第8話 清潔な朝の匂い
朝は、思っていたより明るかった。
窓の外では馬車の車輪が石を擦り、遠くでパンを焼く匂いがする。人の営みは、どこにも途切れていなかった。昨日の夜に何が燃え、何が失われたのかなど、この街は知らない。
アメリアは洗面台の前に立っていた。
桶の水はまだ冷たい。顔を浸すと、皮膚の奥にまで刺さるような感覚が走る。目を開けたまま息を止め、数を数える。
一。
二。
三。
顔を上げると、水面に歪んだ自分が揺れていた。
清潔な朝の光の中で、その顔は不自然なほど整っている。頬に煤は残っていない。髪も整えた。唇も色を差した。
だが、爪の間だけが黒い。
指先でこすっても、取れない。洗っても、削っても、残る。昨日の夜の音と匂いが、そこに固まっている。
アメリアは布で手を拭き、香水瓶を取った。
蓋を開ける。濃い花の香りが一気に広がる。甘く、重く、執拗に残る匂いだった。喉の奥が焼けるように感じるほど、強い。
首筋に一滴。
手首に一滴。
そして爪の間にも。
塗り潰す。
死の匂いを、日常の匂いで。
背後に気配があった。
セドリックは扉にもたれ、腕を組んでいる。顔色はまだ悪い。だが目だけが妙に冴えていた。眠っていないのだろう。
その視線は責めるものではなかった。
むしろ、罰を受ける者のそれだった。
アメリアの指先が動くたび、彼の喉がわずかに上下する。香水の匂いが、彼にとっては昨日の夜の続きにしか思えないのだろう。
「……強すぎる」
彼は言った。
「ええ」
「誤魔化せると?」
「誤魔化すのではありません」
アメリアは振り向かずに答える。
「上書きするのです」
鏡の中で、彼女は微笑んだ。
その微笑みは清潔だった。罪も煙も存在しないかのような顔。
だからこそ、爪の黒が際立つ。
「登城の支度を」
セドリックはそれ以上何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
この女を止める権利も、資格も、すでに自分は失っていると理解していた。
王宮の大広間は、昼の光で満ちていた。
人々はざわめき、音楽が流れ、杯が触れ合う。昨日の夜の煙など、この空間には一片も残っていない。
ルドルフ王子は笑っていた。
椅子に深く腰をかけ、片足を組み、手にした杯をゆっくりと回している。その視線はまっすぐアメリアに向けられていた。
「死者が歩くとは、便利な国だな」
周囲に聞こえるように言う。
笑いが起きる。誰も本気にはしない。ただの王子の悪い冗談として処理される。
貴族たちは彼を恐れているが、好いてはいない。
アメリアは礼をした。
完璧な角度。完璧な間。
「ご期待に添えたようで、光栄です」
ルドルフは楽しそうに目を細めた。
もう驚いてはいない。恐れてもいない。むしろ慣れ始めている。死んだはずの女が生きているという異常に。
だから次は、壊す段階だ。
「毒草の話を覚えているか」
彼は不意に言った。
「昔、庭で話したな。お気に入りがあると」
罠だった。
思い出の共有を装った、確認の刃。
アメリアは一瞬だけ瞬きをした。
ほんの一瞬。だが王子は見逃さない。
「……どれのことでしょう」
「ほら、紫の」
ルドルフは指先で空をなぞる。
「触れれば痺れるが、香りは甘い。君はそれを愛でていた」
周囲の貴族たちは興味なさげに杯を傾けている。だが空気は静かに締まっていた。
アメリアは一歩近づいた。
香水の匂いが揺れる。
死の上書き。
「覚えております」
「名前は?」
王子の瞳が光る。
彼は壊れる瞬間を待っている。
アメリアはさらに距離を詰めた。
耳元に唇が触れるほどに。
そのまま囁く。
「あなたですわ」
息が止まる距離。
噛みちぎる寸前の近さ。
「わたくしが最も愛した毒は」
彼女は微笑んだ。
「あなたでした」




