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第6話 お嬢様

 刃を入れる前に、アメリアは袖をまくった。


 ためらいがない、というより、ためらっていられる時間がもう残っていなかった。寝台の上に横たえたアンネローゼは、白い。頬も、まぶたも、指先も、光の当たり方ではなく、内側から色を失っている白さだった。昨日までそれを支えていた熱だけが、どこにもなかった。


 窓は閉め切ってある。なのに、甘い匂いが薄く漂っていた。花ではない。茶でもない。吐きそうになるほど微かな、それでいて鼻の奥にへばりつく、濁った甘さだった。


 セドリックは壁際に立ったまま、動かなかった。


 立っている、というより、そこに打ちつけられているようだった。青ざめた指が剣の鞘を握っている。握ったまま、抜くことも、捨てることもできずにいる。


 アメリアは視線を上げなかった。


「持ち上げてください」


 返事はない。


「セドリック様」


 ようやく、彼の肩が小さく震えた。足が寝台へ近づき、途中で止まる。アンネローゼの顔を見たのだろう。喉の奥で、何かが詰まる音がした。


 それでも彼は、両腕を差し入れた。


 遺体は重かった。


 生きていた頃より、ずっと重い。力を抜いた身体は人の形をしていても、もう人の都合では動いてくれない。肩が落ち、首が傾き、腕が遅れて揺れるたび、セドリックの顔色がさらに悪くなっていく。寝台から床へ移す、それだけの動作で、彼の呼吸は乱れた。


 アメリアは敷布を剥がし、下に油紙を広げた。指先が汚れる。気にしない。汚れた指で結び目をほどき、箱を開け、布を裂いて紐にする。どれも、お嬢様のために覚えた手つきではなかった。ただ、見つからないための手つきだった。


 証拠品を、証拠でなくすための。


「‥‥やめろ」


 低い声だった。


 懇願にも、命令にもなりきれない、削れた声。


 アメリアは箱の中から小さな瓶を取り出し、蓋をひねった。油の匂いが立つ。


「やめて、どうなさるのです」


「それを、その手で‥‥」


「この手しか空いておりません」


 瓶の口を傾ける。布に油が染み、色が深くなる。見ていればただの作業だった。洗濯物に水を含ませるのと、動きだけなら変わらない。


 そのはずだった。


 背後で、えずく音がした。


 振り向くと、セドリックは片手で口元を押さえ、もう片方を壁についていた。肩が大きく上下している。目は閉じられないらしく、見たくもないものを、まばたきだけでやり過ごそうとしていた。


 軽蔑しているのだ、とアメリアは思った。


 自分をではなく、この場に立ち尽くしている自分自身を。そして、それ以上に、刃も火も握れないくせに、その場から去ることさえできない自分を。


 アメリアは火鉢に炭を移した。乾いた音が鳴る。火箸の先が触れるたび、赤い腹が崩れ、灰がうっすら舞った。


 その火鉢は、暖を取るためのものではなかった。

 古い屋敷で疫病の衣類を焼くために据えられた、深く、底の厚い焼却炉だった。


 煙は、最初は細かった。


 布の端が黒く縮れ、次に油を吸ったところから、じゅ、と濡れた音がする。火は一度ためらうように揺れて、それから急に食いついた。布が沈み、白が黒へ、黒が橙へ変わっていく。


 肉の焼ける匂いは、すぐにわかった。


 料理の香りに似ているのに、決定的に違う。喉が閉じる。舌の裏に苦いものが溜まり、胃がゆっくりと持ち上がる。アメリアは口を閉じ、鼻からだけ息をした。吸えば匂いが入る。吸わなければ手元が狂う。


 背後で、何かが床に落ちた。見るまでもなく、セドリックの剣だとわかった。


 次いで、膝をつく鈍い音。


 それでも彼は泣かなかった。泣くことすら許されていない顔で、床板を見つめているだけだった。床の節目を数えているのかもしれない。目の前で形を変えていくものから、視線をそらすために。


 火は静かではなかった。


 小さな破裂音を繰り返し、脂の混じるところで時折高く鳴いた。煙が部屋の天井へ溜まり、蝋燭の明かりを鈍らせる。アメリアの髪にも、袖にも、匂いが移っていく。洗っても落ちないだろうと、先にわかった。


「おまえは‥‥」


 床を見たまま、セドリックが言った。


「何なのだ」


 アメリアは火箸を動かした。崩れた箇所を寄せる。形が残れば残るほど、あとが悪い。


「メイドです」


「そんなものが、あるか」


「ございますよ。片づける者です」


 返事のあとに、しばらく音だけが続いた。


 ぱち、ぱち、と炭が鳴る。湿った何かが潰れる鈍い音。セドリックの呼吸。煙に押されてきしむ窓枠。どれも耳に残るのに、言葉だけが残らない。


 そのとき、扉の外で床板が鳴った。


 一歩。止まる。


 アメリアの手が止まるより早く、セドリックが顔を上げた。血の気の引いた顔が、一瞬で強張る。


 今の足音は軽かった。兵ではない。侍女でもない。歩幅に無駄がなく、躊躇もない。ここへ来ることに慣れている者の足取りだった。


 コンラッドだ。


 アメリアは火鉢の蓋を半ばまで落とし、立ち上がった。煙は消えない。匂いも消えない。扉の隙間一枚で隠せる段階は、もう過ぎている。


「お嬢様?」


 外から声がした。


 柔らかい。いつも通りの、穏やかな声だった。


 だからこそ、部屋の中の腐った熱と決定的に噛み合わなかった。


 アメリアは一歩で鏡台の前に寄り、布で頬を拭った。拭った布に、灰と煤が移る。口元にも何かついていたらしい。指の腹でなぞると、黒と赤が混じった。


「お嬢様、よろしいですか」


 扉に、控えめなノックが二度。


 セドリックは立てなかった。床に片膝をついたまま、扉と火鉢を見比べ、何ひとつ選べない目をしていた。彼の聖域は、もう部屋のどこにもない。白い手も、静かな横顔も、祈るような微笑みも。残っているのは、熱に縮み、黒く沈み、名前を剥がされた塊だけだった。


 アメリアは鏡を見た。


 煤で汚れた額。頬に細い灰。唇だけが妙に赤い。ひどい顔だった。けれど口角を持ち上げると、それだけで輪郭が変わる。まぶたの開き方を少しだけゆるめ、顎をほんのわずかに引く。


 お嬢様は、こうして笑った。


 何度も練習した笑顔が、こんな場所で一番よくできたことに、アメリアは少しだけ可笑しくなった。


 扉の前で、コンラッドが息を潜める気配がある。中の返事を待っている。


 アメリアは振り向いた。


 火鉢の隙間から細い煙が立ちのぼっている。床には灰が落ち、セドリックの手はまだ震えていた。部屋の中にはもう、アンネローゼと呼べる形のものはどこにもなかった。


 だからアメリアは、今日いちばん美しく笑った。


「お嬢様は、もうどこにもいらっしゃらない」


 その声が落ちた直後、扉の向こうで、取っ手が静かに回った。


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