いいえ。処分しておりました」
「何を」
火鉢の中で、まだ炭が鳴いている。ぱち、ぱち、と乾いた破裂音が、沈黙の合間を埋める。
「衣類を」
アメリアは火箸で灰を均した。崩れた塊を、さらに砕く。形を残さないための手つきは、もう自然に身体に馴染んでいた。
「お嬢様の」
コンラッドは部屋の奥へ進んだ。
靴底が灰を踏む。薄い粉が舞い上がり、彼の黒い外套に付着した。彼はそれを払わなかった。視線は火鉢と、その前に立つアメリアの背中に向けられている。
煤で汚れた頬。髪の端に絡んだ灰。袖口に染みた黒い斑。
そして、匂い。
焼けた布の匂いではない。
それはもっと重く、もっと湿っている。体内に入り込むと、記憶の底を引っかくような臭気だった。
コンラッドの手が、剣の柄に触れた。
握るまではいかない。触れるだけ。だがその指先に、騎士としての習性が滲んでいた。
「‥‥重い」
火鉢を見下ろし、彼は呟いた。
炭にしては、音が鈍い。灰にしては、沈み方が遅い。何かが、底に沈んでいる。
アメリアはようやく振り向いた。
笑ってはいない。だが表情は崩れていなかった。
「ええ」
「布だけでは、こうはならない」
「そうでしょうね」
コンラッドの眉が、わずかに動いた。
追及の言葉を選ぶ、その一瞬のためらい。相手が「お嬢様」であるという前提が、まだ彼の舌を縛っていた。
「‥‥何を、燃やしたのです」
アメリアは火箸を火鉢の縁に掛けた。
指先が黒く染まっている。爪の間にも灰が入り込み、どれだけ洗っても取れない色になっていた。
「過去を」
コンラッドは息を止めた。
言葉の意味ではなく、その言い方に反応したのだろう。目の奥で、何かがきしんだ。
「王家の、ですか」
「わたくしの」
返答は静かだった。
嘘ではない。だがすべてでもない。
部屋の隅で、セドリックが動いた。ようやく立ち上がったらしい。だが足取りは不安定で、壁に手をつきながらこちらを見ている。
その視線は、コンラッドではなく、アメリアに向けられていた。
見せたくない、とでも言うように。
この煤にまみれた顔を、この匂いを、誰かに知られたくないとでも言うように。
「‥‥お嬢様」
コンラッドの声が低くなる。
「何が起きたのか、説明を」
「なぜ?」
「あなたを守るためです」
その言葉に、アメリアはわずかに首を傾げた。
守る。
誰から。
何を。
問いは口に出さなかった。ただ、火鉢の中を一度見下ろし、それからコンラッドの目をまっすぐに見返した。
「守れませんよ」
「‥‥」
「もう、戻れないところまで来てしまいました」
煙が二人の間を漂う。
煤の粒子が光を遮り、輪郭を曖昧にする。その中で、アメリアの瞳だけが妙に澄んで見えた。
「わたくしは、王家を赦しません」
言葉は落ちるように置かれた。
怒りでも、悲嘆でもない。ただの決定。
「お嬢様‥‥」
「コンラッド。あなたも見たでしょう」
アメリアは自分の手を差し出した。
灰に汚れた指。焼けた匂いが染みついた皮膚。
「これが、わたくしの選んだ道です」
半分だけ真実。
残りの半分は、煙の奥に沈めたまま。
コンラッドは剣から手を離した。
代わりに、ゆっくりと膝を折る。灰が舞い、外套の裾が床に触れる。
その動作に迷いはなかった。
違和感はある。匂いも、重さも、すべてが理屈に合わない。それでも彼は、目の前の存在を否定しなかった。
否定できない理由が、彼の中にもう生まれていた。
それは忠誠ではない。
狂信でもない。
もっと個人的な、もっと歪んだ何かだった。
「共に、参りましょう」
コンラッドはアメリアの手を取った。
灰が彼の指に移る。焼けた臭気が、彼の呼吸の中へ入り込む。
彼はそれを避けなかった。
そのまま、手の甲に口づけた。
冷たい灰の味がしたはずだ。
それでも彼は顔を上げなかった。
復讐への契約は、すでに成立していた。
背後で、セドリックの指が白くなるほど拳を握りしめていた。




