第5話 白と泥のあいだ
広間を出た瞬間、音が遠ざかった。
人の声も、衣擦れも、笑いも、すべてが一枚の布の向こう側へ押しやられたようだった。石の廊下の冷えた空気だけが、現実の重さを取り戻させる。
アメリアは歩き続けた。
歩幅を崩さない。背筋も曲げない。アンネローゼは、人前で足を止めることがなかった。どれほど疲れていても、視線を下げることがなかった。
だが角を曲がり、誰の目も届かぬ細い回廊に入ったとき、ようやく足が止まった。
手袋越しの手が、わずかに震えている。
そこへ、王子の指が触れた。
触れられた場所だけが、皮膚の下で鈍く残っている。
アメリアは無言で手袋を引き抜いた。
指先からゆっくりと。絹が擦れる音が、小さく響く。
露わになった手の甲は白い。けれど、その白さは聖なるものではない。血の気が引いただけの、ただの色だった。
袖口で、強く擦る。
一度。
もう一度。
骨の上の皮膚が熱を帯びる。擦るほどに感覚が遠くなる。それでも止めない。触れられた痕跡を、指の形ごと消したい衝動だけが動きを続けさせる。
「‥‥やめろ」
背後でセドリックが言った。
振り返らない。
「皮が剥がれる」
「剥がれればいいわ」
擦る。
さらに擦る。
薄く赤が浮く。
その色を見て、胸の奥に別の色がよみがえる。
白。
白い朝。白いカップ。白い喉。
アンネローゼは、いつも白の中にいた。光の中で笑い、光の中で言葉を選び、光の中で人を赦した。
自分は泥だ、とアメリアは思う。
その白に足跡をつけたのは自分だ。踏み荒らしたのは自分だ。だから、触れられた痕も、血も、すべて自分の側に引き受けるしかない。
「見ているだけか」
掠れた声で言う。
「止めないの」
セドリックはしばらく黙っていた。
やがて近づき、袖口を掴む。強くではない。だが逃げられぬ力で。
「‥‥それ以上やれば」
「何」
「握れなくなる」
その言い方は、叱責ではなかった。
ただの事実だった。
アメリアは手を止めた。
袖を離されると、空気に触れた皮膚がじんと脈打つ。赤くなった部分だけが、自分の体から浮き上がっているようだった。
「戻るぞ」
セドリックが言う。
「まだ用は終わっていない」
廊下の奥から足音が近づく。
ゆったりとした歩み。急ぎもしない。隠れもしない。
二人は同時に顔を上げた。
現れたのはコンラッドだった。
深い色の外套を羽織り、肩にかかる髪はいつものように整えられている。商人の顔をした男だ、とアメリアは思う。感情を棚に上げ、計算だけを胸に抱いて生きている顔。
その視線が、まっすぐこちらへ向く。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、瞳が揺れた。
「‥‥アンネローゼ様」
声は低い。
だが、そこには礼も、親しみも、決められた距離も、すべてが混ざっていた。
アメリアは微笑む。
「コンラッド」
名を呼ぶ。
喉の奥で、乾いた音がした。
コンラッドは近づく。
足音は静かだ。だが、一歩ごとに床の上の空気が重くなる。逃げ場を塞ぐような歩き方だった。
「お顔の色が優れません」
「少し疲れただけよ」
「殿下に、何か」
「いいえ」
間を置かずに答える。
沈黙が落ちる。
コンラッドの目が、アメリアの指先に触れる。擦りすぎて赤くなった皮膚。手袋を片手に持ったままの姿。そこからゆっくりと顔へ戻る。
「‥‥おかしなことを」
呟くように言う。
「なさらないでください」
それは忠告にも、命令にも聞こえた。
アメリアは首を傾ける。
「おかしなこと?」
「あなたは」
そこで言葉が止まる。
コンラッドの喉仏が一度動いた。
言うべきことを飲み込んだのだと、わかった。
違和感はある。
だが確信はない。
ならば、その隙間に別のものを流し込めばいい。
「‥‥城は、穏やかではないわ」
アメリアは静かに言う。
「白い顔をした人が増えた気がするの」
コンラッドの瞳がわずかに細まる。
「夜も、よく眠れない」
「それは」
「夢を見るのよ」
言葉を重ねる。
「喉を押さえて、声も出せずに倒れる夢」
沈黙。
その沈黙が、確信に変わる瞬間を、アメリアは見た。
疑念が、別の方向へ向いた。
偽物かもしれない。
だが、壊れかけているのは本物と同じだ。
ならば守らねばならない。
そういう狂信が、コンラッドの奥で芽を出す。
「‥‥部屋へお戻りください」
低く言う。
「ここは、空気が悪い」
「ええ」
微笑む。
「そうするわ」
コンラッドはそれ以上何も言わず、道を開けた。
すれ違う瞬間、彼の外套が腕に触れる。硬い布の感触。人の体温。現実。
廊下を抜ける。
屋敷へ戻る馬車の中で、セドリックは一度もアメリアを見なかった。
ただ、向かいに座り、拳を膝の上に置いたまま、奥歯を噛み締めている。その筋が頬に浮かぶたび、何かを吐き出したい衝動を押し殺しているのがわかる。
「‥‥あの方の形をした」
ようやく言う。
「化物だ」
アメリアは窓の外を見る。
流れる景色は灰色だった。
「そう」
「それでも」
言葉が途切れる。
続けることを、彼自身が拒んでいる。
だが視線は動く。
アメリアの指先へ。擦りすぎた皮膚へ。手袋のない手へ。
触れない。
だが目は逸らせない。
その矛盾が、馬車の中に重く沈む。
屋敷に着く。
扉が閉じられる。
廊下を進む。
幕の陰の部屋へ入る。
カーテンは、朝のままだった。
アメリアは近づく。
布をそっとめくる。
そこに、アンネローゼがいる。
白いまま。
朝のまま。
時間に取り残されたように、何も変わらず横たわっている。
胸の奥で、何かが静かに崩れる。
「‥‥遅くなりました」
誰に向けた言葉でもない。
卓の上に置かれた燭台に手を伸ばす。
火打石を打つ。
小さな火が灯る。
揺れる光が、白い頬を照らす。
アメリアは刃を取った。
指に重さが伝わる。
この白を守るために、この白を消す。
泥の役目は、それだけだ。
静かに息を吸い、刃先を見つめた。




